【怖い話】 ちいさなせかい 【「禍話」リライト44】
日常生活の中のちょっとした出来事。それにほんの少しだけ深入りしたせいで、怖い目に遭ってしまう。
これはそういうお話である。
Gさんが仕事の都合で引っ越し、マンション暮らしをはじめて1年経った頃のことだ。
「彼女もいない一人暮らしでしたけど、その分かなり気楽ではありましたね」
平和だし、騒音もなく、迷惑な近隣住民もいない。いい環境だな、と感じていた。
街での生活にも慣れてきたなと思った1年目のあるとき、妙なことが起きた。
「オルゴールがね、聞こえてきたんですよ。どこからか…………」
最初に聞いたのは──いや、実はもっと前から流れていたのかもしれないので、正確には「気づいた」だが──Gさんが夜、寝ようとしていた時だったそうだ。
エアコンが苦手なので窓を開けて、ベッドに横たわっていた。
風に乗ってかすかに、かすかにそれは聞こえてきたという。
テテ テンテンテン…… という柔らかな響きで、すぐにオルゴールだとわかった。
マンションの隣室や上下の階ではない。外のどこかからである。
彼は高層階ではなく低い階に住んでいた。なんとなく、この部屋から少し距離がある場所のように感じる。
あぁ、誰かオルゴールを鳴らしてる。夜だけど、誰かヒーリング目的で聞いてるのだろうか。はてこれは、何の曲かな…………
曲は、数秒聞いていてすぐわかった。ディズニーの「It's a small world」、「小さな世界」というやつだ。
世界中どこだって 笑いあり涙あり みんなそれぞれ助け合う 小さな世界……
(訳:若谷和子)
うろおぼえだけど、確かこんな感じの歌詞だったっけ。
そんなことを考えているうちに1番の終わり、「世界はまるい ただひとつ……」まで曲が進み、オルゴールの音色は止んだ。
……ネジを回すやつでもフタを開けるやつでも、普通はネジが終わるまで鳴ってるもんだけどなぁ。
1回だけ聞いて満足して、フタを閉めたのかな。でもオルゴールを1回こっきり聞いて満足、って、あんまりイメージできないけど……
しっくりこない気もしたが、単なる日常生活のひとコマでしかない。
特に気にも止めず眠りについて、記憶の底に埋もれてしまったという。
それから1週間も経たないうちだった。
夜中に目が覚めた。
部屋の中も、例によって少し開けてある窓の外も真っ暗だ。深夜の2時か3時かと思われた。
どうしてこんな時間に、理由もなく目が覚めたのかな。
そう思う間もなく、外からまた テテ テンテンテン…… と、「小さな世界」の音色が耳に届いた。
あぁ、また誰かがオルゴールを鳴らしてる。Gさんはベッドの上で考えた。
こないだは気づかなかったけど、これ、生音だなぁ。スマホとかスピーカーじゃなくて、オルゴール本体からしてるやつだぞ。
俺が目覚めたのを見計らったように鳴るなんて、おかしなこともあるもんだなぁ……
寝起きの夢見心地のままトロトロと考えているうちに、ふとわけもなく、こう思ったという。
…………これって、どこから聞こえてくるんだろう?
マンションの敷地内、じゃないなぁ。目の前の道路……でもなさそうだ。もうちょっと遠いな。
でもそんなには離れてないぞ。そうだなぁ、道路を渡って、公園があって。
そうそう、ちょうど公園の、真ん中あたりから聞こえてくる、って距離感だな。
うん、これは公園の中で鳴らしてるんだ…… でもこんな夜中に、公園の中でオルゴール…………
こんな考えを巡らせているうちに、オルゴールはまた「世界はまるい ただひとつ……」まで鳴り終わって、ぱったりと静かになった。
突然だった。
Gさんの部屋のクローゼットの中から テテ テンテンテン…… とオルゴールが鳴りはじめた。
「それがね、上から布をかぶせたような、にぶくて、くぐもった音で……」
もちろん彼の部屋にはオルゴールなどない。そういう音源もない。そもそもクローゼットの中に音楽を流すようなものは何も入れていない。
びくっ、として掛け布団をつかんだが、冷静に耳をすませた。これは、隣の部屋から聞こえてきてるんじゃないか?
