私は君に、鋏を届けに

 シオマネキという蟹がいる。彼らは大人になる前に、自身の片腕を切り落とす。

 車窓を飾る海岸線が流れていく。シーズンオフの海辺は彩りを潜め、人影といえばそれぞれの居場所を独り占めにするサーファーや釣り人が砂浜に散見されるばかりである。その人影も列車が進むにつれまばらに消えていき、閑散とした風景に見覚えもないまま、私は理由のない郷愁を抱く。
 通り過ぎていく砂浜のどこかに、湿った砂をかぶったまま置き去りにされた荷物を、忘れてしまっているような気持ちになる。私は残りの駅を指で折り、確かめ直しては手のひらの汗を揉み伸ばす。突き動かされるまま揺られるまま、私を乗せた小さな列車は終着駅を知らせると、ゆるやかに速度を落としていく。窓に切り取られた海岸線が、小さく揺れて古い絵のような景色で止まる。セピア色のフィルターを噛ませたような町だと思う。改札を抜ける自分もまた、その絵の中に入って行くようで、私は柄にもなく着ている服の色を気にした。
 外から眺めるとやはり絵ハガキで見たような駅舎は、水彩で描かれるといかにも映えそうな風情があった。赤錆の目立つバス停の看板も、紫外線で脱色された案内板も、いかにも懐かしい気のする古ぼけた海の町である。時間帯のせいか季節のせいなのか人影もなく、いよいよ造り物みたいに建っている町並だった。私の手の中の地図情報に刺されたピンは、海岸沿いの道を迷いなく提示し、私はのっぺらぼうみたいな案内板を読み解いたり、道を知りそうな人を見つける労力を割かずに済んだ。
 波風が鳴るたびに肌が乾いていく。舗装路に吹き上げられた砂粒がアスファルトに食い込んで、唐草模様に似ているのを踏んで行く。舗装路は次第に砂に埋もれて車道と混ざり、その行く先は山をえぐりながら大きく弧を描いて、それを登らずに堤防を下りて砂地を辿れば、ピンの刺す場所はそこから岬を越えてほど近い。
 しばらく歩けば、手の中の地図は小さく喋ったきり誤差を残したまま案内を終える。目指す先では三日月形の湾を満たすように、鏡のように黒く広がる水面が、まだ少し遠くに広がって見える。いつしか風も凪いで静かな浜辺の、湿り気の少ない砂を選んで歩く。岬を跨いでからは標識の一枚さえ影はなく、名前のわからない草花がまばらに連なって咲いているのを、道案内の代わりに辿らせてもらう。日の光の温かさが嬉しく、あまり歩き通しでは汗ばむくらいの陽気である。湾を見渡す場所を探して、砂が付くことを諦めた私は、せめて乾いた砂地に腰を下ろして、水鏡が乾くのを待つことにした。小さな雲達は形も崩さず高い空をゆっくりと漂い、太陽を隠したり現したりしている。気持ちの良い退屈が流れる。海は静かに黙っている。水底の砂は未だ覗かない。
 私はひとり、物思いに耽る。

 中学生の頃だった。彼はシオマネキで、私の同級生であり、転入生であり、左手に小さなハサミを、右手にとても小さなハサミを持っていた。大きなハサミは持っていなかった。人と話をする時の彼は、いつも右半身を引きながら、大きくもない左のハサミで自分の肩を抱くようにして、右のハサミを隠そうとする癖があった。小柄な彼は、その癖のせいでいつでもいっそう小さく見えた。誰かの視線が向けられる時には特に、彼は縮こまるように身をすくませて、臆病そうな視線を落ち着きなく床に泳がせた。健気さも漂う彼の所作には、見る者の不安と心配を掻き立てるようなところがあった。あどけなさを匂わせるような彼の仕草に、どうやら私は一方的な庇護欲を掻き立てられているらしかった。
 恐らく多くの転入生がそうさせるように、彼にも多くの生徒たちが助けになることを申し出て、実際に協力と献身を見せた。予期せぬ闖入者をもてなすという新鮮な娯楽は、好奇心を持て余す生徒たちの気勢を高まらせたが、一方で渦中の彼自身はといえば、いつまで経っても他の生徒達とは一向に馴染もうとしない距離感があり、そういった態度は彼を取り囲む熱気を早々に潜めさせ、物珍しかった転入生も、瞬く間に時の人から生徒の一人になり果てた。日常に帰った生徒達は馴染み深い顔との談笑に浮かれ、気心の知れた付き合いに落ち着き、例えそこに悪意ある排斥がなかろうと、交友関係に新しい流れを引き込むことには億劫であった。彼はいつも一人きりだった。
 私は独りよがりな同情を煽り立てられ、慈しみの心を持ったつもりで馴れ馴れしい態度で彼に接した。時にはコミュニケーションと呼ぶには一方的であったほどの不器用な話題を、彼はいつも曖昧な表情をして、多くの場合それは不機嫌そうにも見えたが、それでもほとんど黙ったまま聞いてくれていた。
 しかし若い好奇心は個人のアイデンティティーの暴露によって満たされることが少なくなく、それらがプライバシーへの侵害か否かをまともに判断することは、お世辞にも交友関係が広いとは言い難い私には難しく、思い浮かんだ彼への疑問のほとんど全てが私の口を通って出た。実際のところは私以外の生徒達にも同様の欲求があったのかも知れなかったが、事実上ほとんど私が彼との意思疎通を独占していたのは、私以外の生徒の大半が節度と自制と遠慮を以って、年齢相応の嗜みをそれなりに身に着けていたからに過ぎなかった。私自身は己の持ちうるありきたりな体験談と、ナルシズムに偏った自己分析を余すところなく発表することで、そういった彼との会話のバランスを保てているつもりがあった。私にとってはそれが自身の持ちうる数少ないコミュニケーション方法の一つだったし、そもそも中学生の私には他者との境界を適切に測ることも難し過ぎたのだ。要するに私だけが無礼で図々しく、遠慮がなかった。
 それでも時おり噂を好む生徒の中には、私を介することで謎多き転入生の秘密を間接的に聴取しようと試みる者もいたが、私がもったいをつけて情報を出し渋ったり、そもそも大したことは何も彼から聞かされていなかったり、己の粗相を棚にあげて個人情報の秘匿だのなんだのと理屈をこねて煙に巻くうち、やがては誰も私から彼のことを聞き出そうとはしなくなっていった。
