籠を食む蟲が肥え

 そこにあるのは、蜜柑の木です。
 どこかに生えている、どこにでもあるような、蜜柑の木の一つにすぎません。
 どれでもかまいません。その枝のうちの一本の、その先の若い葉の一枚です。
 小さな小さな、二つの卵がありました。
 その色は、淡い緑に見えましたし、たくさんの水で溶いた青のようでもありました。伸ばした飴みたいな色だって見えましたし、宝石の名前を使うのならば、翡翠にすこしの琥珀を混ぜたのを、垂らして粒にしたようでした。
 もしも誰かがそれを見ていて、吹き飛ばしてしまわないようにと、息なんて止めながら眺めなくても、しっかりと葉っぱにくっついています。
 綺麗な粒のどちらにも、黒い影が透けています。
 どうぞそのまま、覗き込んでいてもらえれば、時折それらの二つの影は、小さな二つの卵の中で、寝返りを打つところだって見えるでしょう。
 今はまだ少し先のことですが、やがてその二つの小さな影が、この物語の主人公です。


 春。
 その朝。
 冷たさを残す濡れた空気が、若葉に朝露を運ぶ時間です。
 汗をかいたような葉の表面は、葉脈に沿って水滴を集め、その先端から滴をこぼします。水の粒を手放した若葉は、跳ね上がって揺れました。
 朝日に照らされる蜜柑の木の葉は、チリチリと柔らかく光りながら、暖かさを蓄えはじめました。二人が目覚めてくるために、十分な熱が必要です。
 宝石のようだった二つの珠からは、透き通るようだった輝きも失われて、今はもう、砂をふきつけた硝子細工に似て、ざらついた砂糖菓子のようにも見えました。
 まさしくそれは砂糖細工のように、珠そのものが簡単にほころび、崩れるための、薄く、軽く、脆くあるための、壊れてしまうための様変わりでした。
 聞こえるわけもないほどの、本当に小さな小さな、かすかな音がしたかもしれません。
 葉が、揺れたかもしれません。揺れたとしても、ほんの少しかもしれません。
 翡翠色の玉に裂け目が走りました。
 すっかり乾いたその殻は、たったそれだけでたちまちのうちに、ハラハラと砕けて欠片になると、音もなくてっぺんからほどけていきました。
 見えますか?不器用そうな短い手指が、寝巻きにかかる薄青い欠片を、払い落とそうとしています。
 残されたもう一つの方の玉にも、遅れまいとヒビが入り、天蓋が散り散りに分かれて降ります。
 見えますか?かぶりに欠片がかかります。あどけない顔が眠たそうにうつむくと、欠片はさらさらと流れ落ちました。
 静かに積もる卵の殻が、薄緑の円を描きました。伸びをするつまさきが、円の縁を削りました。
 これでようやくそんな風にして、そっくり二人の芋虫は、ずっと前からそこに居たような顔をしていました。
 二人の芋虫は、待ち合わせでもしていたみたいに、約束でもしていたかのように、視線を交わし合いました。
 芋虫は、芋虫を見るのは初めてでした。芋虫以外の、すべてのものも初めて見ました。
 もっともそこにある芋虫以外のものといったら、深い緑色のたくさんの葉っぱです。煮詰めたように濃い緑色です。
 一枚いちまいは小さな葉っぱですが、小さな小さな二人のためには、広すぎるぐらいの葉っぱでした。
 二人の葉っぱときたら春の日に照らされて、自分から光っているようにすら見える、特別な葉っぱに見えました。
 だけど太陽の光に照らされても、情けないほどに目立たないのが、芋虫達の着ている寝間着でした。
 二人の着ている寝間着は黒く、炭の粉でも練りつけたようで、小さな芋虫がそれを着ているのは、胡椒ツブにでも間違われそうな装いでした。だけど寝間着には、象牙色の立派なレースがぐるりと縫われていましたから、それは寝間着が真っ黒のせいで、星雲の帯のように見えることが時にはあるかもしれませんでした。
 芋虫は、寝間着のことも、太陽のことも、葉っぱのことも、自分のことも、なにもかも全部、好きだとか、嫌いだとか、ありませんでした。
 今はただお互いに、目の前にいるもう一人に、心の動きの全てが奪われていくようでした。
 二人分。半透明の指先が、確かめ合うように差し伸べられました。
 確かめたかったのは、自分の指先だったでしょうか。それともその先に触れる、相手の指先だったのでしょうか。
 触れ合う指先には熱がありました。熱は柔らかな痺れに似ていて、二匹の芋虫を驚かせましたが、すぐに溶けて消えました。
 二人の体はもうすっかり、いくらでも薪をくべられていくようでした。
 まだ少し冷たい春の風が、蜜柑の木を撫でています。
 枝葉の隙間を通り抜けるうち、いくつもに枝分かれした風の切れ端は、眠気覚ましに丁度良く、二人の熱を少しだけぬぐってくれました。
 芋虫は自分達が何なのか、思い出したみたいに気がつきます。
 芋虫は、二人きりというだけの、なんでもない芋虫でした。
 二人にはそれだけで充分でした。
 「おはよう」
 小さな小さな目覚めの挨拶が、確かに聞こえた気がするのでした。




