弁点山の狼王

「弁点山にオオカミがいる!!!!」
 A組の昼休みはそんな噂で持ちきりだ。理由はハッキリしている。授業でシートン動物記のアニメ映画を見せられたのが、つい先週のこと。
 でも僕は知ってる。日本に狼はいません。絶滅してる。そんなこと常識だと思ってたけど、呆れたことにみんなは狼がいると思い込んでいる。あんな住宅地からほど近い、ちっぽけな山に。山っていうかほとんど雑木林だ。地元の子供なら遠足で一回は登らされてる。そこに狼がいるのだという。揃いも揃って中学生とは思えない幼稚さである。
 図書室で借りた小説を一人読みふけり、教室の雑踏を聞き流す。根も葉も他愛も無い噂に興味はなかった。噂の内容といったって、何組のだれが遠吠えを聞いたとか、その子の友達が姿を見ただとか、せいぜいそんな程度の話。どうせその友達っていうのも他の学校の生徒だったりして、この学校の生徒たちは、誰だってその友達とやらに会ったことがなかったりするものだ。
 そもそもみんなは狼のことを何も知らない。ものの本によれば、日本の狼というのは仮に生き残りがいたとしても、テレビや動物園で見るような外国の狼とはまるで違うらしいじゃないか。
「でさ!探しに行ってさ、見つけようぜ!オレらで!」
 聞き耳を立てていなくとも、あんなに大きな声で話されたら嫌でも聞こえてきてしまう。再び本の世界へと、没頭しようと思っていたのに。
 あの声の主はヒロタだ。友達が多いらしく、彼の周りにはちょっとした人だかりができていることも珍しくない。名前の通り体の幅がヒロい。背も高い。見た目の通りに無駄に声が大きくて、大抵はその声でろくでもないことをわめいている。今みたいに。
 四月に入ってすぐの頃、僕が休み時間を使って国語の教科書を読破しようとしていると、あのはた迷惑な大声で「ドッヂやろうぜ!!!!」と声をかけてきたことがあった。もう小学生でもあるまいし、制服を汚したくもなかった僕は忙しさを理由に断った。それからはもう邪魔をしにこない。まぁ、そういうやつ。よく知らないし、興味もないけど。
 しかし狼探しとは、なるほど楽しそうな遊びだとは思った。子供だけで山に行くのは危険かもしれないけれど、ハイキングコースみたいに簡単に登れる山だ。もう十月になるとはいえ、熱中症には気を付ける、というのが僕から手向けられる警告だろう。狼に気を付ける必要はない。
「チームメンバーはさ、オレだろ!ヤマは来るだろ!?タッツンとかサキも入れてさ!」
 後半の名前に聞き覚えはなかったが、ヤマというのはヤマウチのことだろう。今もヒロタのすぐ隣にいて、どちらともとれない表情で曖昧な相槌を打っているのがヤマウチだ。時々ヒロタと一緒にグラウンドでボールを追いかけている。僕も人のことは言えないが、あまり感情を表に出すタイプではないようだ。ヒロタと並ぶほど背が高かったが横幅は並ぶほどではなく、長い手足もあいまってそのシルエットは見栄えがした。人が教室で居眠りをしている時に限って、女子たちが固まってヤマウチの噂で盛り上がっているのを、幾度となく耳にすることがあった。静かにしてほしいものである。
「んでさ!捕まえたらさ、ニュースとかに載るかもしれねーし!!!!やべーよ絶対!!!!」
 はしゃぐヒロタは荒唐無稽な青写真を広げている。僕に言わせればそれは、あまりにも非現実的な夢物語だ。ばかばかしさに唇の端を吊り上げてしまいそうになる。何度だって言うけれど、狼なんて弁点山に居はしない。居ないものを見つけようというのだから、それだけでも噴飯ものというやつである。おまけにヒロタの計画はそれに留まらず、見つけた狼を捕獲するつもりでさえいるらしいのだから、はてさて、いったいどんな素晴らしい計画を立てているのやら。ここまでくるといっそ興味がそそられる。言いたいことだっていくらでも出てくる。
 それにだ。そうは言うけどさ。仮に――
「そうは言うけどさ」
僕の口はまるでひとりでに動いている。聞き覚えのある声が自分の口から出ていることに、気が付くまでに時間がかかった。
「仮に、狼がいたとして、まぁいないんだけど、まずどうやって探し出すつもり?」
待て。黙れ。思ったことを考える前に口から出すという行為が、自分に向いていないことを僕は知っていた。
「まず狼っていうのは犬の仲間だけど、これは映画でも出てきたけど、すっごく頭がいいわけ」
何も言わなくていい。駄目だ駄目だってば。
「しかも嗅覚がすごくいいから、人間の匂いもすぐにわかるから、遠くにいても簡単にこっちを見つけることができるし、あと足も速いから追いつけないし、それにもし襲ってきたら?もし僕が襲われたとしたら、まずは、まずは急所である首だけはガードする」
もうこれ以上何も言わないで欲しかった。そう思っても一度動き出した口は簡単には止まれない。止まってくれない。
「ナイフとかもあったほうがいいかな?でも使い方になれていないと危険だし、それに狼を刺激する可能性があるからね。やっぱり一番いいのは、戦わないこと。気づかれないためには常に風下を通らないといけないし、ちゃんと地形のこととか狼が活動する時間のこととかも考えないといけないから」
あぁ。