 それらの私の不遜な振る舞いが、結果的に彼の孤立を深める一因となったことは想像に難くない。無用な対人関係を厭う彼から烏合の衆を遠ざけるためには、ある種の防波堤のような役割を自分には担う必要があるとさえ当時の私は考えていたところがあった。釈明に聞こえるかも知れないが、私の行いとは無関係に、彼が他人と打ち解けることに興味を示そうとしていなかったことは重ねて強調したいと思う。
 幸いだったかも知れないことは、その頃の私が彼以外のシオマネキを知らなかったがために、彼が見せたがらないハサミについて特別な言及を示さずに済んでいたことであろうか。それは恐らく私以外のクラスメイトや多くの町の人達も同じで、それこそがきっと蟹である彼とその家族が海のない町に転居してきた理由の一つでもあったのだろうが、もちろん当時の私はそんなことを知る由もなかった。
 ところで私は先述したような性格であったので、友達らしい友達にも恵まれず、しかしそんなことは気にもしないふりをして、私自身は自分のことを教室という枠の外側に浮かぶ漂流物であるようなつもりでいた。人間関係の構築を苦手と自負する私の頭の中には、しばしば教室の形をした直方体の箱庭のイメージが浮かぶことがあり、それを手に取り外側から観測することが、つまらない物事を客観的に分析する自分の立場なのだと考えているところがあった。それが孤独によって発明を迫られた自尊心を保つ不器用なやり方であることには、その頃は全く気が付かないでいた。
 そして孤高を極める彼もまた、私と同様の視点を並び持ち、教室という直方体の全容を捉える稀有な立場にあった。学級という不出来なビオトープを介し、私と彼は相互に観測者としての立場を認識し合う立場にあった。というのが大まかには当時の私が信じ込んでいた私と彼の関係性であった。当然だがこれまでに述べた内容はほとんどは、思春期特有の万能感と根拠のない他者への慢侮が見せた、都合の良い白昼夢であったことは言うに及ばない。
 私と彼の間には奇妙な愉悦と優越からなるある種の共犯関係が作られているのだとも考えていた。私達の孤立した感性だけが高尚なものであることを、私だけが完全に理解していた。私達は度々二人だけの領域であらゆる思索に興じた。言い方を変えればそれは、つまるところただの雑談だった。私がそれらの面倒くさい児戯を展開する度に、彼は無気力そうな目線を寄越しながらも、他にやることもなさそうなので、気だるげに付き合ってくれたりしたのだ。

 当たり障りのない面白くもないような話題を、私はその日の放課後も、彼との会話に興じるために捻出しようとした。だいたいいつも私達の雑談は、そんな風に始まるものだった。
「いつも退屈そうだよね、君は」
私は終始落ち着きなく、椅子を漕いで床を鳴らしている。
「そうかもね。面白いことがあるわけでもないから」
窓辺からグラウンドを見下ろして、走り回る運動部の影を彼はぼんやりと目で追っていた。
「好きな遊びとか趣味とかってないの?休日何してるのか想像できないんだけど」
好みの季節や食べ物といった空虚な話題はもはや漫然と繰り返し尽くされた、語るべきところもない日常であった。
「何してるってこともないよ。休んでる。休みだから」
「同感だわ。貴重な時間を部活なんかに費やしてる人の気が知れないな。まあ私なんかは本を読んだり、音楽聞いたりしてるから、そういう意味では似たようなものか」
「そっか」
 噛み合いの悪い会話は交通渋滞のようでもあったが、わざわざ私達はそんなもののために授業の合間や放課後を費やした。そのせいで沈黙を誤魔化す下手くそな愛想笑いが、私の癖になりつつあった。
「本といえば思ってたんだけど、君は上手に本を持つなあ」
いつものように考えなしに、私は私の思ったままを口にする。
「上手ってどういうこと」
「どういうって、ハサミなのにってこと」
彼の口調が露骨にくぐもったことには無論気を回せる私ではなかった。
「当たり前のことだよ」
「そうかな。うっかりページを切っちゃいそうに見えるけど」
「僕が素手で何かを切ったとこなんか見たことないでしょ」
 すねたような口調で不服を漏らす彼の物言いが、私の嗜虐心を巧みにくすぐる。
「ねえ。そのハサミのこと、教えてよ。いろいろ聞きたい」
 とうとう私は、触れるべきでなかった領域に触れてしまった。好奇心のためでもあった。だがそれ以上に、私は自分の求めた知識が、彼にとってはどういった意味を持つものであるのか、ただ知り得なかっただけでもあった。
「そんなもの聞いてどうするの」
「どうもしないよ。話したいから話すし、聞きたいから聞くだけ。だいたいいつもそんな感じでしょ」
 彼はしばらく黙りこみ、私が今更自分の言ったことをちょっとばかり気にし始めたところで、少しずつ泡混じりの溜息をこぼすと、おずおずといった調子で前置いてから語りはじめた。
「貴方が聞きたい話かどうかは知らないよ」

 シオマネキのハサミの大きさが左右で異なる理由は周知のように、片腕が切り落とされるため、もう片腕が極端に肥大するためである。
 性の自認すらあやふやな年齢のシオマネキ達が、如何様な理由によって片腕の欠損などという常道を逸した自傷に及ぶのか。髪をむしったり爪を噛むのとはわけが違う。そこには何らかの強力な作用が関与していなくては説明がつかない。
 その正体こそが彼らを襲う耐え難い掻痒感、つまりは「痒み」であるのだという。
「蚊に刺されたみたいな?」
「あいにく刺された経験がないから、どうかな」
 個人差はあるが、時期はおしなべて自我の確立にほど近く、現れる範囲は肩から肘にかけて多くは左腕に、痒みの強さの程度についてはまさしく耐え難いという他はなく、多くの場合に出初めは弱く、日を追うごとにそれは強まり、数か月から数年を待たないうちに、膨れ上がった痒みはシオマネキの理性にまで侵食する。