 季節はとびきりに熱い夏です。
 夏の日差しは、春のそれよりもずっとずっと強いものです。
 すっかり葉を増やした蜜柑の木ときたら、金色の日をみんな跳ね返して、まるで緑色に燃える火です。
 二人の芋虫は、たくさんの枝葉で編まれている、緑色の屋根の下にいました。立派な屋根は、風が吹くたびに頼もしくザワザワといいましたし、下から見上げれば、光の斑点が点いたり消えたりするのが見えました。
 しっとりと重たい夏の風が吹いています。
 いくつもの光の斑点が、二つのまあるい頭の上を、行ったりきたり照らすのでした。
 ぱりっ、ぱり。ぱりっ。
小さな白い手が、葉っぱのフチをむしります。芋虫の指先は、まっすぐに揃えると綺麗な三角形をつくる、細くて短い指先でした。葉っぱのかけらを切り分けて、少しずつ口に入れるのが、その小さ過ぎる指先の、いくつかある仕事の一つでした。
 よく見ると葉っぱは、もうあんまりにも葉っぱらしい形をしていません。今はもう、二人の芋虫を乗せるには、穴だらけでこころもとない葉っぱです。
 大きくなった二人の体は、一枚の葉っぱに寄り添うには、ずいぶんと窮屈そうでした。だけどそんなことは気にせず、葉っぱのフチに並んで腰かけ、ごはんを続ける二人です。
 ぱり、ぱりっ。
 葉っぱを一口かじるたび、スジをいっぽん噛み終わるたび、白くて丸い芋虫のお腹は、少しずつ幸せになりました。
 二人は春が終わる頃から、寝間着を脱いで外套を羽織りました。もちろんお揃いの外套です。外套ときたらとびきりに薄くて、柔らかな生地がさらさらと心地良いものでした。
 育ち盛りの元気な二人は、葉っぱを何枚もなんまいも、それはもうたくさん食べましたから、草色の外套は、もう二枚も三枚も四枚も、そのたびに入らなくなってしまいました。
 外套は新しくなるたびに、いつだって二人の間で揉みくちゃにされて、すぐにシワだらけになるものでした。
 いっぱいになったお腹をよじるたび、外套の生地の合わせ目からは、透けそうな肌が覗きました。いつだってほんのりと薄緑に似ている、日の光の明るい日には、心臓だって覗き込めそうな白い肌でした。
  やがてごはんを終えた芋虫は、ぺたぺた、ぺたぺたと、真っ白な足の裏を鳴らして、二人でゆっくり歩いて行きます。二人で行くには小さ過ぎる枝の上を、ぶつかったりはなれたりしながら歩きます。
 丸くて幼い白い裸足は、ひらひらと揺れる外套の下から、いつだってはみだしているのでした。
 歩いてさえいれば、一番てっぺんの枝にだって、きっと二人で歩いて行けます。
 二人の今日の行き先は、遠い遠い枝の先っぽに見える、生えてきたばかりの小さな葉っぱで、それはきっと柔らかくて、青くて、素晴らしい葉っぱでした。ごはんは終わったばかりですけど、芋虫というのはいつだって、ごはんのことを考えるものです。
 歩くうちに、太陽は大きく傾いて、影の形をぐんぐん伸ばす時間です。
 やっと辿り着いた目当ての枝は、素晴らしい葉っぱを何枚だって生やしていました。育ち盛りの二つのお腹を、いくらでも満たしてくれそうでした。
 そしてとうとう満腹になれば、二人はお腹が空くまでの間、お昼寝をして過ごしました。次に目が覚めた頃にはきっと、お腹の中の栄養はすっかり空っぽになっていて、そうすればまたお腹の中に、美味しい葉っぱをまだまだ詰め込めるはずなのです。
 いつもであれば、そのはずでした。