 ――やってしまった。わかっているのに、まただ。僕が何か喋ると大体いつもこうなる。そしてこうなってしまうと自分でも止められない。大人でも子供でも、僕が急に喋ると周りの人間はぎょっとした顔をして会話を止める。大人の場合はすぐに笑って、うんうんソウナンダネ、みたいなこと言ってまた話し始めるけど、沈黙が流れた瞬間には、みんなの目は会話を止めた犯人を探してる。そしてそれはどんな時だって僕なのだ。
 子供同士の場合にはもっと悪いことに、沈黙の後に誰かがこう言う。――――いや、実際に言われたのかどうか記憶があやふやだが。言われた気がする。わからないけど、でもなんて言いたいのかなんて、みんなの顔に書いてあるんだ。
「なんだコイツ」「そんな話はしていない」「勝手に入ってこないでよ」。
そしてたいていの場合は僕の発言なんか無かったことにして、さっきまでの会話が続けられる。そうでなければ僕を視界から追い出して、新しく盛り上がる話題がはじまる。その新しく盛り上がれる話題というのは、多くの場合は会話を邪魔した僕の話だ。

――――まぁ、いくら僕の話なんかされても僕は気にしないし、全然そんなのしてたらいいと思うし、気にしないので、そういうことがあるってだけ。それだけ。それだけなんだから、僕はまた孤独で高尚な読書の世界へとその身を投じて、耳を塞げばいいだけだ。

 ところがそれが、今日に限っては違うみたいだった。あんな風にはならなかった。波のように引いていった会話の中心にいたはずのヒロタの顔は期待と興奮に満ち溢れている。
 何が起こったのかわからなくて、もしやこのガキ大将を怒らせてしまったのではないかと、不安と少しの恐怖にかられた。ここですぐに謝罪の言葉が出てくればもう少し格好がついたのだが、そんなことが咄嗟にできるならここまでひねくれた性格をしていないという自覚があった。この体格差では喧嘩にすらならない。弱い者いじめは最低の行為だぞ。
「え、すっげ詳しいじゃん!!!!」
 ヒロタが笑っている。はじめは、よくそうなってしまうように今回も笑われているのかと思った。だけど僕の気分が悪くならなかったので、おそらく違うということがわかった。僕は他人に笑われようが気にしないので、もしこれが笑われているのだとしても、別に僕は嫌とかではないのだが。どちらにせよヒロタの気分を害したわけではなさそうなことに、とりあえず胸をなでおろす。
 次にヒロタが言った言葉が、僕のその後を大きく左右することになる。
「そしたらこれシモムラいれたらさ、最強メンバーじゃん!?」
最強メンバー。シモムラって言った。僕の名前はシモムラカズキ。この学年にいるシモムラを全員洗い出せば誰のことを言っているのかはっきりすると思ったけど、他のクラスの生徒なんてそもそも顔すらまともに覚えていなかった。ヒロタのぐりぐり大きい目が僕をまっすぐに見つめている。血色の良い赤い頬は僕が直視するには眩し過ぎた。僕が入って最強メンバー。自分の鼓動が早まっていることに気が付かなかった。さっきから何が起こっているのか、何を話せばいいのかもわからなくって、ヒロタの圧力に圧し負ける形で僕はすっかり押し黙ってしまった。
「いいんじゃない」
ヤマウチの声が僕に――――正しくはヒロタと僕に向けられたことに、何故だか少し身の引き締まるような思いがした。
「(どうでも)いいんじゃない」と言うような雰囲気がないわけではなかったけれど、今はとりあえずその可能性は考慮しないでおくことにした。
 冷静になろう。二人が何を言っているのか、わかっていても素直に受け取れないでいた。僕は狼を捕まえるだなんて、そんなこと無理だという話をしたところなのに、この二人はそんな僕をその仲間に入れるだって?


 自分が最強メンバーの一人として確定した事実を反芻しながら、放課後に町の図書館にまで行ってシートン動物記の例の巻を探した。学校の図書館にも同じ本があることを僕は知っていた。図書館では念のため図鑑も借りた。

 ヒロタはよく他のクラスにも遊びに行っている。見覚えのない他のクラスの生徒がよくヒロタの席まで話にきていた。球技大会のことを思い出せば、ヤマウチはバスケットボールでヒロタと同じチーム。結果は優勝。ちなみに僕は集計兼アナウンス係。そういえばヤマウチは一人で三種目にも出場しているのだと、女子達が興奮した様子で話していたような記憶がある。どうせ何に出ても優勝するのだろうと思った。あの長い歩幅であらゆるハードルを飛び越えて行くのだろう。

