優等飛行訓練教室

夕暮れ時のことです。
年老いたフクロウは森にいて、小さなネズミが腕を広げてバタバタ走り回っているのを見つけました。
フクロウの目は近頃めっきり悪くなっていましたから、このところはぜんぜん獲物がとれないでいました。
都合の良いことに自分から両手を振り回すネズミは、フクロウの目にもよく留まります。
これはさいわいとネズミに飛びかかるフクロウでしたが、小さなネズミを捕らえることは弱った目にはやはり難しく、大きな体はネズミから離れて、その眼前に降り立ちました。
フクロウは自身の衰えに、少なからず失望と落胆を抱きながら、逃した獲物の姿を追います。
ネズミは逃げることもせず、フクロウの姿に見惚れていました。
あんなに立派な大きな翼が、音の一つも立てることもなくその身を表して舞い降りたことに、ネズミは興奮して言いました。
「あなたはきっと一番飛ぶことが上手な鳥なんですね!どうか僕の先生になってください!僕はいつか空を飛ぶことが夢なんです」
今度はフクロウが驚きました。
そして馬鹿な夢だと思いながらも、フクロウは気分が良くなりました。
今ではめっきり老いぼれて目なんかまともに見えないが、飛ぶことに関しては今でもすこぶる自信がある。ハヤブサほどは速くもないし、ツバメほどは軽やかでもないが、強く、たくましく、それでいておごそかに飛ぶことのできる鳥といえば、まさしくフクロウで間違いがない。この子ネズミはネズミの癖になかなか見る目があるやつじゃないか。
フクロウはそんなことを考えて、お腹の毛をふくふく丸く膨らませると、いかにも偉そうに言いました。
「よろしい、では私が飛ぶことのなんたるかを君に教えてあげようじゃないか」
フクロウはネズミが飛べるようになるなんて少しも信じていませんでした。教えることに飽きた時には、こんな戯れはすぐにでもやめて、ネズミなんて食べてしまえばいいだけなのだと考えています。
「よろしくお願いします!」
ネズミはさっそくその日から、毎日フクロウの教えを請いに、夕暮れの森に通いました。
「そうじゃあない。もっと力強く羽ばたくのだ。君の腕は翼よりずっと小さいのだから、そのぶんもっともっと何度もたくさん羽ばたかなくてはいけない」
「はい先生!」
「それにまだまだ速さが足りない。飛んでいる時には自分もまるで風みたいになるものだ。君はもっと速く走る練習もしたまえ」
「はい先生!」
「おや、もう夜が更けてきた。今日の授業はここまでとする!今教えたことをしっかり自分で練習しておくのだぞ」
「はい先生!ありがとうございました!」
ネズミはフクロウの言うことをよく聞いて、授業のない昼間の間も一生懸命に空を飛ぶことの練習をしました。
両手をバタバタさせながら原っぱを走り回っていると、岩の下からトカゲが出てきて言いました。
「ネズミくんときたら何をしているんだ」
「僕は空を飛ぶ練習をしているんだ」
「空を飛ぶ練習だって!」
トカゲはおおいに笑いました。
「鳥や虫でもないものが、空を飛べるわけあるもんか」
トカゲはペタペタ地面を這いながら岩の下へ帰って行きました。
「飛んでみせるさ」
ネズミはひとりごとみたいに言って、また両手をバタバタさせながら、森へ向かって走って行きました。
夕方になるとフクロウが出てきて言いました。
「ふむ、今日も遅刻をしなくて関心かんしん。それでは本日の授業をはじめる」
「あの、先生」
ネズミは昼間にトカゲに言われたことを聞こうと思いました。
「どうしたのだね?質問かね」
だけどいざフクロウを前にすると、とても聞ける気がしませんでした。
フクロウからも飛べないと言われてしまったら、ネズミはもうどうしたらいいのかわからなくなってしまうからです。
「なんでもないんです。また僕の羽ばたき方を指導してください!」
「よろしい、では早速やって見せたまえ」
薄暗がりの森の中を、ネズミは一生懸命にバタバタ走り回りました。
「ほほう、ずいぶん良くなってきた。羽ばたきも前より力強いし、助走も前よりなかなか速い」
「本当ですか!」