「いたいっ」
 夢見心地を遮ったのは、芋虫の小さな訴えでした。
 悲鳴というにはおとなしいくらいの、大したことなさそうな声ですが、隣で寝ていた芋虫を起こすには、十分なくらいの声でした。
 芋虫達はこれまでに「痛い」なんて感じることは、せいぜい伸びすぎた爪がじゃれあう時に引っかかったりすることが、ときどきあるぐらいのことでした。
「どうかしたの」
「わからない、痛かったの」
 外套の裾をぺろりとめくり、つるつるの体を見せました。指を刺しているのは、背中と脇腹の境目あたりで、見えやすいように腕を上げれば、やわらかい皮膚はピンと張りました。
「けど、今はもう、痛くない、大丈夫みたい」
「見せて」
 芋虫のつるつるの白い肌には、そんなものがあったことなんて今まで一度もありませんでしたから、それは一目見てわかりました。針で刺したみたいな小さな痕が、描き間違いみたいにそこにありました。
 お尻の上から肩の下まで、ことさら爪を引っかけないように、芋虫は小さな指を走らせましたが、見慣れないものはその一つだけのようでした。
 あんまり触るとくすぐったそうにお腹にフニフニとシワを寄せるので、触るのはおしまいになりました。
「なんだか黒くなってる、小さい点だよ」
「小さくても痛かったよ」
 気持ちよく寝返りでも打っているうちに、木のトゲでも刺さったのではないかと、芋虫達は思うことにしました。なんだかスッキリしなかったのは、食べ過ぎた葉っぱがお腹に残っているからでしょうか。
 本当だったら小さな芋虫の考えることなんて、おいしい、あたたかい、ねむたいの、三つもあれば十分すぎるはずでした。
 芋虫の心の深いところに、小さな黒い影を残したまま、ゆっくりと日の落ちる夕暮れでした。