 気乗りはしないけど、誘われたからにはしょうがないよな。あれからずっと、頭の毛穴が全部開いてしまったみたいに首から上がポカポカしっぱなしだ。作戦はいつになるんだろう。その前に作戦会議はするべきだ。必要な道具は揃えられるだろうか。これは入念な計画を練る必要があるかもしれない。自分ときたら昼間は何を偉そうに語っていたのやら、もう頭の中は狼探しのことでいっぱいだ。
 追い出されるように図書館を後にすると、町はそろそろオレンジ色に染まろうとしていて、その向こうに僕らが登る弁点山の姿を探してしまう。夕日を迎えるいびつでなだらかな三角形は、町並みよりも一足早く夜の色になりかけていた。
 季節は秋らしくなったばかりでまだまだ蒸し暑さを残していたけど、吹き付ける風は季節外れに冷たく感じる。僕の顔の熱さのせいだ。まだ何日も先のことなのに、心臓は今から待ちきれないようだ。
 あの山に登って、僕たちは何を見つけるのだろう。なぜだか急に走り出したい気持ちになって、今はその気持ちに素直に身を任せることにした。町を包む夕暮れの空気が、通りすがりに夜風に変わるようだった。本が重くて走りにくくて、嬉しかった。晩御飯はなんだろう!
 早く帰ろう!



 早く帰りたい。
 正しく言うならば、帰りたいというのは少し間違っている。今はもう、これ以上一歩も歩きたくないだけだ。もっともっと正しく言うのであれば、今すぐ狼探しなんてやめて、リュックサックも投げ出して、このまま地面に大の字に寝転んで、次の瞬間にはエアコンがきいた自分の部屋の、冷たいフローリングの上に体ごとワープしたいってだけだ。
 やっぱりこんな馬鹿馬鹿しい計画になんか乗っかるべきじゃなかったんだ。憂鬱だし不愉快だ。この世界ときたらなんでこんなにも不公平で理不尽なんだ。
「大丈夫か?水飲めよな、ちょっとずつ。気持ち悪くなったら言えな?」
ぬっと見下ろすヒロタの体が、いつもの倍ほども大きく見える。逆光のせいで表情はよくわからなかったけれど、その声色が僕を心配していることはどうにかわかった。ハキハキした声からは疲れの色なんて欠片も感じ取れなくて、同い年のはずなのに一体何が違うっていうんだ。
 ヒロタの水筒はもうずっと、彼のリュックから取り出されて肩から下げっぱなしになっていた。銀色の巨大な水筒の中身はちょっとぬるくなったべたべた甘いスポーツドリンク。普段の僕なら飲まない味だな、なんて思ったけれど、僕はもうそいつを持ってきた本人よりもたくさん飲んでしまっていた。僕が用意した麦茶の水筒は山道を行くには小さすぎた。
 立ち止まって何杯目かもわからないおかわりを受け取った。顔を上げると、僕らを待っているヤマウチと目が合った。ヤマウチは何も言わない。心配もしないし文句も言わない。ただ僕が歩くのをやめるたびに、ちょっと歩き進んだそのへんで木を見上げたり草を見下ろしたりしながら、僕がまた歩き始めるのを待っている。
 ヒロタの隣に自分が立っていることが、なんだか居心地が悪いと思った。
「ちょっと良くなったと思う。ごめん、大丈夫」
息を整えながら、努めて冷静であるかのように返事をしたい僕ではあったが、もうそんな面目を保とうとする意味なんて、とっくになくなっていることには気が付いていた。
「気にすんなって」
水筒の蓋をしめるヒロタは、コップを拭おうとする素振りもない。水筒の肩ひもを担ぎ直して、よく通る声を山に響かせた。
「ミヤコー!ミヤコも平気ー!?」
 そうなのだ。――――なんて名前だったか、参加予定だった他の誰かだが、そいつらは結局来なかった。そりゃあそうだと思う。僕自身「こんなこと」だとわかっていれば、きっとホイホイ付いて来たりなんかしなかった。そのようにして僕はてっきり三人での行軍になるのだとばかり思っていたのだが、今日いきなり連れてこられたのが、あいつ。ヨシオカ。
「うん」
膝に手を当てて肩で息をしながら、ヤマウチの後ろで息を整えている小さいのがヨシオカだ。ヨシオカミヤコ。

 思えば最初から、僕がここにいなくちゃいけない理由なんてなかったのだ。
「じゃあこれ最強チームじゃん!!!!」
待ち合わせ場所の登山道入口に集まった時、予期せぬ人員の補填をヒロタは心から歓迎していた。最強チーム。最強メンバー。おそらく「最強」は、彼にとっての口癖の一つにしか過ぎない。ヒロタ自身はもう覚えてもいないであろう、興味を持ってすらいないであろう口説き文句。こんなにも軽い空気感をまとって、なんのありがたみもなくポンポンと発せられる「最強」が、僕を孤独な気持ちにさせた。それとも僕がそう感じるなんて、分不相応というやつだろうか。
 現にこうして山に入ってからだって、僕ときたらあんなに運動のできなさそうな女子にすら、置いていかれそうになってるんだぞ。あんな、いつも教室のすみっこで絵を描いたり変な本読んだりしてばっかりいる女子にすら!なんで来たんだよ!