 痒みが軽いうちにはその個所を自身の未熟な爪で一生懸命に掻いていれば良い。追って痒みが増すうちに、小さな爪の先では満足がいかなくなり、手近な岩壁に擦り付けたり砂粒をまぶさずにはいられなくなる。増した痒みが片腕を這い回るようにまとわりつき始めると、体をおとなしく動かさずにいることがいよいよ困難になる。幼いシオマネキ達は腕を擦り付けるのに役立ちそうなあらゆる突起や凹凸を探し続けることに意識を割かれ、睡眠や食事すら阻害される。多くの個体はこの時頃になると成長したハサミがようやく期待に応えられるようになり、肘や肩の比較的柔らかな内側にその切っ先を食いこませたり、強く圧迫することで痒みを紛らわせて過ごせるようになる。不運にもハサミの成長が遅かったり痒みの進行の早い者達は、なお強くなり続ける痒みに晒されながら自身のハサミが一秒でも早く自身の腕を満足させる日を願い続ける。
「なんか聞いててむずむずしてくるな」
「やめようか」
「ここでやめられちゃったらそれこそ気持ち悪いけど」
「じゃあ、続けるよ」
 いずれもやがて無事に成長を続けるハサミがその鋭利さをますます誇る頃になると、腕を襲う痒みもこれまで以上に苛烈さを増し、一時しのぎの摩擦や刺突では肉の奥が泡立つような激しい苛立ちを、抑えつけることができなくなっていく。ハサミの扱いも激しさを増し続け、乱暴に叩きつけたりねじったりを繰り返すうち、幼いシオマネキ達は痒みから逃れるための効果的な手段が、痒み以上の痛みであるという閃きに辿り着く。その頃になると使いこなすには十分なだけの刃渡りと筋量を獲得したハサミは、長く続いた痒みから脱するために、いかにもハサミとしての手段を発揮するのである。
 自身の片腕に刃をあてがい、挟み込んで力を入れる。表皮を割り裂き、無骨な刃が震える肉に到達すると、その解放感と達成感たるや、痛みを忘れるほどの快感であると。曰く、自身の体に食い込み続けた実体のない線虫を根こそぎ引きずり出すようなものだと彼は言った。そのように言われても、自分の皮膚の下に虫が潜りこんでくる事でもなければ、理解できる日は来ないと思った。私は自身の脊柱の出っ張りに沿い、細長い虫が背中の毛穴から潜り込んでくるのを想像し、気に留めずにいた肌着の締め付けを急に不愉快に感じた。
 シオマネキのハサミは皮を割り、肉を裂いて尚、掻痒感の解消を達成し続ける。導かれるように刃元の角度は狭まり続け、鋭い痛みが肉の深くへと食い込むほどに、苦しみ続けた痒みが組織液と共に絞り出されていく。苦しみの霧散していく快感と度を越しつつある痛みは脳内で混同され、筋繊維の弾ける感触を受け止めながら、ハサミにこめられた力は加減を失う。
 最後には震える切っ先は吸い寄せられるように重なり合い、刃と刃は鈍い衝撃を奏でてかち合う。腕の奥にあった芯ともいうべき固い箇所が一息に断ち潰されることで、シオマネキの片腕はようやく、長く続いた掻痒感ごと無事に取り除かれるのだ。
「えっ、マジで言ってる?そんな物理的な感じで切るの?」
「物理以外の方法がわからないけど、うん、まあ、そうだよ」
 当然それから数日間は腕の千切れた痛みとの闘いが続くそうだが、そんなものは苦しみ続けた痒みに比べればよほど問題にならないらしい。
 そうしてシオマネキは自身の片腕の断裂と共に、彼らにとっての幼年期の終わりを迎えるのだという。
 聞き終えた私はちょっとした衝撃と、未知なる文化との邂逅に感動していた。思わず彼の腕に視線が吸われる。あの腕にもきっと今語られた内容と遜色ないドラマが刻まれているのだ。
「あれ。じゃあなんで君には両腕ついてるの」
「小っちゃい頃に切り落とせばね、成長するうちにまた生えてくるんだ」
「なるほど、そうして今の君のハサミが出来上がったというわけかあ」
「それは」
彼はもう私に対してハサミを隠そうともしていなかった。ただ少し声を低くして、悩んだような顔をしていた。
「ちょっと違う」
 急に強まった彼の語気が、私を落ち着かない気持ちにさせた。彼は黙り、語るべき事柄を選ぶようであり、使うべき言葉を探しているようでもあった。なんならこのまま話を打ち切ることさえも、彼の中の選択肢にはあるのだと予感した。私もまたそうされることに異論はない。十分に興味深い話を聞けたし、彼がそうするのであれば後は笑って挨拶をして帰るだけだと思っていた。それでも彼は告白することを選んだ。窓の外で濃さを増していく夕焼けを、今でも鮮烈に覚えている。
「僕はもう片方のハサミも切った」

 彼は例外だった。本来は片腕にのみ生じるはずだった痒みが、彼の場合は両腕に表出した。はじめこそ左腕にしか表れなかった痒みだったが、時を経るごとに右腕にも微かながら確かに痒みの根のようなものが張られつつあった。そのことを彼自身が違和感として感じ取るには、左腕に巣食う本来の痒みが邪魔であった。後発した右腕の痒みが本格的にシグナルを発揮し始める頃には、彼の意識のほとんどは常態化した左腕の自傷欲求に割かれていた。
 よって彼の右腕がその痒みを正しく宿主へと伝達できた時というのが、右腕を存分に掻き毟るのに使えたかもしれなかった左のハサミを、自ら切り落とすという大業を果たした後になってしまった。
 左腕を断ち切った痛みも薄れた頃、ようやく彼は右腕に宿っていた以前からの違和感が、痒みの萌芽であることを自覚した。右のハサミはいくら器用に曲げようがねじろうが、右の腕自体を掻いたり摘まんだりできるようには造られていなかった。
 私の聞きながら肘や手首を曲げ伸ばしして、どうにか右手で右の二の腕を触ろうと試み、力を入れ過ぎて少し痛かった。
 その上さらに問題があり、果たして右のハサミ自身が右の腕に届いたとしても、両のハサミを生やし直すために一時的とはいえ両腕の無い暮らしを送ることが、現実的な解決法であるとは思えなかった。
 彼は家族に打ち明けた。自分ひとりでは持て余す問題だった。医師に診られ、検査を受け、カウンセリングを経て得たものは「原因不明の特異的な掻痒感の併発」という、答え合わせにもならない状況確認だった。遺伝情報の欠落、免疫反応、心因性疾患、ホルモンバランス、それらどれもが有りえた上で、それらのどれとも特定できず、根本的な対策はなかった。