 秋の曇り空ときたら、鼠色で下手くそに描いたみたいでした。
 まとまりのないでこぼこの雨雲は、いつだって蜜柑の木を見張っていました。
 遠くには黄色い光がぼんやりとあって、それは灰色の雲を隔てる、低く浮かんだ太陽でした。
 昨日は長い雨が降っていました。秋は始まったばかりだというのに、空気がすっかり冷たい今朝です。
 芋虫が目を覚ますと、もう一人の芋虫は、一人きりでほの暗い空を眺めていました。
「おはよう」
 起きていた方の芋虫が、変に体をよじって言います。
 どうやらあんまり眠っていない声でした。だいたいそんなことは、もうとっくに今朝だけの話ではなくなっていました。
 芋虫は、ただいつもと同じように、静かに「おはよう」と返します。
 最近の芋虫は、おはようを言うことが、気分が悪く思いました。異様を目の当たりにする一日のはじまりは、小さな芋虫を押し潰してしまいそうでした。
 針の先ほどだった染みは日に日に大きくなり、今では手のひらほどもある、真っ黒の水溜まりのようでした。
 その中心にあるものを、芋虫は見ないことに決めていました。
 せっかく新しい外套を着ていても、その生地の下に透ける黒は、芋虫の体のどこにだって、必要のないものでした。
 そっくり同じだった芋虫に現れた、言い逃れのできない見分け方でした。それは芋虫二人には、外してほしいだけの印でした。
 いつだって芋虫には、目の前にいるもう一人だけが芋虫でしたから、見分け方なんて必要ありませんでした。そっくり同じで十分でした。汚い印なんて嫌なのでした。
 芋虫は、体をまっすぐに伸ばそうとすると、ひどい痛みがありましたから、最近はもうずっと変に体をよじったままでした。
 水溜まりを触ると木の皮みたいにごわごわ固くって、ひっぱればよく伸びそうなさらさらの皮膚は、そこには残っていませんでした。
 引き剥がそうともしましたけれど、どうやったって外せそうにないということだけが、痛みを伴ってわかるだけでした。
 芋虫は、眠るときは上手に背中を丸くして、自分の体を守りました。葉っぱを飲み込む時には、ゆっくりと少しずつしかできませんでした。眠ることも、食べることも、芋虫はたくさん失くしてしまいました。
本当に、体が痛かったのです。


 はっきりとしたのは、まだ秋になるずっと前のことでした。
「痛いっ」
 その朝も雨が降っていました。夜が明ける前でしたので、ほとんど夜のような朝でした。
「痛い、痛いっ、痛い!!!!痛いっ!!!!!!!!」
 芋虫は飛び起きました。背中を丸めてうずくまる芋虫が、腰を跳ねるように曲げたり伸ばしたりしながら、痛い痛いと繰り返していました。白い足が何度も宙を蹴りましたが、そんなことにはなんの意味はありませんでした。
「どうしたの!」
 芋虫は、今まで生きてきた中で、一番大きな声を出しました。
「ねぇ、どうしたの!」
「痛い!痛いよ!!!!痛い!!!!!!!!」
「どうしたの!なんで痛いの!どうしたの!!!!ねぇ、どうしたの!!!!どうしたの!!!!!!!」
 なんの意味も持たない会話を、暗い鼠色の空気の中、二人きりの葉っぱの上で繰り返す芋虫です。
「うううう!痛い、痛い、うう!うう!」
「痛いの!?何か痛いの!?どうしたらいいの!!!!わからない!わからないよ!!!!」
 ちっぽけな芋虫は、頑張ってありったけの声を張り上げます。痛くない方の芋虫は、たぶん痛いということを、実はあんまりわかっていませんので、何をしたらいいのかわからないなりに、そばにいながら声を張り上げて、せいぜい手を握ることが仕事でした。
 いつまでそうしていたでしょうか。背中を変にねじった形で、葉っぱの上に寝転がったまま、「うう、うう」「ふう、ふう」と息荒くしながら、ようやくいくらか静かになりました。
「まだ、まだ痛いの?ねぇ、何が、どうしたの」
 芋虫は、返事をするのもだいぶ辛そうですが、顔をしかめながら、一生懸命話しました。
「わからない。わからないけど、痛くて、今も、痛くて、うう、うう。おなか、せなかとかの、わからない、痛い。ううう。いやだ、うううう、痛い、痛い」
 しきりに悶え、はだけた裾から、つるりとしたわき腹が覗いています。点でしかなかったはずの黒い汚れは、その時にはもう何かの汁をこぼしたみたいな染みでした。
 真っ黒にひろがった水溜まりの中心には、おかしなものがありました。
 指先で掘ったくらいの穴ぼこに、黒い塊が詰まっていました。
 芋虫は、ひどく気持ちが悪くなりました。