「あそこ、休憩しよう。一旦」
 息も絶え絶えに追いつくと、ヤマウチはそう言ってあごで斜面の上を指した。促された方に目をやると、つづらおりになった山道の先に、生い茂る木の枝に隠されるようにして和風の屋根みたいなものが覗き見えた。
「オッケー!がんばろうぜ、な」
ヒロタが言いたいのはどうせ「頑張ろうぜ」じゃなくて「頑張れ」じゃないか。当然そんなこと口にできなくて、僕は口を結んでうなずくことしかできなかった。

 チョコレートバーを二本も食べるとずいぶん気持ちが元気になった。自分で思っていたよりもお腹が空いていたのかもしれない。まだもう二本入っていたから一本はヒロタが持ってきたカレーパンの半分と交換した。晩御飯が食べられなくなった時の言い訳を考えながら、お腹に押し込まれていく半分だけのカレーパンが美味しかった。
 休憩のために足を踏み入れた神社は、ずいぶん薄汚れていた。使えそうなベンチが残っていて助かった。背もたれに大きくドリンクの名前が書かれた赤や水色の何本かのベンチは、ほとんどひしゃげた骨組みだけになって、敷地の外に追い出されるようにして茂みの中に転がっていた。
 当たり前のようにヤマウチとヨシオカが同じベンチに並んで座り、僕は自然とヒロタと座った。ヒロタが座った瞬間に、ベンチから嫌な音が聞こえた気がした。
 横目に見ているとなぜかヤマウチのスポーツバッグからは、当然のように二人分のおにぎりと、麦茶の入った特大のペットボトルと、二つ重なったコップが出てきた。そのコップにもおにぎりにもヒロタの物は含まれていなかった。
 教室の後ろに集まって騒ぐクラスの女子達のことを思い出す。ヨシオカがその輪に混ざっているところを僕は一度も見たことがなかった。ヨシオカがヤマウチと話している場面も僕の記憶にはまったくない。だいたい僕はヨシオカのことなど何も知らないのだ。授業以外の時間では、仲の良さそうな数名の女友達と本や漫画の話をしているか、そうでなければ自由帳を開いて一人で鉛筆を走らせている。開きにくそうな留め方をされた使いにくそうな大袈裟な自由帳に、人の横顔や、人の手首から先だけ、あとたぶん漫画の男キャラや、ときどきスズメとかカラスみたいな鳥。それからたぶん馬か何かの全体像が描かれていたのを覚えている。あとは他には、まばたきもせずに紙をにらみつける横顔の、まつ毛が意外と長いことに気が付いた日があったかもしれない。今は横顔どころか、ヒロタとヤマウチの体に隠れてヨシオカの姿はほとんど見えない。
 今日はどうして来たんだろう。僕が来ることは、あれだけ大声でヒロタが話していたのだから、やっぱり知っていたのだろうか。なんでヨシオカの分のおにぎりがヤマウチのバッグから出てくるんだろう。好奇心が僕の中で首をもたげる。
「そういえば今日はどうして」
聞こうとした、その時だった。

「ガサガサッザザ」

 背後から聞こえた。枯葉の巻き上がるような音。確かに音がした。僕達同士で確認しあう必要はなかった。僕らみんな次の瞬間には、ベンチから飛び下りて音がした方向を振り向いたからだ。
 ベンチの後ろは山肌そのままの下り斜面に向かっている。雑草だらけの茶色の地面には、動物らしい姿はどこにも見当たらない。
 音は大きかったはずだ。すぐ後ろに来ているのかと思ったくらいだった。いやいや、でも山の中は静かだから、もっと遠くだということもあり得る。それに山の斜面ということは、大きめの石とか折れた木の枝とかが、今まさに転がり落ちていっただけなんていうことだってありえた。
 数秒間、恐らく僕らは同じことを考えていたに違いない。誰も身動き一つとらないで、山の風景に紛れ込む存在を必死になって探していた。それと同時に、そこに何もいなかったことの証明も必死になって見つけようとしていた。できれば後者が良いと、きっと無意識に願ってしまっていた。
 相反する二つの可能性だったが、僕が持ったままのチョコレートバーの最後の一本がうっかり手の中から滑り落ちてしまったことで、可能性が前者であったことが確定する。

