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【怖い話】 覗かれる家 【「禍話」リライト93】

 亡くなった奥さんは、日記をつけていたそうである。
 家計簿の余白に毎日2、3行、日々のちょっとしたことを記録していた。
 
 その家に越してきてしばらくは、平凡な内容の文章ばかりだった。

「町内会費の集金が来た。すっかり忘れてたのでほんとに焦った」
「友達の○○さんたちとお茶。3時間も喋ってしまった」
「洗濯物が乾かない。部屋干しの乾燥機がほしいな。相談してみようかな」

 たとえばこんな、ありふれたものばかりだった。


 事故のあった日の少し前から、書く内容が同じになった。

 彼女は、夫のことを「□□さん」と名前の「さん付け」で呼んでいたらしいのだが。


X月X日
 □□さんが庭から覗いてくる。怖いからやめてほしい。

X月X日
 □□さんが庭から覗く。どういうつもりなんだろう。

X月X日
 □□さんが庭から覗くのをやめてほしい。

X月X日
 □□さんが庭から覗くのをやめてほしい。

X月X日
 □□さんが庭から覗くのをやめてほしい。



 このような文が、30日ほど続いた。
 文字は乱れ、家計簿の計算もぐちゃぐちゃになっていった。


 事故は、深夜2時過ぎに起こった。
 夫婦はパジャマ姿で車に乗り、家を出た。どこに何をしに行ったのかわからない。
 夫が運転し、妻は助手席にいた。

 直線道路でいきなりハンドルを切ったようだった。
 塀だか中央分離帯だかに、ブレーキも踏まないままぶつかった。
 かなりスピードが出ていて、車は大破し、夫婦ともども、即死だったという。

 夫婦の死後、その家は売りに出された。
 
 気味の悪い事故だった上に、妻の日記の件が親類から漏れたせいで、誰も触りたがらない。
 誰も買わないし、借り手もない。
 そのままになっている。

 家が少し変な作りだったこともあり、心霊スポットのように扱われはじめた。
 
 日記のせいでその家は、
「覗かれる家」
 と呼ばれている。

 好奇心で侵入した若者たちが、庭からなにかに「覗かれた」、という噂もある──



「っていう家に、今から行くんだけどな!」
 運転席にいるBは、話を終えた。
 
 週末の昼過ぎ、街を走る車の中だった。
 助手席で聞いていたAさんは、「いやぁ」と顔をしかめた。
「ムチャクチャ怖いんだけど? マジでそこに行くの?」
「行くよ? まぁ男2人なら、何かあってもなんとかなるでしょ!」
 Bは平然と答えた。

 AさんとBは高校時代に知り合い、大学時代、社会人になってからも、友達付き合いが続いている間柄だった。
 忙しい中でも時間を見つけて、延々と喋ったり飯を喰ったりする。仲がよかった。

「俺はアウトドア派で、 Bはこういう、廃墟とかオカルトことかが好きで」
 Aさんは言う。
「趣味が正反対なのに、友達でいれたのが不思議だなぁ、って、いま振り返ると思います」

 前の月、Aさんは自分の趣味にBを付き合わせた。
 週末のハイキング兼キャンプのような集団イベントに引っぱりこんでみたらしい。

「割と楽しんではいたようなんですけど、翌月逆に誘われて。まぁ『今月は俺に付き合えよ』って理屈ですよね」

 取引のようなもので、そうなると断れない。
 心霊スポットに行った経験がないことも、Aさんを後押しした。
 面白そうではある。
 とは言うものの。

「いやガチすぎるでしょ。どっか別のところにしない?」
 Aさんは運転している友達に言う。
「いやいや。そうはいかないよ。だってもうちょっとで着くもん」
「うわぁ」
 Aさんは腹を括らざるをえなかった。
 しかし到着前に、先に聞いておきたかった。

