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【怖い話】 赤い隣 【「禍話」リライト80】



「隣の家には、若いご夫婦が住んでるんですけどね」
 社会人数年目のAくんは、そう語りはじめたという。
「そのお隣の様子がおかしくて、そのせいなのか妹が少し、変になってしまったような気がして──」

 2020年の初頭の話である。
 当時、Aくんの家にはお父さんとお母さん、それに大学受験を控えた妹さんがいた。
 隣の夫婦は30歳手前。Aくんが知る限りでは、隣家が事故物件だとかそういう噂はないそうなのだが。




「最初は、妹が妙なモノを見たって言いはじめて」
 妹さんは受験勉強に励んでいて、その時期は夜中まで起きていることが多かった。夜更かしはさほど苦にならない様子だった。
 ある日の夜のこと。
 Aさんの部屋のドアがノックされた。返事をするとドアが開く。
 妹さんが怪訝な顔をして立っていた。

「ねぇお兄ちゃん……隣さ、最近なんか、変なんだけど……」
「隣が? どう変なんだよ」

 妹さんが言うことには。
 夜型人間の若者とは言え、さすがに眠気や疲れは感じる。そんな時は机にしがみついていた体を伸ばして、音楽を聴いたりマンガを読んだりして休む。
 つい先日のこと、深い意味もなしに部屋のカーテンを開けてみたのだそうだ。
「気分転換に、深夜の静かな風景でも見てみようかな、ってさ」
 Aくんと妹さんの部屋は2階にある。
 お隣とは、妙に細くて袋小路になっている変な道を挟んでいるだけ。ほとんど隣合わせと言える。
 塀も低いため、隣家の横がほぼ全部見通せるのだという。

「そしたら隣の家がさぁ……真っ赤だったんだよね」
「真っ赤? なにそれ。どっかの部屋が赤いの?」
「ううん。全部。窓も壁も屋根も、雨どいとかアンテナやなんかも、家全体が真っ赤で……」

 庭に大きなライトでも置いてあるのかなと思ったが、そんなものは見当たらないし、塀の陰にも光の出所らしき箇所がない。
 第一、深夜である。しかも家の正面ではない。横だ。赤くライトアップする理由などない。
 妹さんいわく、それがここ数日続いているという。

 Aくんはえぇ? と呟きつつ自室のカーテンをちらと上げる。
 隣家は闇の中でひっそりとしていた。
「今はね、真っ暗なんだよ。っていうか『わっ赤い!』って目をそらしたりさ、カーテンを閉めてもっかい開けたりすると、」
 妹さんは顎で外を示す。
「そんな風に元に戻ってるんだよね……ちょっと、気味悪くない?」
 妹さんは不安そうに目を泳がせる。
「そりゃまぁ確かに、気味悪いなぁ」
 Aくんはにわかには信じられなかった。しかも数秒目を離すと暗くなっているというのだ。輪をかけて信じがたい。
 隣の家よりもむしろ、妹さんの方が心配になってくる。受験勉強に根を詰めすぎて、幻覚でも見ているのではなかろうか?
 お前、疲れてんのかもしれないから、あんまり無理すんなよ、と釘を刺しつつ、
「じゃあ近いうちに、思い出した時に外、見てみるからさ」
 と約束をした。



 それから数日の間、Aくんは夜の布団の中で、カーテンを開け閉めする音をかすかに聞いた。
 壁越し、妹さんの部屋からである。
 ──あいつすげぇ気にしてるな……。まさか受験でノイローゼになってるんじゃないよなぁ……
 Aくんはそんなことをつらつら考えつつも、布団からいちいち起き出して確認するのも億劫なので、そのまま寝てしまうのだった。


 金曜の夜のことだった。
 明日は土曜日、休みなのでAくんは、少し夜更かしをした。ゲームをやりネットを眺めていると、あっという間に時間が経った。時計を見ればもう2時を過ぎている。
 ふと、妹の話を思い出した。
 そういえば今夜は、妹の部屋からカーテンを開閉する音が一度もしない。早めに寝たのだろうか。
 じゃあ、俺が見てみようかな…………