 あんなにたくさんあった葉っぱ達も、冬になると固く干からびて、食べられなくなっていきます。
 芋虫はある朝目が覚めて、体のどこも痛くないことに気が付きました。もう変に腰を曲げたままにしたり、痛い痛いと泣き出したり、しなくても良くなっていました。体を曲げたり伸ばしたりすることにも、なんの心配もいりませんでした。
 それは本当に素晴らしいことでした。食べることも、眠ることも、寒さの中の温かさも、ちゃんと戻ってきていました。
 芋虫は嬉しくなって、よかったね、よかったねとたくさん言いました。
 元気になった芋虫達は、固くなる前の少ない葉っぱを、一緒にぺたぺた探しに行くこともできました。見つけた葉っぱは、やっぱりちょっと固くて、いつかの夏の日ほどじゃなかったかもしれませんでしたが、二人でニコニコ食べる葉っぱは、やっぱりいつでも美味しいのでした。
 痛みに怯えず眠れる夜を明かすことも、憂鬱なおはようを言うこともいらない時間は、久しぶりのことでした。
 たっぷりと育った二人のお腹は、もう全然空かなくなっていたので、二人はごはんにしていた暇を、散歩に使うこともできました。もうどんなに歩いても、背中がきしんだり、お腹が痛くなったりは、決してすることがありませんでしたから。
 葉っぱが枯れ落ちていますから、遮るもののなくなった風は、乾いた空気を二人にびゅんびゅん叩きつけます。枝も揺れるし、体も冷えます。すると二人の芋虫は、きゃあ怖い、きゃあ寒いなんて楽しそうに騒ぎながら、わざとぶつかりあったりしながら、落っこちないように手をつないで歩くのでした。
 どこまでもいつまでも歩きました。今では少し金色がかった白い脚が、外套の裾から覗いていました。
 本当に気持ちの良い冬の日でした。
 芋虫の襟首の隙間から、黒い痣が見えていようと。