「ガサッザッ ザザッ ザッ」

 気が付かなかった。なんで気が付かなかった!?すぐそこの木の影にいた。
 誰かの角度から見えなかったのか、それとも僕が見落としていたのか、今となってはどちらでもいい。躍り出た巨大な四つ足の影が、僕に向かって突き進んでくる。そして僕にはそれを止めるすべがない。リュックの口は開いたままだ。何かが入っているはずだ。気を引くためのビーフジャーキー。縛り上げるための丈夫なロープ。他にも準備はしていたはずなのに、今は何も思い出せない。一秒でも早く手を伸ばせと念じた。どうして動かない。なぜか動かない。ヒロタが悲鳴を上げている。うるさい!悲鳴をあげたいのは僕の方だろう!?
「こっちだ、ほら!」
 ヤマウチの長い腕が、大きく弧を描いて白球を放った。しなる関節は、きっと何千回と繰り返されてきた動きだ。飛んで行った白球はボールではなく、手に持っていたおにぎりだ。僕に衝突しそうだった褐色混じりの影もまた、すんでのところで大きく弧を描き、おにぎりを追いかけて神社の隅っこに跳ねるように歩いて行った。砂まみれになったおにぎりに追いつき、四つんばいで頬張る後ろ姿からは、何の凄みも感じられなかった。
 突然ヨシオカが僕の方へ駆け寄ってきたから、思わず呼吸を止めてしまう。ヨシオカは僕の前にしゃがみこんで、拾い上げたのはさっき落とした砂粒まみれのチョコレートバーだ。手際よくポケットからビニール袋を取り出して、クルクルと巻いて口をしばった。突拍子なく見えるヨシオカの動きは、僕とヒロタに少しの冷静を取り戻させた。ヤマウチは新しいおにぎりを準備している。
 巨大な毛玉はおにぎりをほとんど丸呑みにすると、ヒョコヒョコとヤマウチに近寄ってきた。つい今しがた僕が襲われかかった時にはあの三倍の速度は出ていたように見えたのに、今はあの頼りない足運びでは、これ以上の瞬発力はとてもじゃないが発揮できなさそうに思えた。
 あんなのは狼なんかじゃない。
 現代の、日本の、こんな小さい山に、狼なんかいるわけがない。当たり前なんだよ。僕が前から言っている通りだろう。だからもし、それでも誰かが狼を見たなんて言うのなら、遠吠えを聞いたなんて言うのであれば、現れたと言うのだとしたら、それはまさしくこういうことだった。
「……犬だよね?」
ひとなつこそうな黒い目が僕の落としたチョコバーを探していた。

 おそらく雑種。見ての通りかなりの大型犬。年齢はわからないけどたぶん老犬。お座りと待てができて人が好き。痩せすぎているが毛の状態は悪くない。間違いなく飼い犬だったのだろう。というのがヨシオカとヤマウチの見立てだった。ちなみにオス。
「今も飼われてるってことはないの?神社の犬とか、逃げてきただけとか」
 ヒロタの大きな手のひらが犬の顔を撫でまわしている。知らない犬を触るのは、それも顔を触るなんて危険極まりない。いつ気が変わって噛まれるかもわからない。そう忠告したし、聞きいれたヒロタも一度は撫でる手を引っ込めたけど、犬の鼻の方からあんまりしつこく手のひらに潜り込んでくるもので、とうとうヒロタの方が根負けし、大きな手のひらは犬のものとなった。
 ヒロタの問いは僕も思うところだったが、本堂の縁の下からビリビリに破られたドッグフードの袋と、軒下からは名前の塗りつぶされた犬用の食器が発見され、捨てられているという説は濃厚さを増した。
「お前も苦労してますねぇ~」
犬のほっぺたをこねまわしながらおどけるヒロタ。今にも眠ってしまいそうなほど、まぶたの下がりきった犬。ヨシオカはヒロタの後ろで何も言わずに順番を待っている。
 しかし、僕はその列に並ぶつもりはなかった。いくら人に慣れているとは言え、そのサイズは大型犬。頭のてっぺんなんて僕の胸くらいまであるだろう。山道でこんなのに出くわした日には、狼か何かと勘違いするのも致し方ないというものだ。そう、巨大な動物というのはそれだけで人間にとって脅威なのだ。人間は猛獣に対抗するために様々な文明の道具を使い、はじめて対等かそれ以上の関係になれる。そう、油断すべきではない。いくらその腹をさらけ出してこようが、決して心を許すべきではない。僕は触らない。触らないぞ。やっぱりさっきチョコバー落っことした時、僕のことを吹っ飛ばせるくらいの速度は軽く出ていた気がする。
「ところでさ。やっぱりというか、なんというか、なんだけど」
 のんきに犬で遊んでいるヒロタも、当初の目的を忘れているわけではない。僕らは今一度、作戦の内容を協議し合う必要がある。改めて採決する必要はなさそうだった。
「うん」
「それがいい」
「僕もそう思う」
満場一致。
「よし!じゃあ、オオカミを捕獲するってのは、やっぱナシ!」
いや、狼ではないんだけどね。そんなことはもう、今となってはどちらでも良いと思った。年老いた犬は首周りを左右から抱き着かれ、ヘラヘラと細め過ぎた目がほとんど見えなくなりそうだった。