 Aくんは立ち上がって窓のそばへ行き、カーテンに手をかけた。
 ──家が赤くなってるなんてな。そんなバカなことあるわけないよな。

 シャッ、とカーテンを開いた。
「えっ」 
 Aくんの目は、隣の家に釘づけになった。

 家は、赤くなかった。
 部屋の窓から見えるほぼ全部が、闇夜に沈んでいる。
 しかし代わりに、2階のひと部屋に煌々こうこうと明かりがついていた。白色の、普通の明かりである。
 深夜だというのに、カーテンが閉まっていないのだ。
 その部屋はちょうど、Aくんの部屋の真向かいに当たる。だから中がよく見えた。
 壁と、クローゼットの扉みたいなものがある。窓ガラスがわずかに、こちらの部屋の明かりを反射させている。両脇には寄せられたカーテンが束ねてある。
 人の気配はない。


 ──2時過ぎだぞ? カーテン開けっぱなしで、しかも電気がついてるとか……なんでだ?
 室内に誰もいないのをいいことに、Aくんはまじまじと、隣家の2階の一室を覗き見続けた。


 そのうちに、見つけた。
「あっ……」
 右に寄せられたカーテンの束を、掴んでいる指先がある。
 人がいる。
 
 気づいた直後だった。
 その右側から、ぬっと人間が半身を出した。
 
 Aくんの口から「うわっ」と声が出てしまった。
 女だった。
 隣家の若い奥さんではない。髪型は一昔前で、服も古びて見える。
 驚いたのは女の顔である。
 顔中が真っ赤だった。
 べにか絵の具か、とにかく赤いものを顔面にべっとりと塗りたくっている。
 瞳はどこも見ていない。呆けたように遠くに投げかけられている。


「うわ……うわぁ……」
 気分の悪くなったAくんが身を引く。
 それに合わせたように、女の口が開いた。


 唇がゆっくりと動く。
 一文字。
 また一文字。
 こちらに唇の動きがわかるように

 あの女、単語か文章をこっちに伝えようとしてる。
 俺に何かを、理解させようとしてる。


 ぞっとしてカーテンを引き閉めた。これ以上は「何と言っているのか」がわかってしまいそうだった。

 あれは誰なのか。知らない女だった。どうして隣にいるのか? 部屋の明かりがついているのは。隣の夫婦はどうしてる?

 頭の中がごちゃごちゃして、体に寒気が走る。
 混乱しきっていたその時だった。
 コン、コン、とドアがノックされた。
 びくりと体が震えたものの、叩き方からして妹だとわかった。
 ──もしかして、俺が「うわっ」とか言ったのが聞こえちゃったのかな……


「ど、どうした? いいよ、開けて」
 Aくんが応じると、ドアが開く。
 暗い廊下に、妹さんが立っていた。

 彼女は黙って、Aくんを見ていた。
 沈黙に耐えきれなくなったAくんは尋ねた。
「……なに?」
「見た?」
「え?」
「見た?」
 妹さんは短く、そう聞いてきた。
「……おぉ、うん。見た見た……。あの、隣な。赤くはなかったけど、部屋に電気がついてて、女の人がいてさ」
「そうだったね」
「カーテン全部開けてさぁ。妙だよなぁ。あとほら、あれメイクなのかな? 顔全体、赤くしてて、な?」
「うん、そうだね。それで?」
 妹さんは、Aくんにじっと視線を合わせている。
「それで、って……」
 残っているのは、口が動いたことぐらいだ。だが怖くて、それを言う気にはなれなかった。
「いや……気持ち悪い女がいたな、って」
「それだけ?」
「え?」
「本当に、それだけ?」
「……そう、だけど……」

 Aくんが答えると、妹さんはなんとも形容しがたい表情を浮かべた。
 強いて言うなら、ガッカリしたような顔つきだった。
「あぁ、あの人の言ったこと、なんにもわからなかったんだね」
 と軽蔑するような。

 当惑するAくんを尻目に、ドアは閉じられた。



 翌朝の食卓、Aくんがぼんやりした頭で座っていると、「おはよう」と言って妹が降りてきた。
 Aくんはあれっ、と思った。
 昨晩の謎めいた態度がまるでないことも気になった。しかしそれ以上に、おかしな点があった。

 部屋に来た時と、寝巻きが違う。
 風邪を引いているとか、夏の暑い盛りというのならわかる。汗をかいて着替えたのだろう。
 しかし今は冬だし、風邪など引いていなかったはずだ。
 寝巻きが変わっている以外は普段とごく変わらない彼女であることがまた、不気味に思えた。