 軟膏が処方された。冷たい薬液を塗り付けると、その瞬間は痒みが肉の奥へと引いた。医師と彼と家族に選択できる手段は、発生する痒み自体を緩和するアプローチを続け、並行して過去の症例と照らし合わせながら痒みの原因を模索することだけだった。望みが薄いことは誰もが察していた。シオマネキの腕を襲う痒みは、それは過去シオマネキがシオマネキという名を冠する遥か以前から共に在り、その解消法が今日まで確立されていないということは、その必要が無かったということ以上に、そうすることが不可能であるという意味と理由を持つものだった。軟膏によって一時期的には和らぐ痒みも時間が経てば再び表層へと浮かび上がり、その間隔も日ごと短くなり続け、同時に痒みも増し続けた。軟膏は匂いの強い湿布薬に変わり、処方された頓服薬もはじめこそ痒み止めの成分を含んでいたのが、やがてほとんどが麻酔に近くなっていった。荒んでいく気心のために精神に作用する錠剤が出され、体表の炎症や消化器官をもケアするために処方箋の枚数が増えた。
 慢性的な強い痒みと発作的な鋭い痒みに晒され続ける日々は彼の心身を消耗させ、彼の脳は痒みに抗うことの無意味さに慣れていった。頭を空にして痒さの波をやりすごし、そのために一日のほとんどを寝床に横たえ、時折発作的に身を悶える時以外には、毎日を抜け殻のように過ごした。家族はもちろん心配したができることなど何一つないので、ただ彼が求めた時にその小さな生えたてのハサミに変わって、時々は右腕をつねってやった。
 年月は彼の遍歴を白紙に染め続けるものと思われたが、時間の流れは彼の体にも平等に成長の機会をもたらしてくれた。憎まれながらも右腕のハサミは成熟を見せはじめ、それなりに小さい新たな左腕も、シオマネキの片腕としてはかろうじて格好の付く大きさに成った。それは自分の右腕に残された痒みと、相対できるだけの長さと強度を備えた念願の左腕だった。左のハサミの先端が右腕に届いた瞬間に、彼は自身の中に溜め込まれ続けていた莫大なフラストレーションが再燃するのを押し留めることができなかった。忘れかけていた掻痒感への抗いと、望んだだけの刺激を生み出せる充足感が、その時だけは彼に理性や判断力を失わせてしまったことは不幸だったかもしれない。それでも今となっては後悔はないと彼は言った。
「まだ脱皮の回数が残ってることも、たぶん自分でわかってたんだよ」
 後付けの言い訳かもしれないけど、と添えた。千切れたハサミが再生する機会は、脱皮のタイミングに依る。成熟しきった肉体には脱皮の機会がなく、したがって以降の欠損は恒久的であり、反対に若ければ若いほど脱皮の回数には恵まれるため、最終的な復元はより十全に行われる。
「そもそもハサミの大きさなんかに、意味があるとは思わなかったから」
聞こえるかどうかの声で「その時は、まだ」とも呟いた。残されたハサミをも切り落としたことで、彼のその後の生活は困難を極めることになる。
 幸いにも生やし直した左のハサミには、右腕を切り落とせる程度には十分な機能が備わっていたわけだから、これによって彼は同年代のシオマネキ達がとっくに辿りついているその生き易さに、遅ればせながら到達することができた。まだ痒みが芽生える以前の幼年期、自身の健康や運動が不愉快な苛立ちに阻害されずに住んでいた日々、その頃の穏やかな心の在り方を久しぶりに取り戻して、彼は本当に健やかな気持ちで、右腕をも欠損したことについてなど何一つの自責や後悔を抱かないでいられた。痒かった頃には頭の中を埋め尽くしていた乱雑な領域が今はさっぱりと処分され、片づけられた机の天板が新品みたいな木目を光らせて新しい作業を心待ちにするような晴れやかさと自由があった。
 家族は彼のハサミの特異さに不安を抱きながらも、その上で彼がいつ終わるとも知れない掻痒感からようやく人並みに開放されたことを安堵していたに違いなかった。
 新たな右のハサミが生えてくるのを待ちながら、彼は小さな左のハサミを使いこなす練習にも余念がなかったし、実際小さなハサミであっても、振るえばそれが片側だけであっても蟹並に暮らすことに不都合はなかった。身の回りの用事のほとんどを小さなハサミ一振りでこなせるようになった頃には右腕にも子供みたいな小さなハサミが生えはじめていたし、一方で彼自身の右腕以外も大人の体を作りはじめようとしていた。
 そして大人へと育ちつつある体の中では、心もまた養われつつあり、やがて彼は自身の右腕がいつまで経っても、恐らくは生涯において永久に、まるで人形から付け替えたような歪な代物であり続けることを、ようやく薄ら寒い失望をもって自覚しはじめた。他の男子が当たり前のように巨大なハサミを日夜磨き、刃を鳴らし、重厚そうに振りかざすたび、自分がそれらの動きを真似ることのみすぼらしさを想像した。同年代の他のシオマネキ達といえば、全員が当たり前に格好の良いハサミを自慢し合っているようだった。女子達ですら彼のハサミに比べれば綺麗に整った形の良いハサミを両腕に間違いなく揃えていて、時々は彼に残されたハサミの大きさを上回っていることさえあった。彼はそのことを考えたり思い出したりするだけで眠りに着くことができなくなり、誰の眼もない夜中に目覚めては、自分だけのために小さな左のハサミを抜いて、暗がりの中で月にかざして刃先を静かに光らせながら、その駆動を確かめるようにゆっくりと閉じたり開いたり、月を挟んで遊んだりした。
「ごめん、今のとこやっぱり聞かなかったことにして」
 恥ずかしそうにハサミを握りこんだのが見えて、私はきっと忘れるよう努力することを伝えたが、その努力は未だ叶ってはいない。
 彼の心が思春期らしく熟していくうち、彼はとうとう自分のハサミの小ささについて考えない日はなくなってしまった。右腕を失っていたこともあり、左のハサミはその不足を補うべく逞しく育とうとする勢いがあったが、それでも右のハサミについてはいわずもがな、左のハサミすらも今では人目に晒すことが辛く、彼の足取りは日に日に衆目から遠のいて行った。
 シオマネキの社会がわからない私には、彼のハサミが同年代の仲間達からどれほどの好奇の視線に晒されたのか想像することも難く、遂に彼自身から語られることもなかったために、私は自身のいくつかの想像がつまらない杞憂であることを願った。