「家が、変な作りって言ったよな」
「うん」
「どういう作りなの?」
「う~ん、それがさぁ。ネットの情報だと──」

 Bが語るところによると、「覗かれる家」は閑静な住宅街に建っているという。

 2階はない。平屋建てだ。
 他の家と他の家の間に、無理矢理に建設したという感じらしい。
 横幅が狭く、奥に細長い。

「隣の家との隙間がさぁ、これより狭いんだって」
 Bさんは車のハンドルを叩く。30センチもない。
「で、夫が覗いてくる、つってた庭なんだよな。問題は」

 ものすごく狭苦しいのだそうだ。
「猫の額」という表現があるが、その言葉にふさわしい広さしかない。ふたり暮らしの洗濯物すら干せない。
 しかも、

「普通、庭って家の脇から入っていけるじゃん? 隣家との塀とか壁をすり抜けてさ。でもさっき言ったろ? 超狭い、って」

 痩せっぽちの人でもないと、外から庭に回り込めない。
 俺とかお前とかでも、まぁ無理だな、とBは言う。

「だから実質、庭に面した部屋──和室らしいんだけど、そこからしか庭に出れないんだって。そんな家の作り方する? 普通」

 建築には詳しくないAさんだったが、話を聞いているだけでも妙な感覚に陥る。居心地が悪くなる。
 しかもそんな庭に「なにか」がいて、覗いているとなると。

 Aさんは寒気がしてきた。
 帰りたい。
 やっぱりラーメンでも食べて帰らない? と言おうとした時、車が停まった。

「こっからは歩いていくから。廃墟の前に横付けするわけにはいかないもんな!」
 Bは微笑んだ。

 ごく普通の住宅街の昼下がり、男ふたりで歩いていく。
「いや、でもさ」とAさんは声をかけた。
「そこ借家でしょ? 勝手に上がったら、不法侵入になるんじゃない?」
「そんなこと言いはじめたら心霊スポット巡りなんてやってらんねぇよ」

 それは、そうだけど。

「けど、鍵かかってるでしょ? そもそも入れないよ」
「それがネットによるとさぁ。玄関は開かないけど、勝手口みたいなのが開くんだって」
「そんなことある?」
「ある? つったって、今はネットの情報を信じるしかないでしょ。あっホラ、あそこだ」

 住宅街の中途、家と家の隙間を埋めるように、家はあった。
 確かに細長い。隣家との余裕もない。
 見るからに窮屈で、押し込まれたような佇まいだった。

 Bは周囲に気を配りながら家に近づく。
 昼過ぎの住宅街、ふたりの他に通行人はない。
「うわぁ、マジで狭いな」
 左側、首を曲げて隣家との隙間に目をやる。
 Aさんも見る。確かに狭い。
 向こうに草が生い茂っているのが見て取れた。あれが「庭」らしい。
 強引に行けばどうにか突破できるかもしれないけれど、服は間違いなく汚れる。手や顔に擦り傷もできそうだ。
「こりゃ無理だなぁ」Bは言った。「よしっ、じゃあ正面から行くか!」

 鼻息荒く進むBに、Aさんは嫌々ついていく。
 門を素通りし、通行人の目がないことを確認してからBは、玄関のドアノブを握った。
「ここは、鍵が」
 がしゃん、と音がした。
「かかってるな、ウン。じゃあこっちの──」
 左に行くと窓があり、この先にもうひとつドアがある。いかにも勝手口、といった感じの簡素なドアだった。
「ネットによれば、ここが開くという、」
 ノブを握って、ひねる。
 回った。
「オッ」
 引くと、当たり前のようにドアは開いた。
「おぉ~」とBは言う。
 開いちゃったよ、とAさんは後ろで思った。

 入って、ドアを閉めた。
 台所のシンクには、うっすらとホコリが積もっている。
 Bが土足で上がろうとするのを「ちょっと」とAさんは止める。
「人の家なんだから、土足はまずいよ」
「いいんだよ、こういう所は」

 友達は平気な顔で上がり、奥へと歩いていく。
 そういうものなのか? じゃあ、すいませんけど──
 Aさんはびくびくしながら、靴のままで台所へと上がった。

 台所から廊下へ。
 ひっそりとしている。
 人が住んでいない家には、せいの気配がない。空気が動いていない。

「なぁなぁ、まず例の庭、見ようぜ。庭。奥の和室」
 嬉しそうなBについていく。ゴツゴツと靴音を響かせながら、ふたりは奥へと進んでいった。
 ちらちら横目に見える他の部屋には、家具がいくつか残っている。

 廊下の突き当たり、戸が開いたままの和室があった。
 そのまた正面に、大きな窓があった。

「おぉ~、ここかぁ」
 
 2枚が襖のように、端だけ重なった窓だった。
 頭から上くらいと、膝から下くらいが素通し。真ん中は目隠しなのか、すりガラスになっている。
 すりガラス越しにも、庭を覆い尽くす草の緑が見て取れた。
 二人、ほぼ同時に屈む。
 庭は雑草に覆いつくされている。
 雑草の先はすぐに塀で、話の通り、おそろしく狭い庭であるようだった。