「あぁ、本当だとも。だけどこれからも慢心せずに、練習をしっかり続けるのだぞ」
「はい先生!みんな先生のおかげです!ありがとうございます、先生!」
フクロウはネズミから先生と言われることにすっかり夢中になっているようでした。
「私も優秀な生徒がいて鼻が高い。おっと、もう夜がこんなに深い。続きはまた明日教えてあげよう。それでは本日の授業はこれまで!」
ネズミもすっかりいい気分になって、それからはまた日の高いうちには、開けた原っぱを腕をバタバタ走っていました。
そうしていると自分の体がそのうちフワリと浮き上がって、風を切ってビュンビュン飛ぶのだと思いました。
ムクドリが飛んできて、ネズミのことを見て言いました。
「ネズミさん、何をしているの。そんなに開けた場所で走っていると危ないですよ」
「危ないことないですよ。これは空を飛ぶ練習なんです」
「そうなのね」
ムクドリは少し考えるように黙ってから、ネズミに言いました。
「確かに空を自由に飛べたら、貴方たちネズミはもっと安心して暮らせますものね。だけど今はネズミさん、もっと茂みの中とか、モグラの掘った穴の中とかを練習に使った方がいいですよ。そんなところで大きく手を振って走っていたら、キツネやトンビに見つけてくれって自分から言っているようなものですよ」
「トンビってなんのことですか」
「ときどき空を飛んでいる、大きな茶色の鳥のことですよ」
「あぁ、それはフクロウさんのことですね!」
「いいえ、いいえ、違いますよ。フクロウは夜にいて、昼にいるのがトンビです。確かにどっちも茶色くて大きくて、ネズミを食べることには違いないのかもしれないけれど」
「なんですって?」
「だからねネズミさん、そんなところで走り回っていたら、トンビとか他の動物に襲われてしまいますよっていうことです。ほら、噂をすれば影だ。私はもう行きますから、ネズミさんはそのあたりの岩の下に隠れておいで。それではね、ネズミさん。空飛ぶ練習、頑張ってね」
そう言ってムクドリは低く飛びながら近くの茂みに飛び込んでいきました。
取り残されたネズミの頭のずっと上の空の方では、太陽の周りを大きな影がグルグル回って飛んでいます。ネズミは頭がクラクラして、言われた通りに岩場の影にへたりこみました。
そしてムクドリの言ったことを何回も思い返しました。
ムクドリは確かに、フクロウがネズミを食べると言ったのです。
頭があんまりクラクラするから、夕暮れ時になってもネズミは授業に行けませんでした。
翌日になっても頭のクラクラはあんまり治っていませんでしたけど、ネズミはやっぱり空を飛ぶ練習をはじめました。その日はちゃんとムクドリに言われた通りに、茂みの中に入ってやりました。
茂みの中は枝や葉っぱが邪魔なので、あんまり上手く練習ができませんでした。両腕を広げてもぶつかるし、長い尻尾はひっかかります。
それでもネズミは一生懸命に練習しました。走り回っている間だけ、ムクドリ言われたことをあんまり考えずに済んだからです。
夕暮れ時になって、ネズミは今度はちゃんと授業に行きました。
森の中からフクロウの大きな茶色の体が、音も立てずに滑り降りるように飛んできて、目の前にふわりと着地します。その見事さは、ネズミにはやっぱり一番上手に見えました。
フクロウは口を切りました。
「昨日はどうしたことだったのかね!君はいつも優秀で、毎日授業にきちんと出ていて、来ないことなどなかっただろう?ネズミの君が空を飛びたいというのだから、それには不断の努力が必要であることを、私はいつも教えているだろう」
ネズミはムクドリに言われたことをずっと忘れられませんでした。
「先生。先生は、僕のこと」
食べるんですか。
それを聞いて確かめられたら、どれほど気持ちが楽になったかわからないのに、どうしてもネズミには言えません。
「僕のこと、本当に優秀だと思いますか」
「何だね、君は毎日たくさんの練習をして、毎日しっかり授業を聞いているのだから、優秀に決まっているだろう」
フクロウは胸を反らせて、自分の自慢でもするかのように言いました。
「そうですか」