「連れて帰れないかな」
 変に大きな野球ボールを犬の口から受け取りながら、ヨシオカがこぼした。ヨシオカが自分で持ってきていたボールだった。今日はじめて自分から口を開いたのではないだろうか。僕はリュックの底からロープと首輪を探そうとする。
「オバサンには話せたの?」
「それはまだだけど」
「ポンだって嫌かもしれないし」
「それはそうなんだけど!」
ヨシオカは体に見合わない大声で、ヤマウチと対等に言い合っていた。知らない登場人物が会話の中に突然二人も現れて、僕をさらに混乱させた。こうして並んで立っていると体格が倍ほども違って見えた。ああだこうだと二人は犬の処遇を論じ合っている。
 渦中の犬はヒロタとアンパンを食べている。あの大きすぎるエナメルカバンには、無限にパンが入るのだと思った。
 聞いているうちに全容が僕にも飲み込めてきた。断片的な情報をつなぎ合わせて整理してみよう。
 ヒロタが大声で狼の噂を話していた時、同じ教室にいたヨシオカも当然それを聞いていた。ヨシオカはもうその時には、山に捨て犬かあるいは野良犬が住み着いている可能性に思い至っていたのだろう。なぜヨシオカがそのことに気が付いたのか。それはヨシオカが飼っている大型犬――「ポンスケ」のことを常日頃から見慣れていたからと推測できる。そして話題はやがて狼の捕獲にまで及び、そうなってしまうと犬にゆかりのあるヨシオカにとっては矢も楯もたまらず、どうやら家族にまで面識があるほどの仲だったらしいヤマウチに頼んで連れてきてもらい――といったところのようだった。ヒロタもヤマウチから何も聞かされていないようだったけど、それに不満を覚えるような仲でもないらしい。思うにヤマウチにはそういう性分があるのだろう。そして僕にもう少しの想像力があれば、ヨシオカが心配していたのは犬の安否であると同時に、ヤマウチの安全でもあるということにまで推理が及んだかもしれなかった。
 結局僕が買ってきたロープはお役御免のようだ。「今、子供だけで決められることじゃないと思う」というヤマウチの意見が通る形になった。ヒロタは「ここで飼ったらよくね?」と言い、僕もそれが悪くないと思ったが「そんなのは無責任だと思うから」というヨシオカの申し立てにより却下された。今日一日だけで半年分はヨシオカの声を聞いている。
「それじゃ、いい子にしてるんだぞ」
ツナマヨパンが無限バッグから取り出され、ヨシオカがそれをやんわりと止めた。代わりに、僕が用意した捕獲用だったビーフジャーキーが餞別代りにエサ皿に山盛り突っ込まれていく。リュックの底に押し込まれている口輪の存在が、僕だけの秘密みたいになってしまった。全部ホームセンターで買ってきたものだ。来月のピックアップガチャ情報のことを思い出した。
 でも首輪だけはつけることにした。どれだけの買い物が無駄になったのか計算したくなかったし、これで狼に見間違えられることも減るだろう。少なくとも野良犬と思われることはない。
「ついてこないかな」
そうなったら困る、と言いたそうな顔をするヨシオカの言葉には、そうなることを期待する感じがあった。神社の鳥居をくぐる時、犬がいる方の広場から小さくヒンヒンと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「うわー、ちょっとキツいなこれ」
「今はしょうがない」
「ああぁ」
ヒロタとヤマウチが話している後ろで、ヨシオカがおかしな悲鳴を上げた。
 登ってきた道を考えるとうんざりするような気持ちだったけど、下り坂ならまだまだマシだ。それに僕は――いや、僕らは当初の予定とは違ったものの、一つの作戦をコンプリートしたのだ。足取りもいくらか軽くなろうものである。なにせ僕らは狼伝説を調査し、その実態を明るみにし、その真実を持ち帰ることに成功したのだ。教室の賑わいを思い出す。遠吠えを聞いただとか姿を見ただとか、話題になるのは狼の噂。明日からは、そこにもう一つの話題が加わる。「あの四人が、オオカミの正体を突き止めた!」「実際に弁点山に登って、めちゃくちゃデカい犬を発見したらしい!」「そのメンバーって、ヒロと、ヤマくんと、それから――――」

「カズキめっちゃ笑ってんじゃん!なに、犬そんな好きだったの?オレは普通だったけど今日見てめっちゃ好きになったわ!今度さ、ミヤコんち行って犬さわらせてよ。オレ散歩とかしてみたいし!カズキも行くだろ?アイツがミヤコんちの犬になったらさ、二匹同時に散歩できるよな!」
ヒロタは計画の立案者として誰よりも興奮しているように見えた。山を下りる最中も何度も犬の話をした。ヤマウチは何度も「それはまだわかんないって」というようなことを言いながら、やっぱり少し楽しそうだった。ヨシオカは時々、下りてきた道を気にしていた。僕もヒロタに返事をしたかったけど息を整えるのに精いっぱいで、ほとんど黙ったままうなずいたりするのが限界だった。それだけでも僕はそんな対話が嬉しかった。
 本当は僕だって、負けないぐらい興奮していた。だけどそれを素直に認めるには、まだ少しだけ恥ずかしかった。
 っていうか、なんだよ急に、下の名前、覚えてたのかよ。