 Bは一度、窓に手をかけた。が、離した。
 この草の繁りぶりだ。手を切るかも知れないし、虫も多そうだ。

「まぁ外はいいか」
 呟いて、Aさんの方を振り向く。
「俺、家ん中を回って鑑賞してくるけどさ」
「鑑賞」
「そう鑑賞。お前、どうする?」

 Aさんに廃墟探索の趣味はない。
 無人の、薄暗い家を歩き回るのはちょっと嫌だ。気が乗らない。
 庭と窓は少し怖いけれど、ここからは昼の陽光も入ってくる。

「いや、俺ここで待ってるわ」
 Aさんはポケットから缶コーヒーを出す。
「平屋だし、10分くらいだろ?」

 まぁそんなもんかな? じゃあ俺、鑑賞して来るから。
 Bは言い残して、和室を出ていった。

 和室から廊下、まっすぐ行った先に玄関がある。

 ──つまりこの家は、玄関とこの和室と庭を直線で繋いで、そこから部屋や風呂やトイレが枝分かれしてるんだな。
 Aさんはそう理解した。

 Bは次々にドアを開けていく。
 引き戸、「トイレかぁ」
 ドアが開いている部屋、「これ寝室かぁ? それっぽいなぁ」
 Aさんは和室の隅にあった椅子を引き寄せて、ホコリを払ってから座った。
 缶コーヒーを開ける。

 うわぁ、とか、おぉ、という声が遠ざかっていくのを耳にしながら、Aさんはしばらくぼんやりと座っていた。

 生活感はないけれど、人が住んでいた証拠は残っている。
 残った家具、畳の色褪せ具合、それにこの椅子などが、在りし日の夫婦の影を残している。
 夫婦の前にもこの家には、誰かしらが住んでいたはずだ。

 Aさんはうらさびしい気持ちになってきた。
 なるほどこういう気持ちが、廃墟巡りの味なのかもしれないなと思う。

 それにしても、庭の話だ。
 こんな草だらけの庭から旦那が覗くだなんて、一体どういう──

 Aさんはふと、窓へと目をやった。

「うわっ!」
 驚いた。
 手に持った缶コーヒーが畳に落ちた。

 庭へ出る窓の向こう、すりガラスのあちら側から、こっちを覗いている男がいた。

 白く曇ったガラスの上部、素通しの部分から、鼻から上が覗いている。

 Bの顔だった。

「あ~ビックリした」Aさんは呟くように言った。
「そういうのやめろよなマジで……」

 屋内を鑑賞すると言ってこっそりと外に出て、どうにかして庭へ回ったに違いない。
 悪い冗談にもほどがある。
 畳に落ちた缶を拾い、こぼれたコーヒーを手で拭く。
「マジでふざけんなよ……」

 入ってきたら文句のひとつも、と考えながらしゃがんで手を動かしていたが、窓は開かないし、笑い声も謝罪の言葉もない。

 Aさんは腹が立った。
 顔を上げればまだ、友達は窓から覗きこんでいる。
 喜怒哀楽のどれもない、無表情な目つきだった。

 こいつ、いっそ怒鳴ってやろうか、と思って見ていたAさんは、

「あれっ?」

 手が止まった。

 Bの鼻から上が、Aさんの方を覗いている。
 その下、乳白色のすりガラスの向こう。

 何もない。

 Bさんの顎や首、胴体のシルエットがぼんやりと見えるはずだ。そうでなければおかしい。
 下に目を落とす。
 すりガラスは膝のあたりで終わり、そこからまた素通しになっている。
 そこにあるはずの足がない。

 Aさんの息が止まった。
 首を引いて、窓ガラス全体を視界に入れる。

 ガラスの上に出ているBさんの頭部の他に、向こう側には首も、胴体も、足もなかった。

 鼻から上が宙に浮いているように、こっちを見ている。

「え……えっ?」
 Aさんはわけがわからなくなった。
 人間がこんな風に覗けるか? 無理だ。どうやるんだ。
 でもこれは間違いなくBの目と髪型だ。
 人形?