 彼は過去の己を責め、人とは異なる遍歴を呪った。あのまま右腕の痒さに晒され続けながら、あの衝動を抑え込み続けていれば、今頃は自分の右腕にも失ったはずの立派なハサミが据え付けられていただろうかと、今更取り戻しようのない後悔に喘いだ。もしもこうなることがわかっていたのであれば、自分はきっと今日まで右腕を守り続けていたかも知れないのにと、哀れな可能性を夢想した。そして当時の自分を襲った押し寄せるような痒みを思い出しながら、強固な意志で打ち勝つ自分を妄想し、仮初めの納得と返っていっそうの自責に苦しんだ。痒みから解放された安寧の日々を終え、彼の元に再び去来したのは諦めと孤独に満ちた空虚で無気力な喪失の毎日だった。
 その日々に残された希望は、彼の家族が現状の彼の苦しみをなんらかの形で解消できるのではないかと考え至ったことだった。肉体的なコンプレックスを即時的に解消することは、特に彼のハサミについては望めようもなかったし、例えば腕ごとハサミを覆い隠して暮らすことも提案できたが、それでも彼の眼に他のシオマネキのハサミを映すことは避けられない問題であったので、それも解決にはほど遠い方策だった。話し合いが重ねられ、選べる道は絞られていき、そうして結論が出されたのがつい最近のこと。
「僕が傷つかなくていいように、海のない場所で暮らせばいいっていうので、引っ越してきたんだ。この町に」

 彼はゆっくりと大きく息をして、それで語るべき全てを出し尽くしたということのようだった。
 私は何かを言うべきだと思いながら、言うべき言葉を探しあぐねた。泳ぐ視線が窓の向こうに暮れ行く空を見つけ、彼の語りの長さを思った。その重さに応えるだけの体験も思想も、健全極まりないだけの中学生であった私は当然持ち合わせておらず、思いつくのは受け売りの慰めと同情ばかりで、酷く惨めな気持ちが湧いてきた。一方でこういった告白の聞き手に自分が選ばれたことに対しての、些かの優越感と達成感もあり、自己嫌悪を知らない私は、それらの感情が同居することを、ただ居心地が悪く思った。
 胸中を漏らしたことを満足しているのか、それとも語り過ぎたと悔やんでいるのか、いつの間にか仄暗い教室の中にいてその表情は静かなまま、小さな眼だけがわずかな明かりを受けて、滑らかに光って消えそうに見えた。
 沈黙を破る格好の良い文言が欲しかった。彼の過去に並べ立てても見劣りの無い含蓄を抱える言葉を告げたかった。今ではもう直方体の器の中に取り残された私を、彼だけが外側から値踏みをするように覗き込んでいる。つるりとした黒い目が箱の隙間から私を見下ろし、小さなハサミは心次第でいつでもその箱を両断し、無かったことにすることも容易に見えた。時間が経つほど彼の体は夕闇に溶けるようで、私の心を悪戯に急き立てる。こうなれば凡庸な物として一笑に伏してしまえば、いっそ彼にのしかかる重苦が少しでも軽くなりはしないかと、あるいは私のつまらない対抗心が無意識に手伝いもしたのだろうか、とっさに口からこぼれた言葉は、あまりにも慰めとも同情ともかけ離れて、残酷な形をしていた。
「つまらないこと気にするんだね」
 言葉を誤ったことに気がつき、口を閉じた時には手遅れだった。刺すように冷たい失敗と後悔が、胸の中へと流れ込んでくる感覚だけが鮮明だった。訂正と釈明に継ぐべき二の句は、慌てて探せば探すほど、頭の中で散り散りになっていく。簡単なごめんなさいですら、あまりにも軽薄な響きに思えて、口に出す勇気も持てないでいた。
「そっか」
 教室の暗がりに、抑揚のないつぶやきがあった。口を開いても、震える吐息しか出せなかった。首にかかったハサミの刃先が冷たく喉を撫でるようだった。
「つまらないことだと、思うかな」
直方体は分解されてしまった。自分が箱庭と思って見下ろしていた教室の中で、整然と並んだ生徒の形をした模型の中に、紛れ込んでしまった自分の顔を、私は拾い上げることができなくなってしまった。
 目の前には確かに彼がいるはずなのに、もう小柄なシオマネキはほとんど夕闇に溶けて形も見えない。急に自分が校舎の中で一人ぼっちになった気がした。カバンを握る自分の手が、いつもより冷たく固いようだった。
「それは、そういう意味とは、違くて」
今更何を言おうとも、言葉をひねり出すたびに喉が乾いていった。私は時計に目を移したけど、その時の数字なんて覚えてもいない。
「その、もう遅いから、ごめん」
彼からの挨拶も聞かずに廊下に出た。見慣れた帰り道を今でも変に覚えているのは、きっと季節外れに日の落ちた薄暗い景色のせいではなかった。

 その晩には早くにベッドで暖を取り、灯りを落とすと薄暗い部屋は放課後の教室の空気に似ていて、たった今まで自分がまだそこに立っていたかのような錯覚があった。夕闇に紛れる彼の姿が、部屋の天井にひとりでに描き出されていくようだった。
 結局のところ彼はどういった心境から語って聞かせてくれたのだろうか、その意図だけでも見えはしないかと、せめて暗がりに隠れた表情を解き明かそうとして、私には肝心なところでシオマネキの顔色を読み取る力のないことを知った。
 とりとめのない世間話の一つでも出てくれば事足りたものを、半生の悩みと苦しみをよもや日が落ちるまで滾々と語られてしまったことは、私の想定を過度に越していた。海から上がってきた一匹の蟹は、自分のことを語ろうとせず、しかしやがて育まれた友情は固く閉じられた思い出の扉を開き、いつか私の知的好奇心を満たす未知なる世界への冒険譚へと誘ってくれるであろうというのが、大まかには今までの私が打ち立てていた傲慢な筋書きであるらしかった。そういった可能性を期待したものの、しかし扉の中から流れ出てきたのは、輝く砂浜や綺麗な貝殻のこぼれでる煌びやかな情景の数々ではなく、淀んだ潮だまりで絡まり合って腐っていく、ぬるい海藻の匂いが立ち込める波打ち際だった。