ネズミはトカゲに言われたこととか、ムクドリに言われたこととかを、少し考えてから顔を上げて言いました。
「ありがとうございます。昨日はこれなくてごめんなさい。お日様の下であんまりたくさん練習していたら、気持ちが悪くなって来られなかったのです」
フクロウはそれを聞くと納得したように言いました。
「なるほど、君は確かにたくさんの練習をしているからね。だけどそれで体を悪くしてはいけない。空を飛ぶということは大変な仕事なのだから、これは健康でいなくちゃ上手に飛ぶことは難しい」
年老いたフクロウにも、思い当ることがあるようでした。
「はい先生。ごめんなさい。次からはきっと気を付けます」
「いやいや、しょうがなかったことだ。これからも体に気を付けながら精進しなさい。それでは君は病み上がりの体ということだから、いつもの練習は少しだけにして、本日は特別授業とする!」
フクロウはネズミを背中に乗せて飛び上がりました。
木々の隙間を潜り抜けて、風をビュンビュン切りながら、大きな体は信じられない身のこなしで、夜の森から飛び出しました。
ネズミの目は地面の遠さに白黒したり、星の近さに輝いたりしました。
冷たい空気が全身を通り抜けて行くのに、寒いどころかとても気持ちがいいのでした。ビュオオビュオオとうるさい風は、ずっと聞いているうちに、まるで聞こえなくなっていきます。
何もかもが、ネズミにとっては生まれてはじめての大冒険です。
大きな翼が音も立てずに力強く羽ばたくところを、ネズミは背中に抱き着いたまま、特等席から見学することもできました。そしてやっぱりフクロウのことを、例えどんなことがあっても、一番の先生なのだと思うのでした。
地面に下りてもしばらくの間は、ネズミは頭も足も手のひらも、ずっとフワフワしています。
胸の中が燃えるように熱くて、やっぱり自分は必ず空を飛べるようになるんだと思いました。
何度もお礼を言いながら、ネズミは元気いっぱいに走って帰って行きました。
フクロウはひどく疲れました。あんなに高く、速く、長く飛び続けることは年老いたフクロウには大変なことでした。
それでもフクロウはネズミの帰って行った方を見ているだけで、なんだか嬉しい気持ちになりました。
そしてフクロウはこのところ、自分が先生と呼ばれていることを考えると、胸がチクチク痛むようでした。
そして、これからはネズミが飛びたいと言うなら、今夜のように自分が翼をするだけで良い。そうすればもうこんな授業の真似事なんて、し続けなくたってきっとよくなる。いつかその時に、自分はネズミにそのことを言おう。
そう思いながらフクロウも、遅い寝床に入りました。
翌日のまた夕暮れ時に、ネズミが森までやってくると、フクロウは言葉を失いました。
ネズミの尻尾がなかったからです。
いいえ、本当はありました。ちぎれた尻尾はリボンみたいに可愛く結ばれて、ネズミが両手で抱えていました。短くなってしまった残りの尻尾は、まだその先っぽが赤く色が滲んでいました。
「どうしたんだね、尻尾をそんな風にしてしまって!」
ネズミは胸を張って言いました。
「僕はずっと地面を走って、飛ぶ練習をしているでしょう。そうしたら僕の尻尾は長すぎて、地面にこすれたり茂みにあっちこっち引っかかったりしてしまうんです。これは練習の邪魔でもあるし、昨日先生がやったみたいに、森の中を飛ぶ時には、きっと危ない物でしょう?だからあれから帰ってすぐに、僕は自分で噛み切ったんです!」
ネズミの目はキラキラ光っていました。
フクロウは何も言えませんでした。
そんなことをするなんて思ってもいませんでした。
切れた尻尾はもう二度とネズミのお尻にはくっつきません。
空を飛ぶなんていう夢のために。
いいえ、フクロウがネズミに飛び方なんて教えていたために。
いいえ、いいえ、本当は、フクロウがネズミに、飛べるようになるなんて嘘をずっとつき続けていたために、とうとうネズミはその尻尾を自分自身で噛みちぎってしまったと言うのです。
「それから先生」
フクロウは返事ができないでいました。