 翌朝目が覚めてもまだじんわりと疲れが残っていた。だけど気持ちは学校へ行く気満々だった。
 ヒロタのことだ、朝一番に教室のみんなに自慢するだろう。そうなれば僕も当然無関係ではいられない。やれやれだ。まぁ詳しい話はヤマウチかヨシオカにでも聞いてくれよ。あぁ、うん、そう。メンバーだったよ。そりゃあもちろん危険かもしれないけど、結論としては、まぁね。言った通り、狼なんかいなかったってこと。
 想像の中で、あまりにも都合の良い会話を巡らせながら教室のドアをくぐる。
 想像していた会話なんて誰もしていなくて、ヒロタとヤマウチは顔を突き合わせて黙り込んでいた。今朝に限って二人の周りには誰もいない。ちょっと早く着きすぎたのかな。
「あっ、シモムラ。あのさ……」
ヒロタってこんなに小さい声も出せるんだな。僕の姿をみかけるや、すぐに声をかけてくるヒロタ。その表情には暗いものがある。体もいつもより小さく見える。呼び方が苗字に戻っていることに、今は気が付かなかったことにした。
「昨日の犬のことで、話さなくちゃいけないことができた」
ヒロタが言いよどむのでヤマウチがその話の続きを継いだ。やはりその表情は明るくなくて、ヤマウチでもそんな顔ができるんだということに僕は少しのショックを受けた。
「昨日家に帰ってから、ヒロは家族に山に行ったことを話したらしい。俺も帰ってから親に話した。犬のことの相談も兼ねてだったんだけど」
僕は話していなかった。今はまだ自分の胸の中に隠しておきたい気がしていたからだ。
「うちは良かったんだけど。いや、良くはないな。ごめん、うちでも犬は飼えないということになった」
「ヤマんとこは妹生まれたばっかだし、しょうがないだろ」
「うん。仔犬とか、小型犬ならどうかって、母さんも言ってはくれたんだけど。それから、ヨシオカの家も、新しい犬を迎えるのは難しいらしい。ポンスケは気難しいから、そんな気はしてた」
ヨシオカはまだ登校していない。
「昨晩も遅くまで親を説得していたらしい。たぶん今朝も粘ってるんだと思う」
話してはいないけど、うちだって無理だと思う。そう伝えると「だよなぁ」と、ヒロタは大きなため息をついた。
 ちょっと待ってほしい。話さなくちゃいけないことって、その話?それは昨日の時点でもう、可能性としては想定していた話なわけだ。なのに、なんだ。この二人の落ち込みようは。
「それで、何かあったの」
聞くのが少し怖い気がした。ヒロタが何か言いたそうに顔を上げて、かと思ったらまた顔を伏せる。相当参っているようだった。ヤマウチが言う。
「ヒロの親が保健所に通報することに決めたらしい」
「ごめん、オレのせいだ」
ホケンジョ。通報。犬の話だった気がするけど。
「えっ、それって、どうなるの、通報したら」
ヤマウチが言葉を慎重に探しているのがわかった。
「安全のために、野犬は捕獲される。安全っていうのは、犬じゃなくて、俺達住民の安全のためってことかな。捕獲された犬は保健所で預かられることになる」
「あんなにおとなしい犬でも?」
「関係ないと思う」
「そうなんだ。まぁ、でも大人が面倒を見てくれるなら、犬にとってもそれが幸せなことなのかもしれないね。金銭的にも時間的にも、あの神社で飼い続けるなんてこと、僕らにできるかって言われたら怪しいと思うしね」
「シモムラ、あのさ」
さとすような、兄が弟に話すような口調で、ヤマウチは僕に伝えるべきことを伝えてくれた。
「保健所に預けられた犬っていうのは、だいたいがそのまま処分されるんだ」
「処分」
馬鹿みたいに繰り返してしまう。自分が口にして、ようやくその言葉の意味するところが理解できた。ヒロタの顔を見る勇気がなかった。
「昨晩ヒロから連絡がきて、ヨシオカにも俺が伝えた。ID聞いてなかったからシモムラに伝えるの遅くなっちゃったけど」
 予鈴の直前になってヨシオカはようやく登校してきた。目元に全然元気がなくて、疲れ果てているのがわかった。
 というか、今の話を聞いて僕もどっと疲れてしまった。四時間目まで自分が何を書いているのかわからないままノートをとっていた。先生の声との間に薄い膜が一枚垂れ下がっているような感じがした。自分でも釈然としないのは、どうして自分がこんなにも憔悴しているのかということだった。昨日はじめて会った犬のことなのに。たかだか数時間も一緒に過ごしていないような犬のことで、自分がそこまで気持ちを入れ込んでいることに違和感のような感覚さえあった。
 枯葉くずをくっつけたまま僕らの前に姿を現した、巨大な老犬を思い出している。あの時僕がお菓子を取り落としていなければ、あのまま姿を現すこともなかったのだろうか。記憶の中の犬の顔はどれも笑っていたような気がする。なのに最初の瞬間の印象だけは、そのどれもと明確に異なる張り詰めた気迫をまとっていた。僕はよく知りもしない日本画や水墨画を連想し、巨大な和紙に墨と筆を叩きつければ、あんな犬が描けるだろうかと想像した。僕に向かってまっすぐ駆け寄ってきた時の顔。怖ろしくすらあった緊張感の正体を考えている。
 捨てられていたということは、前は飼い主がいたということだ。神社に餌皿があったということは、あそこで捨てられたということで、捨てられた犬がなぜそのままあんな場所にいたのか。あんなに人間が大好きなのに、どうして誰も通らないような寂れた神社に居座っていたのか。
「あっ」
状況が繋がって一本の線になるのがわかった。気が付いてしまうと落ち着いて座ってなんかいられなかった。給食のパンはカバンに隠した。ホームルームの時間がこんなに長かったことなんてなかった。
「あっ、カズキ、あのさ」
「山に行く!」
口を利く間も惜しくて走りながら告げた。衝動的だという自覚があった。
 ヒロタもヤマウチもヨシオカも、僕と同じことを考えなかったわけがない。それでもそうできないことには当然それぞれ事情があって、それは昨日一日遊んだだけの一頭の捨て犬とは、天秤にかけられない理由だったりするんだろう。
 だったら僕でいいんだと思った。連れて帰らない理由が僕にはないから。
 あの犬はずっと飼い主のことを待っている。だからずっとあの場所にいる。今でもきっと誰かを待ち続けている。当たり前のことに気が付くまでにずいぶん時間がかかってしまった。
 飼い主が必要なんだ。僕にあるのはあいつを連れて帰る理由だけ。
僕を突き動かすのはそれだけだ。今はそれだけ持っていけばいい。