 白く泡立つべたついた波が砂浜に押し寄せて、立ち尽くす私のつま先を触り、ついでにサンダルの隙間に砂を詰めた。丸まったような雲がいくつも海の上に留まっていて、鈍く光る太陽を遮ったりしてアルミ色のシルエットだった。砂浜の端っこは目に見えないほど遥か遠く、地平線まで伸びた波打ち際が水平線と連なっても続いている。どこまで行っても終わりそうにないので、今ここで歩くことを止めてしまって、砂浜につま先で字を書いて遊んでも良いのだと思った。濡れた砂に指を突っ込むと、埋もれている尖った小石が指を刺し返して、よく見ると小石はたくさんあって、それは本当はみんな切り落とされた蟹のハサミだった。切り離された部分の運ばれてくる集積場というか、ゴミ捨て場のようなものなのだと思った。
 私は足の先でハサミ塚を掘り返して指を切った。痛みはなかった。捨てられているハサミの中には、一際目立つ大きなハサミが転がっており、それは鉄っぽい重そうな色をしていて、間違いなく話に聞いた彼の失われた右腕だった。私はそれを摘まみ上げ、手のひらの上で口を寄せ付け、息を吹きつけて砂を飛ばすと、ハンカチに包んでポケットに入れた。彼に返すつもりだったのだ。明日の朝いちばんに彼の席に行って、ハンカチにくるんだままプレゼントしよう。
 これで機嫌を直してもらえる。しかし果たして、彼の機嫌は本当に損なわれていたのだろうか。もしも口にするのも辛い体験であるというなら、私にあれほど長く語って聞かせるとも思えないし、あれは彼にとってはすでに納得し終えた過去の話で、ちょっと言葉を間違えたくらいで勝手に気を揉んでいるのが不適当ということにはなりはしないか。そう考え始めると、まったくそう思えてきた。そうだ、こうなったら明日の私はさもどうでもいいような顔をしながら、彼がバラバラにしてしまった箱を目の前で組み立て直してしまおうか。そうできたら私は、ハンカチにくるんだハサミを差し出して、彼の前で包みをほどくだろうから、中身を見た彼は飛び上がって喜ぶかもしれない。あの物静かな彼が、興奮に目を輝かせて、おそるおそる私からの贈り物を受け取って、感激しながら右手のハサミを付け替えるのだから、その時にこそきっと私達は、本当に素敵な関係を手に入れられるに違いない。
 そう決めると早速歩き出そうとして、ポケットの中で彼のハサミが太ももへと突き刺さり、私は小さな声で叫んで、そこでようやく私の意識は夢から現実に引き戻されていくのだった。

 まぶたに光が当たるのを感じる。いつしか潮は引いて、湾の底では砂と水がグラデーションを描いており、私の顔を焼いているのは露わにされた濡れた砂泥が太陽の日差しをところどころで白く反射している光だった。いくつもの光点に紛れるようにして遠方に横たわる流木達が、表面で泥か塩かを白く乾かしているから、潮が引いて長いようだったが、寝ぼけまなこにはみんなどれもが同じような白い粒だ。かくして入り江はとっくに干潟へと姿を変え、繰り返される非日常的な風景の変化の連続は、寝ぼけた私の意識と記憶を混濁させることに容赦がない。海から海へと繋がる夢が頭の中で対流を起こす。
「そっか、海」
 日差しに晒され過ぎてしまった。溶けかけた思考はまだ熱い飴みたいで、上手く形を作ってくれない。風が吹いて、乾いた砂を巻き上げながら、私に誰かの声を届けた。
「海ですけど、あの、どこか具合でも」
 寝ぼけたままの頭では、過去の夢から連れてこられたみたいに聞こえる声だ。さっきまで夢の中で話していた声に似ていて、聞き馴染みはあるのに記憶よりもずっと落ち着いていて、そういった差異がかえって今との継ぎ目を曖昧にする声だ。霞がかったような目と頭では砂浜に立つ影の実在感は希薄で、声ばかりが妙にはっきりと聞こえた。私はそこに夢の続きが居るのだと思って、返事をする。
「わたしは、君に」
頭の中身が上手く言葉になっていかない。私が意識を組み上げるよりも早く、驚いた彼が口を開く。
「貴方は」
 見覚えのある影が、段々と輪郭を鮮明にしていく。彼の当惑が確信へと形を変えるのに、時間はかからないようだった。二人の足首に砂粒がかかる。私はいつに間にか立ち上がっていた。声の主は砂も風も意に介さずに、懐かしそうな顔で続けた。
「びっくりした。久しぶりですよね」
声がするたび、もやが晴れていく。小さな黒い目を湿らせて、いつか見た時よりも上手に笑っている。
「あの、久しぶり、だよね?」
何度目かの彼の声を聞いてようやく、私は間の抜けた悲鳴を上げて、やっと寝ぼけた頭が覚めた。
 
 駅からほど近い喫茶店に入り、弱めの冷房を私は大袈裟に有難がった。
 彼の先導で林を抜ける階段を渡り、速やかに舗装された路面に出た時、私は地元民の土地勘に感謝と感動の念を抱いた。実のところ座りっぱなしで眠りこけていて体は固く、慣れない砂場に足腰も疲弊し、少しばかり辟易した気持ちがあったのだ。
 慣れた様子で彼が頼んだソーダにはアイスクリームが乗っていて、羨む私の目線に気付くと、多いので良ければ半分どうかと、溶けそうな上澄みを上手に掬って、私のコーヒーに運んでくれた。
 それからは沈黙を埋めるように、ずいぶん長い間アイスクリームを突き合っている。静かに軋む天井の送風機が、汗をかいたグラスのふちに羽の影を滑らせているのを、私は黙って目で追っている。
「同窓会にはきっと行く。ありがとう、伝えに来てくれて」
 こんな辺鄙なところにまでと、自嘲しながらも語り口は柔らかく、彼は決してこの町を嫌いでないのだと思う。
 機嫌が良さそうにスプーンを運ぶ彼の雰囲気は、夢で見たよりも随分と柔和で、それが勝手な哀愁だと知りつつ私は少しだけ寂しい気がした。私の知らない海の匂いのするこの町が、彼を育んできた歳月を想う。喜ばしいことなのに、あの頃には退屈そうな目をして、ちょっと辛辣な言葉遣いで私に相槌を打っていた彼とは、きっともう思い出の中に取り残されて、二度と会うこともないのだと思った。
「聞いていいかな」
私の問いかけに、彼の顔に真剣さと困惑が浮かぶ。
「なんだろう」