 歩いて、歩いて、たくさん歩いて、歩き疲れた二人の芋虫は、太い幹にもたれて座りました。
 もう十分なくらい一緒に歩きました。いつか芋虫が痛い痛いといって、歩きにくくしていた頃の分まで、取り返すみたいに歩きました。
 芋虫達には、もうこんなにたくさんの蜜柑の木の枝に、知らない枝なんてきっとありません。
 自分たちの座っている枝の先に、はじまりの葉っぱがあったことだって、ちゃんと二人は覚えていました。その時の葉っぱこそ、もう落ちてなくなっていましたが、それでも二人は自分たちが生まれた場所のことを、今でも思い出せるのでした。
 それは乾ききらない朝露の、しっとりと涼しい朝のことでした。
 春の太陽をたくさん浴びて、柔らかく温かい葉っぱでした。
 そこにあったのは、たった二つきりの、宝石みたいな玉ころでしたね。
 二人は順番にそこから出てきて、ずっとそっくりな二人の芋虫で、ずっとお揃いの寝間着や外套で、どちらがどちらだったのかなんて、きっといつまでもそのことは、二人以外にはわかるはずのないことでした。
 黒い寝間着が今ここにあったら、二人はそれを手に取って、腕を通したり頭にかぶったりして見せて、くつくつ笑ったかもしれません。
 本当に素敵に育った芋虫達でした。二人は芋虫であることを、もうすぐ終えようとしていました。
 それはすぐ目の前のことのようで、本当はもうちょっと先のことです。
 休んでいるうちに、少し眠たくなる芋虫でした。いつしか日は沈み、空気はピシピシと軋むようでした。二人の肩から、大事な外套がはだけて落ちます。だけど成長した二人の体は、その下に着こんだ寝間着のおかげで、ちっとも寒くありません。寝間着は香るような土色をしていて、古くなった木みたいな匂いがしました。いつかの小さな寝間着のように、この二人の寝間着ときたら、どうして華やかさに欠けたのでしょうか。しかしそれは大人になろうとする二人には、よく似合う優しい色をしていました。それに小さな黒い寝間着だって、あれで可愛らしいものでしたよね。
 たっぷり分厚い大きな生地に包まれていると、芋虫達はどんどん眠たくなりました。
 二人の頭上を覆う屋根は、今は懐かしい緑の葉っぱの屋根に代わって、枯れ枝を編んだ大きな大きな籠でした。
 籠の外側には、夜空がありました。
 寒さが心地よい夜でした。風は凪いで、星の綺麗な、二人の夜でした。
 黒い天幕に砂子を流した空でした。それは今にも天幕から流れ落ちて、編み目の隙間から雨粒みたいに注がれそうでした。寝間着の裾を握りしめながら、二人の芋虫が眠たい目で待ち続けても、とうとういつまでもこぼれて来ない星空でした。
 この眠りは、きっととても長い眠りになることは、芋虫達にもわかることでしたから、その間にたくさんのことを夢に見るのだと思いました。
 それは春の日のことで、触れ合った指先からでも伝わる、脈打つような熱のことでした。
 それは夏の日の昼下がりのことで、葉っぱを持つ透明な指先が、可愛い三角形であることでした。
 それは秋の日の鼠色の朝のことで、のたうつ細い手を必死に捕まえていたことと、いつまでも捕まえていてくれたことでした。
 それは冬の日の散歩のことで、つないだ手でした。手のひらにあたる爪の固さでした。手を引く重さや、引かれる力の強さでした。力をこめただけ、握り返される嬉しさでした。よく知っている温かさでした。
 芋虫達は眠りにつきながら、つないだ手を放すことは、ずっと、ずっと、ありませんでした。






 春。
 その朝。
 まだまだ冷たい濡れた空気が、新芽を潤す時間です。
 日の出に照らされた蜜柑の木は、樹皮の小さなささくれそれぞれに、小さな影を映しました。
 影を作る光は、黄色でした。蜜柑の木だけではありませんし、今朝のことだけでもありません。春の朝焼けというものは、毎朝世界をみんな黄色く染めあげてしまうものでした。
 それは世界中のたくさんのものを、眠りから覚ます光でした。
 その目覚ましに誘われるのは、例えば蜜柑の木でしたし、その小さな新芽でもありましたし、二匹の虫たちでもありました。
 本当に長い、長い夢を見終えて、ようやく目を覚ます芋虫でした。
 目をぐずぐずさせながら、小さなあくびがあったかもしれません。
「おはよう」
 隣に目をやると、芋虫の隣に存在したのは、一匹の真っ黒なハエでした。
 目を疑いました。
 長細い体をしていました。腕や脚の途中からは、小さなトゲが生えていました。
 頭の上には、ザクロの実を叩き割ったような赤い塊が二つあり、どうやらそれがハエの目でした。
 芋虫の体に力が入りました。思わず握りしめてチクリとした手のひらの、その中にあったのは黒いかぎ針の束でしたが、それは確かにハエの指先でした。握られたかぎ針は、カチカチと小さく震えてはいましたが、握り返してはきませんでした。
 息が詰まるのがわかりました。
 そして、確かめなければなりませんでした。
 もう一度口にする「おはよう」の声が震えました。その返事は、それがもしも、おはようでさえあったのならば、どれほど救われたのかもわかりませんが、それは、どうしようもなく、おはようではありませんでした。