 そう思った矢先。
 ぼんやりとこっちを見ていた顔の瞳が、キュッ、と動いた。

 あっ、これ人形じゃない。
 でも、人間でもない。

 じゃあ、これって。


「そろそろ帰ろうぜ」

 呼ばれて、Aさんはびくりとした。
 振り返ると廊下の先、玄関にBがいる。
 座って足元をいじって、靴を履いているように見えた。

「えっ。あぁ、うん」

 Bがあっちにいる。
 じゃあこの窓のは──幻覚? 見間違い?
 Aさんはもう一度窓を見る。

 Bの鼻から上の顔は、まだそのままそこにあった。

 ゾッとして、窓から目をそらしつつ立ち上がる。
「ごめんごめん、コーヒーこぼしちゃって、ちょっと待ってな」
 畳の染みを広げて薄めて、どうにか目立たなくしようとする。
「おい。先に出るぞ」
 玄関の友達はガチャガチャ言わせている。カギを開けているようだ。
「あーちょっと待っ」

そこで手が止まった。

 玄関? 
 俺たちは勝手口から入ってきた。
 どうして玄関から出ようとしてるんだ?

 それに、靴。
 Aさんは自分の足元を見る。土足だ。
 さっきBは、明らかに靴を履く仕草をしていた。

 玄関にいる奴もおかしい。
 絶対に変だ。

 混乱しているうちに玄関がガチャン、と開いた。ドアから出ていく背中が見える。
 間違いなくBの背中だ。

 Aさんはまだ汚れている畳をそのままに部屋を出る。
 あれが本当にBなのかはさておき、この家から逃げ出したかった。
 廊下を早足で行き、追いかけるように外に出た。


 外には、誰もいなかった。

「あれっ。え?」
 きょろきょろと左右を見渡す。どちらも直線で隠れる場所はない。
 だって、今さっき。

「イテッ、イテテテ」

 だしぬけに声がして、Aさんは飛び上がって振り向いた。
 Bさんが家の、例の隙間、庭に通じているけれど行けそうにない隙間からずるずると出てきた。

「いやぁ、やっぱ無理だったわぁ」
「えっ、お前」
「なんだよ変な顔して」Bは平然と服や腕、顔についたゴミを払っている。「どうかしたのか?」
 Bは、ずいぶんと奥の方から苦労して這い出てきたように見えた。
 玄関を出て、そのまま脇に滑りこんだとは思えない
 
「どうかした、って。お前いつからそこに」
「いつからって、俺言ったじゃん」

 Bいわく。
 和室で窓と庭を観察してから「じゃあ俺、例の隙間から庭に行けないもんか、試してみるわ」とAさんに言い残して、家を出た、と言う。
 そんな記憶はない。
「だってお前、家の中を鑑賞して回るって」
「いや多少は見たけど、和室から台所への通りがかりだよ。庭が優先だよ。で、勝手口から出て、隙間と格闘してたんだよ」
 Aさんは首を横に振った。
「いやいや。絶対違うって。絶対おかしいよ。お前、家の中見て回るって。そしたら庭に、お前がいてさ。お前って言うか──」
「だからぁ、あそこの隙間からは結局、庭に出れなかったの! おかしいのはお前だろ?」

 呆然とするAさんを尻目に、Bは肩や足首を回したりしていたが、

「これで帰っちゃもったいないしなぁ。じゃあ俺、もっかい家ん中に戻って見てくるわ」
 Aさんは引き止めたが、Bは躊躇無しに開いた玄関から入って、ドアをがしゃん、と閉めた。。

 ──玄関が開いている不自然さに、Bは言及しなかった。
 それについて気づいたのは、ずっと後のことである。

 平屋の広くない家だ。小物もない。
 10分もあれば見て回って出てくるはずだった。

 Bは30分出てこなかった。

 電話かメールでも送るべきか、いや助けに入るか、とAさんが迷っていると、勝手口の戸が開いた。
 Bが出てきた。

「お前さぁ! 遅いよ!」
「うん、ごめん」
「こっちはお前のことも不安になるし、近所の目も気になるし、どうしようかと思ったぞ?」
「うん」
「もういいよな? 帰ろうぜ」
「うん」
「帰りにメシでも食おうか」
「うん」
「──お前、どうした?」
「ううん。別に」