 彼が着いてこられる速度で、ゆっくりと記憶を辿るように話す。私は当時の振る舞いを恥じつつ、当時の言動を振り返りながら、例えばそういった私の身勝手な行いの数々が、彼が誰かしら友人を作ったりするためには、迷惑だったのではないかと聞いた。私という個人の子守を押し付けられるような形となって、それが彼の孤立を余計に深めてしまったのではないかと。彼は少し驚いた様子で、黙って懐かしむように聞き終えると、確かに貴方にはそういう勝手なところがあったよと、おどけた調子で笑い飛ばした。そして少し照れ臭そうに、そんなわけがない、とも断言した。
「貴方が貴方なら、僕も僕だったよね。あの頃ときたら」
 曰く、当時の彼はあらゆる人間関係を煩わしく思い、邪険にあしらうのが常であったと。時に冷淡に振舞おうとし過ぎるあまり、攻撃的な態度すら見せることがあったと告げた。それはきっと他者との関わり方を忘失してしまった不器用さのためでもあり、同時に新たな交流が芽吹こうとすることに対しての、それを育むやり方を知らないための怯えでもあったのだろうと自嘲する。それなのに私という一人のクラスメイトが一方的に飽きもせず、毎日彼との交流に精を出そうと試みていたことは、彼の淡白な日常を飾る些細な彩りだったのだと言う。あの時は物好きな誰かが、無口で陰険な彼のためにいつでもそばにいてくれたことを、今でも忘れていないのだと、言い淀みもせずに彼は言うのだった。
「はじめてできた友達だったし、付き合い方とか実はあんまりわかってなくて」
 返ってこっちが気を使わせてただろうと彼は言い、私はそんなことよりも思いがけずに使われた、友達という彼の言葉が不意に眼がしらを熱くするから、口を強く結んで耐えた。そう思っていて良かったのだと、胸を震わせておきながら「まあ、だったらいいんだけど」とか言って、私の方がよほど人付き合いに不器用だった。私は記憶の中を探って、彼から受けた冷淡で攻撃的な仕打ちを思い出そうとも試みてみたが、どれも軽口を叩き合っていたつもりのあれとかこれとかが該当するのかと思いつくだけで、結局よくわからなかったので黙って真剣な顔をしておくことにした。他にも彼の語る思い出は、私の覚えていないことにまで仔細に記憶されたものが多く、それは今聞き直すと間違いなく当時の私が熱を上げていた小説や漫画の登場人物の台詞の焼き直しであったりとか、口癖の真似のようなものであったりしたので、彼が雄弁に思い出を語る度、私はさらなる羞恥に苛まれ、燃えそうな顔を冷ますためにいくらでも氷水をあおることにはなったが、決して居心地が悪くはなかった。
 そんな風にして時折り気恥ずかしさをくすぐられながら、時間がゆるやかに流れて行くのが、いつかの放課後みたいだと思った。このまま適当な区切りを見つければ滞りなく別れは告げられ、それじゃあ次はきっと同窓会でと、挨拶を交わして帰路に発つ自分が容易に想像できてしまう。
 くすぶり続けるいつかの後悔が、ポケットの中で騒いでいる。やはり私達の間には、お互い核心に思うところだけは、巧妙に見て見ぬふりをしようとする、ぎこちなさが残っているみたいだった。今はもう必要ないのかもしれない、砂をかぶって埋もれていた忘れ物を、私は彼に押し付けようとしている。
「あの日のこと、覚えてる?」
 疑問形を成しつつ、私は確信を持っている。いつかの放課後を、覚えていますかと私は問い、彼もやはり身を引き締める。
「覚えてる」
お互いに声が、先程までより少し強張ったような気がする。
「私ときどき、あの時の話を今でも夢で見ることがあるよ」
あの日から私は、結局彼に謝る機会を失ってしまった。翌朝に目が覚めても足の指にも太ももにも切ったような傷なんてなかったし、当然ポケットの中にはハサミなんてなかった。そのことは私の自信を少なからず喪失させた。つまるところ夢の中の私が彼に対して目論んだのは、謝意を示すことや理解を深めようとすることではなく、贈賄品に頼った懐柔と擦り寄りでしかなかったからだ。文字通り目が覚めた私は自身の狡猾さを自覚すると、もはや彼に対しては何を言ったところで保身や弁護でしかないように思えて、そうなると今度は口をつぐんで交流を拒んでしまう役目が自分の番になってしまった。彼にかける言葉を失ってしまったまま時は流れ、あげくには彼がやがて私の町を去った時には、全てとは言わないでもその原因の多くが私の行いにあったのではないかという、悔やみきれない愁傷があった。
 そのことを私はずっと、治らない引っ掻き傷がいつまでも瘡蓋にならないみたいに、気持ちが悪いままだったのだと、口火を切ってしまえば話し続けると、いつの間にかアイスクリームはただの粘ついた泡となって、グラスの縁でただれて溢れた。
「おっと」
 乳白色の雫はスプーンに掬われ、彼の口へと運ばれる。彼は給仕に小さく合図をして、二人分の水を求める。届いたグラスに薄く口をつけなおす仕草が、彼が返事をするためのちょっとした支度であるようだった。
「そういうことだったかぁ」
溜息をつく。私を叱責するような声色はない。私が伝えた内容を、ただ懐かしむように噛み締める。
「あの時は、厳しいことを言われちゃったな。でもあの日のおかげで、僕はこっちに帰ってきてからも、色々気にせずやっているようなものだから」
 違うんだと、つぶやきそうになった。私が幼かっただけだったのだ。そんなことは自明であるはずだ。どうかそんな風に、彼にも責があったかのようになど言わないで欲しかった。私なんかのために、彼は内省する必要がない。私は声を絞り出す。
「そんな風に言われることじゃ、ないよ。何もないんだよ。私が君に言ってあげられた、善いことなんて無かったのに」
 どの口が言ったものか、私は今更に彼からの誹りと叱責を求め、しかしその実態は彼の都合を蔑ろにする、自分が恥をそそぐためだけに懺悔に擬態した利己的な訴えであることに、今をもって尚無自覚であった。そして彼はそういった私の主張を、切って捨てることに躊躇いがなかった。
「貴方の手柄じゃないって言うなら、それこそ僕が勝手に思ってるだけのことだよ。思うところがあったから聞き入れさせてもらったし、反省したのも僕の勝手だよ。そうして今はこうやって、元気にやってるんだから。今さら貴方が否定したって、僕は感謝しているのだし、その思い出は変わらないわけで」
困ったような顔をして笑う。