ブブブブブブブブ ブブブブブブ ブブブブブ

 羽音でした。ハエの背中で鳴っています。
「アッ」
何のために出したのかも、何の意味があるのかも、わからない声がひとりでに出ました。
 ハエの脚は削り出された彫刻のように固く滑らかな曲線で、のっぽな体を支えるには、いささか細すぎて見えました。だけどその脚はハエの体を、見事に弱弱しく持ち上げていました。
 お揃いの寝間着の片方は、ハエの体の下敷きにされて、くちゃくちゃに固まって潰れていました。
 だけど芋虫にはそのことよりも、大事なことがありました。
 黒いかぎ爪はぬるりとすり抜け、芋虫に時間を与えてくれません。
「待ってッ」
 ハエが羽音をますます響かせて、大きな頭をほとんど宙に投げ出すと、くびれた首は重みでちぎれそうに見えました。
 ほとんどずり落ちていくような姿勢で、ハエの体は木から離れて行くところです。
 黒い体が、揺り籠から放たれる時がきたのでした。
「待ってよ!!!!」
 芋虫は、もう寝間着なんて着たまま座り込んでいる場合じゃありません。
 芋虫だった小さな虫は、追いかけるように身を乗り出して、その指先を差し伸べます。
 それは奇しくも、いつの間にか、艶々とした綺麗な黒の、細くしなやかな指でした。美しい黒の腕でした。トゲは生えていなくても、指がかぎ針じゃなかったとしても、美しくて黒い手でした。
 指は幸運にも黒いトゲに絡まり、不幸にもハエの体は重く、そしてはだけた寝間着の下の、金と銀と瑠璃のドレスは、そのままでは寝乱れ過ぎていて、空を踊ることを未だ知らない、蝶の足に絡みました。
「いかないでっ」
 蝶は、祈るように言いました。
 虫達の体は、どこまでも下に落ちていきます。
 裾が枝に引っ掛かって、ドレスの裂ける音がしました。綺麗なドレスは、たくさんあった着替えのうちの、最後に残った一枚でした。
 二つの小さな虫の体が、軽い音を立てて地面にぶつかると、瑠璃の飾りが散らばったり、金の刺繍がほつれたりして、せっかくの銀色も土で汚れました。地面は固くて、冷たい雨みたいな味がしました。
 脚が上手に動きません。黒く、しなやかで、ダンスの上手そうな脚でしたが、今は上手に動かない脚です。
 痛い、ということを、蝶は今、はじめてちゃんとわかりました。
 あの時あんなに芋虫が、痛い痛いと声に出していたことを、ちゃんとわかることができました。
 だけど蝶は、痛い痛いと言いません。
 口を開くと出てくる言葉なんて、今はこれだけで精いっぱいでした。
「そばにいて」
 その言葉は掻き消されました。鼻歌のようなハエの羽音が、再び響きはじめたからです。
 ハエはすぐにどこかへ飛んで行って、あっという間に消えてしまいました。
 最後に掴んだ感触が、手にざらついて残っていました。
 二度と飛ぶことのできない蝶は、芋虫みたいに這おうとしたけど、どうしたってあの頃みたいに、上手くはいきませんでした。
 白くて小さな柔らかい手に、また引っ張って欲しくなりました。
 今はもう食べられないこともしらず、また一緒に、柔らかい葉っぱを探しに行きたくなりました。
 これからもずっと、眠る時には一緒に並んで、星を見ながら眠るのだと思っていました。
 まだ目が覚めたばかりだというのに、次におとずれる長い眠りが、芋虫だった小さな命の、もうすぐそばまで訪れていました。
「ねぇ、そばに、いてよ」
 蝶の目に映るのは、どこまでも高い蜜柑の木と、広くて大きな青い空でした。
 きっとそのどこかに、芋虫がいるかも知れませんでしたから、飛べない蝶は、いつまでも、いつまでも、子供みたいに芋虫のことを呼び続けました。

 蜜柑の木と芋虫のお話は、今はこれでおしまいです。
 温かくなれば蜜柑の木には、きっとまた芋虫が生まれるでしょう。その時のお話がどうなるのかは、私にもわからないことです。

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