 やり取りをしていて、Aさんは強い違和感を覚えた。

 いつもは感情豊かに、ふざけながら返事をしてくるBなのに。
 言葉の調子が平べったい。
 口数も少ない。

 歩いて戻って、車に乗る。
 エンジンがかかって、走り出す
 容姿も声も動きも、普段のBと変わりない。
 しかし表情が硬い。

 ハンドルを握って道の先を見るBの横顔には、表情というものがない。

「来る途中にラーメン屋、あったろ」
「うん。あった」
「あそこに寄って、済まそうか」
「うん」

 車は普通の速度で走り、ラーメン屋の駐車場に入った。
 テーブル席に座って頼んだ後も、Bから話しかけてくる様子はない。Aさんの話に生返事をするばかりだ。

 そのうちにラーメンが来た。
 Aさんは凝ったメニューを注文したのに、Bは「普通ので」としか言わなかった。

 食べている最中も、ちらちらと正面に座るBを盗み見る。
 無表情で麺をすする姿を見ていると、いよいよ言葉にし難い違和感が膨らんでくる。
 あまり喋らないとか表情が乏しいとか、そういうものではない。
 もっと具体的な違和感がある。違う、という感覚が胸をざわつかせる。

 ラーメンの味がしない。落ち着いていられない。
「──ごめん、俺ちょっと、手ぇ洗ってくるわ」
 
 いつもなら「なんだよメシ喰ってる時に」などと愚痴るBだ。
「うん」としか言わなかった。

 トイレに入り、手を洗って顔を濡らす。
 紙タオルで拭く。冷たい。しかしすっきりしない。
 備えつけの鏡を覗く。自分の顔色もよくない。
 ──なんかおかしいんだよな。何かが。何がおかしいんだ?

 鏡の中の自分、左右の頬をごしごしとこする。

 そうしていて、気づいた。

 ──あいつ、左手に箸持ってなかったか?

 次に「あいつ左利きだったか?」と頭に浮かぶ。 
 いや右利きだ。10年近い付き合いだ。左手で箸やペンを持っていたら意識するだろうし、話題にもなる。「お前って左利きなんだな」と。
 両利き、でもない。
 左で文字を書いたり食事をしたりしている姿を、見たことがない。

 あいつは、急に左利きになっている。
 というか──

 トイレを出てテーブルに戻る道すがら、Bを見る。
 やはり、左手に箸を持っている。

 戻ったが、向かいに座るBは反応せず、目の前の麺を機械的にすするだけだった。
 美味しいとも不味いともわからない、無感情な顔で。
 まるで、人の顔ではないような。

 どうにか食べ終わって、Bを先にして店を出る。
 背後にいてほしくない。

 Bは自分の車に向かった。運転席を開ける。
 その途端に、Aさんは思い出した。
 あの家に、前に住んでいた夫婦のことを。

 車に乗って出かけた。
 運転していた夫が、直線道路でいきなりハンドルを切った。
 ブレーキも踏まないまま、すごい速度でぶつかった。
 車は大破して、ふたりとも、即死だった。

「──あのさ、俺、言っといたよな? メシ喰ったら、歩いて帰るって。近場に用事があって」
 嘘だった。そんなことは一言も告げていない。
しかし、
「うん。そうだな」
 Bは唇だけを動かして言った。
「まぁホラ、お前が行きたかった所には付き合ったわけだし。もう、いいよな?」
「うん。いいよ」
「──じゃあ、じゃあ俺、こっから歩くから。じゃあ、またな!」
「うん。またな」
「また時間が合うときに、な!」
「うん。またな」

 わずかに手を振って、Aさんはその場を後にした。
 歩み去る中途に振り返ると、Bは何事もなかったかのように車に乗り込み、向こうへと走っていった。 



 それから、Bとは連絡はとってません、とAさんは言う。

「思い返せば返すほど、あの家から出てきて一緒に帰ったのはBじゃないような気がするんです。Bにそっくりな誰か、みたいな」

 こちらからは連絡しないものの、Bさんからは定期的に、遊びの誘いが来るのだそうだ。
 ただし。

「いつも同じ内容なんです。絵文字もスタンプも何もない、無味乾燥な文章で、誘ってくるんですよ。しつこく、何度も、何度も。

『またあの家に行かないか』って」

 市や町の名前は伏せますけど──中部地方の話です。
 あの家って、まだあるんでしょうかね。
 あれがどういう家なのか、Bはどうしちゃったのか。
 どう考えても俺、わからないんですよ。


 Aさんはそう言って、話を終えた。



【完】



★本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」、
 禍話 第三夜(1)より、編集・再構成してお送りしました。



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