「だから友達の軽口くらい、聞き流させてよ。どうか気にしないで。おかげで僕は元気です」
 こうなってしまえば私は、この後に及んで彼の寛容に慰められようとしている自分が惨めで、だが胸につかえていた息苦しさが言い訳のしようもなく溶けて消えてしまったことが、それ以上に嬉しいことがまた悔しく、胸の奥からこみあげてくる熱い何かを、軽口にして彼にぶつけた。
「ズルいんだよなあ」
もうなんだか私はすっかり、色々なことが大丈夫になってしまった。今では彼を前にしていると、私は青かったあの頃の自分に、戻ってしまいそうな怖さすらあった。
「私だって色々さ、あの時のこと気にしてて、それを勇気出してこうしてさ、言ったわけじゃん」
「そっか」
 彼は少しばかり考え込むと、それから思いついたように悪戯っぽく笑って言った。
「つまらないこと気にするんだね」
私はその日二回目の、ひどくみっともない悲鳴を上げた。彼はひとしきり私の様子を眺めて笑うと、軽口でからかったことを謝り、続けた。
「でも、安心した。僕もあの日は一気に喋っちゃったでしょ。それも、あんまり気分の良くない内容を。だから実はちょっと反省してた。聞く準備のない人に、一気に打ち明けるようなことではなかったかもしれないなって。だからもしかすると、もう僕と話をすることが、嫌がられてしまったんじゃないかとか考えて」
「違うよ」
 必死になって私は否定する。こちらこそ当時は失言を漏らしたり、今はこうして当時の私の軽率な判断が彼を困らせていた事実を知って、詫びる気持ちなら抱きはしても、私には彼を嫌う理由なんてあの頃から何一つとして有りはしなかったのだから。
「だったら良いや。嫌われたわけじゃなかったことがわかっただけで。僕はもう今日はそれだけでこうして会えた甲斐があったよ。いや、もちろん同窓会もちゃんと楽しみだよ」
 清々しく大きな伸びをして彼は言う。彼もまたあの日の放課後を、私の知らない憂いを抱いて今日まで悔やみ続けていたことを知り、不謹慎ながら私は心から安堵してしまった。思い悩む日々があったことは、もう彼だけの憂いでも、私だけの悔いでもなかった。
 姿勢を正して彼が言う。
「でも、できればあの頃に教えて欲しかったな!貴方に言われたのが悪口だったかどうかなんてことは、この際大した問題じゃないけど、でも貴方が急に話しかけてくれなくなったことは、これについてだけは、僕はずっと」
懸命に言葉を選んでいるようだった。しばらくの時間をかけ、思いを巡らし、それからやっぱり彼は最初に思いついた気持ちを、そのまま口にしたようだった。
「寂しかったってことぐらいは、怒らせてもらったっていいだろ」
私も遅くなってしまった言葉を、今更だけど彼に伝える。二つも三つも意味を重ねたようなつもりで、私は声を絞り出す。
「ごめんね」
そう言って不器用そうに笑って見せる。彼も仕方がなさそうに笑う。あの頃に見た記憶はないけど、あの頃の彼が同じように笑えば、きっと今と変わらない、こうして目の前にある顔と、同じ笑顔をしたんだと思った。
 それから後には、こんなにも簡単に片付いた憂鬱の数々が、今まで先延ばしにされ続けていた馬鹿馬鹿しさを、二人で声を重ねて笑った。すると胸の奥がまた忘れかけていた熱を急に吹き上げて、まぶたが熱く濡れたから、今度はもう笑い過ぎたせいにして拭ってしまうことにした。もう彼が真っ直ぐに立つために、必要な物なんてとっくに無かった。私はもうありもしない忘れ物に、ポケットの中を刺される心配もしなくて済んだ。
 そうして今度こそ本当に何の引っかかりもなく、私達はいつまでも昔話をして、やがて窓の外では夕日も沈み、町は静かに涼しさを増していったから、私は当たり前のように貝の入ったスパゲティを頼み、彼はメニューも見ずに鱈の入ったシチューを注文すると、厨房がにわかに活気付くのを聞きながら、私達は今度はお互いが知らない間の、お互いが歩んできた道を語らった。故郷の話、恋愛の話、仕事の話、それからあの頃とは少し変わったかもしれない、自分の好きな食べ物の話。そして私が頼んだスパゲティといえば、ハーブが贅沢で素晴らしい物だった。お腹を満たしながら語り合っていると、当初思っていたよりもずっと長く腰を下ろしてしまったなあとしみじみ面白い気持ちが沸き上がってきて、今日はまるであの頃の放課後の続きみたいな夜だ。

 見送りに来てくれた彼に、窓の隙間を開けて手を振る。語り尽くした私達は、もうほとんど会話も交わさず「それじゃあ、また」とつぶやいて、小さな笑みを交わせば良かった。小さな町は丸ごと夜に覆われて見えて、列車が出ると手を振り返す小さな影もすぐに溶けて見えなくなった。
 長い日の終わりを、列車が運んでいく。窓の外を望もうとして、映り返す自分の顔がまだ笑っていることに気がついて照れた。砂浜だった場所には真っ黒な世界が広がっており、波間に揺れる星の灯りの途切れる場所だけ、海と陸との境だとわかった。静かに眠る一面の砂が、夜闇の底を滑るようにして、窓の外を流れていった。古ぼけた車内灯は私のためだけに薄明るくて、心地よい揺れも手伝って、私を暫しの眠りに誘う。そういえば折角なのだから、靴を脱いだりして海水に触れてみたかったのだと夢見の際に思い出し、今はまたいつか来た時のための、楽しみに思っておくことにした。いつかまたその時が来たら、名前の知らないつる草を追ったり、岩壁の断層を眺めてみたり、冷たい泥で足を汚したり、変な形の流木を拾ってみたりして、疲れたら足を白く乾かしながら、太陽の下でソーダやアイスクリームを子供みたいに楽しむのだと思った。できることならその機会には、きっと海の似合う友達が、ついて来てくれる夢を見ていた。
 忘れ物が入っていたつもりのポケットには、今ではもうたくさんのお土産が詰め込まれてしまった。夢の中に持って帰って、一つずつ並べ直すのが、今からとても楽しみだ。
 小さな列車は私を乗せて、どこまでも、どこまでも、まっすぐに夜へと走って行った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?