十秒ほど息を詰めて確かめた。だがやはり、「小さな世界」は自分の部屋のクローゼットから聞こえてくる。間違いなく。
電気をつければよかったものの、判断力が鈍っていた。それに窓から月明かりが入ってきていた。
ゆっくりと、寝床から降りて、クローゼットに近づいていく。
この中に、何が入っているのか……いや、何も入っていないことを確認しなければ、怖くて寝つけない。
放っておいてまた鳴り出したら怖い。
今度は聞こえ方が違っていたりしたら、と想像するともっと怖い。
足音を殺しながら移動しているうちに、オルゴールはまたもや「ただひとつ……」までを鳴らし終えた。
部屋の中が死んだように静かになった。
Gさんはクローゼットの、観音開きの扉の取っ手を両手で掴んだ。
それから一気にグイッ、と開けた。
女が立っていた。
掛けてある洋服をかき分けるようにして、女の後ろ姿があった。
「えっ」
Gさんが言葉を失っていると、女はくるり、とこちらを向いた。
女はひどくのっぺりとした、無個性な顔立ちだった。街ですれ違ってもすぐ忘れてしまうようなタイプだった。
なんの表情も浮かんでいない顔だった。死んだ魚のような目がGさんを見つめている。
女と目が合ったような気がした。
すると、特徴のない目と鼻の下にあった口が、いきなりパカッと大きく開いた。
「せかぁいーじゅーうぅー どこだぁーあってー
わらいぃーあーりぃー なみぃだーあーりぃー」
女は、「小さな世界」を大声で歌いはじめた。
腰を抜かしそうになってよろめいたGさんを尻目に、女は無表情のまま口を大きく開けて歌い続ける。
「みぃんなーそぉれぞーれ たぁすぅーけあうー
ちいさぁなぁー せぇーかぁーいぃーーーー」
Gさんは扉を閉める余裕もなく、クローゼットの前から逃げた。
なんなんだ。誰なんだこの女は。
どうして俺の部屋にいるんだ。
混乱する彼のすぐそば、クローゼットの奥から女の歌声は続いている。
「せぇーーかいーーはーーー せーーーーまいーーーー
せぇーーかいーーはーーー おぉーーーなじぃーーーー」
Gさんは寝巻きのまま玄関に走った。スマホも財布も持たなかった。家の鍵だけを握って部屋を飛び出た。
「せぇーーかいーーーはーーー まぁーーるいーーーー…………」
廊下を走り外階段を駆け下りて1階まで行き外に出て、道を走った。
自動販売機がいくつも並ぶ道端で、Gさんはようやく立ち止まった。目がちらつくような強い明かりが、今はありがたかった。
「…………はぁ……っ? …………ええっ…………? なんで…………? ……なにあれ……? ちょっと…………マジで…………」
飲み物の見本が並ぶあたりに手を置いて息を切らせながら、彼はかすれた声で途切れ途切れに言い続けた。混乱しきっていた。
自分の住んでいた部屋が事故物件だなんて聞いていないし、不審な出来事だってなかった。近所で事件や事故も起きてない。
祟られるようなことをした記憶もゼロだ。いつもの日常だ。あのオルゴールの音色以外は…………
越してきてまだ1年である。職場に友人知人はいたが、深夜に転がりこめるような間柄ではまだない。
財布もスマホも置いてきてしまったので彼は仕方なく、自動販売機周辺の明るい道端で、夜が白むのを待った。
オルゴールや歌声が聞こえてきたり、女の姿が現れるのではないかとビクビクして過ごした。
人生でいちばん長い夜だったかもしれない、という。
「明け方、もう大丈夫だろうと思って部屋に戻りました。もしかしたらほら、夢だったかもしれませんし……」
部屋は、逃げ出してきた時から変化していなかった。クローゼットも開いたままだった。