「お前さ」とAくんはそれとなく言った。「いつも着てたあの、厚手の水色のパジャマって、着てないんだ?」
「えー、あれ?」妹さんは明るく言う。「あれさぁ、こないだ部屋で引っかけて破れちゃって。捨てちゃったよ」
 そうだよねー、とお母さんに呼びかける。母親もそうそう、あれ勿体なかったよねぇ、と応じるのだった。
 ……じゃあ昨日の夜の、あの妹って……



 土曜日、休みではあるものの、どうにもゆっくりしていられない。家には妹がいるからだ。
 ──嫌だなぁ、落ち着かないな。
 Aくんは心のモヤモヤを晴らそうと、午前中から出かけることにした。
 昼飯は外で食べ、数時間、方々を遊び回った。
 やっと記憶も薄れかけてきた夕刻、暗くなってきた頃合に、Aくんは家へと戻ってきた。


 例の隣家の前を通る。夕陽で赤く染まっている。当然のことだ。門灯がついている。平和な家にしか見えない。
 ──昨日のあれは、見間違いか夢だったんだなきっと。妹じゃなく、俺の方が疲れてたんだな……
 そんなことを考えながら隣の家と自宅の間、細い道の前を通りすぎようとした。

 
 道の奥に、誰かがしゃがんでいた。
「ん?」
 Aくんは速度をゆるめて、道の中を見る。
 そこは電柱の街灯もなければ低い照明もない。しばらく行くと行き止まり。何故こんな小道が存在しているのかわからない場所だった。

 その人はしゃがんで、地面をどうにかする作業をしているらしかった。手に持った物体でがり、がり、と削るか掘るかしている。
 低い塀に挟まれて暗いのに、ライトのひとつもない。
 地面をいじっているのに、作業着でもない。
 Aくんの視線を感じたのか、その人はすっと頭を上げる。
 異様な雰囲気があったものの、無視して通りすがるのもおかしい。Aくんは「あ……ご苦労様です」と挨拶した。
 暗がりの中でその誰かは、ゆるっと立ち上がってこちらを向いた。
 
 女だった。
 地面を削っていた左手には、道具はなかった。
 車から引き剥がしたような金属片、鉄クズのようなものを握りしめている。
 隣家か自宅か、どちらかの家の明かりを受けて、尖った金属片は鈍く光っている。
 光源のない道は暗くて、女の顔はわからない。
 しかし服装と髪型に見覚えがあった。
 昨晩。


 うわっ、と声を上げて走った。
 門を通りドアを開けて、玄関に飛び込んだ。

 玄関の上がり口に、妹さんが座っていた。ぬっと立ち上がる。
 え、なに、と聞く間もなかった。


「今日は逃げるなよ」


 玄関から突き飛ばされて、Aくんは転がるように外に追い出された。
 ドアががしゃん、と閉まる。内側で鍵がかかった。

 いや……嘘だろっ……?
 今さら道へは出れない。振り返ることすらできない。
 Aくんは急いで庭へ回って、洗濯物を干す時に出る大きなガラス窓に手をやった。
 がらっ、と開いた。
 靴を放るように脱いで上がった。後ろ手に窓を閉める。指で探って鍵をかける。
 心臓がどんどんと鳴っているところに、母親が来た。
「なぁにアンタ、庭から……どうしたの?」
 いや、ちょっとその……と言いよどんでいると母親の背後、妹さんがスッと横切って階段を上がって行った。
 Aさんの方を見もしなかった。
 2階、妹さんの部屋のドアの閉まる音が、いつもより大きくバタン! と家に響いた。


 ……それから後は、特に何事も起きなかったという。
 妹さんも奇妙な素振りや態度、行動は見せず、受験勉強にいそしんで、複数の大学に合格した。
 ただ不思議なことに、彼女は本命だったはずの実家から通える大学ではなく、遠くの大学に進むことを選んだ。
 仲の良かった家族なのだが、引っ越してからの妹さんはぱったりと、連絡をよこさなくなったという。
 こちらから電話なりメールをすれば、そっけないものの返事は来る。なので両親は「まぁ、一人暮らしを満喫してるんだろ」と気にしていないようなのだが。


 でも、とAくんは言う。
 
「あの時の、隣の家が赤かったことや、カーテンの陰から出てきたり細い道で金属片を握ってた女がね、妹を変えちゃったんじゃないか、って……」

 Aくんは今でも、妹さんのことを案じているのだという。


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