「いつも飛び方を教えてくれて本当にありがとうございます!だからこの尻尾は、あの、なんていったらいいのか、そのお返しに、先生が良ければ、食べてください」
フクロウはもう、その場に居られませんでした。
巨大な翼を広げると、その身をひるがえして飛び立ちました。
ネズミがあわてて叫びました。
「先生、違います、大丈夫です!僕はフクロウがネズミを食べることなんて、いっこも怖くありません!先生のこと怖くなんてありません!先生!戻ってきて!先生!先生!!!!」
一生懸命に自分を呼ぶ声から、フクロウは必死に逃げました。
翼を風に打ち付けて、フクロウはビュンビュン飛びました。
森のずっと奥へ奥へと、フクロウは全力で飛び続けました。
古い翼がきしんでも、衰えた肺が悲鳴を上げても、老いぼれた心臓が限界を迎えても、フクロウはいつまでも飛ぶことをやめずに、どこまでも遠くに行きました。あまりにも速くフクロウが飛ぶから、その影も姿も、どこにも見えなくなりました。
森の生き物がフクロウを見たのは、その時が最後になりました。
ネズミはフクロウが消えた方を見つめたまま、ぽつりぽつりと恩師のことを呼んでいます。
何度も呼んで、呼び続けて、きっとフクロウが戻ってこないことがわかると、ネズミはやっと涙をこぼして、かかえた尻尾を濡らすのでした。

それでもネズミは毎日空を飛ぶ練習を続けました。
走る量もたくさん増やしました。助けになるのは、あの夜にフクロウの背中に乗って空を飛び回った思い出です。
フクロウの体の傾け方や、羽ばたく時の肩のひねりを感じられたことは、空を飛ぶためにはきっと参考になるはずだからです。
トカゲが見に来て言いました。
「そんなことをしたって鳥にはなれないんだよ」
トカゲはもう笑うこともしませんでした。ネズミのことが見ていられないだけなのです。
ムクドリも飛んで来て言いました。
「そんなに空が飛びたいんだったら、私が手伝ってあげますよ。きっと少しだけだったら私、ネズミさんと一緒にその岩くらい飛び越えられるから」
ムクドリの親切も、ネズミのことを止められませんでした。
「トカゲくんもムクドリさんも、気にしてくれてありがとう。だけど僕はいっぱい練習して、きっと飛べるようになってみる」
そう言い張って聞かないものだから、もうトカゲにもムクドリにも、言えることは何もありませんでした。
ネズミは何日も何日も、一人っきりで空を飛ぶ練習をしました。ご飯を食べることも眠ることも忘れて、ひたすら練習に明け暮れました。
もうあんまりにも長いこと空を飛ぶことしか考えていないから、ネズミはとうとう自分がネズミであることも、まるで忘れてしまっていました。
そして毎日夕暮れ時になると、授業をしていた森の入り口に行って、やっぱり誰もいないので、原っぱまで帰ってきました。
そんなある日の夕暮れ時です。
その日のネズミは特にたくさん練習した後で、いつもより一層クタクタになりながら森の入り口に行くところでした。
ネズミは驚いて足を止めました。
森の入り口の木の上に、知っている姿があった気がしたからです。
それはただの葉っぱや枝のかたまりとか、あるいは夕日の影の具合がそんな風に見せただけかもしれません。
だけどネズミは駆け出しました。
ネズミは今すぐそこに行って、練習の成果を見てもらわないといけませんでした。
いつからかネズミは、きっとそのために練習をするようになっていました。
そのためにはネズミは、もう自分のことだって、どうなったって良かったのかもしれません。
跳ねるように飛び出した体が、地面を蹴って飛び上がります。
短い足は、それきり二歩目を踏みませんでした。
大きく伸びた両腕は、習った通りに力いっぱい羽ばたくと、風を受け止める皮膜になって、小さい体を浮き上がらせました。
大きな夕日の真ん中に、小さな影が躍り出ました。
それきり原っぱの動物達がネズミを見たことはありませんでした。
そうして今でも夕暮れ空には、誰かを待っている小さな影が、くるくるひらひら飛んでいるのです。

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