少なくとも自分がここを開けたことは、動かしようのない事実であった。
夜明けの朝日が窓から射し込む中、彼はそっと、クローゼットを覗いた。
そこには誰もいなかった。
服も荷物も、一切乱れていなかった。
Gさんは寝不足と精神的疲労を抱えたまま、その日は仕事に行ったのだという。
「そこのマンションって、管理人さんが常駐してないんですね。で、週2くらいで管理人の関係者のおばあさんが、掃除に来るんです」
数日後の朝、そのおばあさんに行き会った。
この間のあれについて尋ねてみたい、とGさんは思った。しかし、「部屋に女の幽霊が出て歌を歌った」などと言って信じてもらえるはずもない。
おはようございます、と挨拶してから、おもむろにこう言ってみた。
「あのぅ、この辺で、夜なんですけどね」
「はいはい」おばあさんは愛想よく返事をする。
「なんだろうなぁ、オルゴール? の音がしてくるんですよね」
「あぁー、それねぇ。オルゴールの曲ね。あなたも聞いたのね?」
「あっ、以前からそうなんですか?」
「そうそう、いつからなのかはわかんないんだけど」
おばあさんはいつものほのぼのした口調で答える。
「あれねぇ、季節とか時期によって曲が変わるんだよねぇ」
「えっ? ……あぁ、そうなんですね…………」
曲が変化すると聞いて少し驚いたが、どうにかごまかした。
「いや、真夜中に聞こえてきたもんで、あれって何なのかな、って思いまして」
「あー気にしなくてもいいから。『なんかオルゴール鳴ってるなー』って思ってればすぐ止むから。すぐ止んだでしょう?」
「そうですね、1番っていうか、一回鳴ったら終わりましたね」
「うんうん、うるさくないでしょ全然。ちょっと聞こえるだけね」
「えぇ。えぇ。かすかに聞こえるだけなので、耳障りではないんですけど」
「あれ、どこからかなって思わなきゃいいから」
「…………どこから?」
「これ、どこからかなー、って思うと、よくないからね」
「…………あのつまり、どこから聞こえてくるのか、って考えると…………」
「あーもうダメダメ、それ考えちゃうとダメ。場所、気にしちゃダメ」
「……………………」
「あとは大丈夫だから。なんともないやつだから。ね!」
そういうことは早く言ってほしかった、とGさんは哀しく思ったそうである。
「…………それからねぇ」
これで終わりかと思いきや、彼はまだ話を続けた。
「後で気づいて、いちばん怖かったことがあるんですよ」
彼の部屋のクローゼットは、真ん中に上下を分ける仕切り板が一枚入っている。
上にはスーツや私服を掛けて、下段には衣装ケースや雑貨を詰め込んでいるというのだが。
「歌ってた女はね、最初俺、『クローゼットの中に立ってた』って思ったんですよ。
でも無理なんですよね。下段には荷物があるし、仕切り板があるんですもん。
だから……あの時は瞬間的に『女が立ってる』って判断したんですけど、
もしかしたらあの女って、仕切り板から上の、上半身しかなかったんじゃないか、って…………」
暗いクローゼットの中にいた女の特徴のない顔は思い出せるのに、体がどうなっていたのかは思い出せない。
Gさんは、それがとても怖いんです、と語るのだった。
彼はまだ、そこに住んでいる。
夏や冬はもちろん、春でも秋でも、夜になったら窓をピッタリ閉めるようにしている。
オルゴールの音色が、できるだけ聞こえないようにしているのだそうである。
【おわり】
☆本記事は、無料&著作権フリーの怖い話ツイキャス「禍話」
ザ・禍話 第十九夜 より、編集・再構成してお送りしました。
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