 あとロープとパンと、水もたくさん。待っていくものは他にもあった。それらを持ってまた登るのか。あの山道を。やる気が急激に失われていく。だけど走り出した足は今更簡単には止まりそうもない。



 縁の下で涼をとっていたそれは、僕を見るなりむくりと起き上って、重たそうな足取りで、だけど早歩きに近寄ってきた。犬の表情が人間と同じ働きをするのかはわからなかったけど、嬉しそうな顔をしていると思ったし、僕も嬉しかった。
 早速ロープを取り出す。昨日は披露できなかったけど、実は何度も結び方の練習はしていたんだ。――暴れるなよ。絶対急に動くなよ。おとなしくしてろよ。飛びついたりするんじゃないぞ。すぐだからな。パンは後。いい子だな、よし、動くなよ。うん。
 練習の甲斐もあり、余裕で結び付けることができた。指先がしきりにフワフワに当たった。少しだけベタベタするフワフワだった。これくらいは誰でもできる作業なので、別段わざわざ自慢するようなものでもない。実際とても簡単な仕事だった。時間は少しかかったかもしれなかった。結び目は見たことのない形をしていた。汗をずいぶんかいた気がする。
 足元にコッペパンを置いてやって僕は水筒から水を飲む。冷やす暇のなかったせいで少しぬるかったけど今日は十分な量があった。僕が水を一杯も飲み干さないうちにコッペパンは跡形もなく消えてしまった。そこそこ大きなパンだったはずだ。期待に溢れた眼差しが僕を見ている。今日は無限にパンが出てくる人はいないんだぞ。あんまりわかっていないようだった。
 砂まみれの餌皿を軽くすすいで、そこにも水を注いでやった。山から下りる前にベンチでしっかり休憩をとっておく。犬は当然のように僕の足元に寝そべり、汚れた靴のつま先はお腹のフワフワに埋まって隠れた。靴越しなのに、つま先がじわじわ温かい気がした。
 ――――今なら触れるんじゃないだろうか。意を決して、毛むくじゃらの背中に指を伸ばす。指先が温かさに包まれると、柔らかくて、少しの湿気を含んでいるような、張り付くような肌触りがあった。指先が肌に当たって止まると、しっかりと熱さが伝わってきて、このフワフワな巨大な塊が、動物であることを強く感じられた。これが犬か。静かな感動が僕を襲った。
 大きな耳の片方だけがこちら向きに角度を変えて、この大きな生物はそれ以外何も動かなかった。僕に撫でられている間、自分からは決して。これが犬か。

 今日はゆっくりしていられないぞと、ベンチから立ち上がるタイミングを図っていると、その時は急にやってきた。
 作業着に身を包んだ男が二人。鳥居の向こうから境内に入ってこようとしている。二人ともそれなりの年配に見える。少なくともお父さんより年上だと思う。ここまで歩いて登ってきたはずなのに息の一つもきらしていない。途中までは車で登って来られたのかもしれなかったが、車を使ってまでこんなところに登ってくる作業着の人間は、なんらかの仕事に来ているに決まっている。
 朝の会話が強く思い起こされる。もう少し早く発つべきだった。
 だけど今こいつには首輪もロープもつながっていて、その先端は僕が持っているのだから、これはどう考えてもちょっと頑張っている犬の散歩にしか見えないはずだと、まず自分自身を言いくるめることにした。嫌な汗と鼓動を止めるには説得力があまりにも弱い設定だった。
 敷地に入ってきた男達はぐるりと周囲を見渡して、当然僕らの姿を見つける。二三言、何か言葉を交わしたようだが僕のいるベンチからは聞き取れなかった。男の一人が腰から下げた工具袋をガチャガチャ鳴らしながらゆっくりとこっちに近寄ってくる。いざとなったら走るしかない。緊張が高まり脚がこわばるのがわかっていたが、そうするしかない。体育は得意な方ではないが中学生の全力疾走ならこんな大人ふりきれるという根拠のない自信があった。逃げないといけないのは僕ではなく、足元に転がってあくびをしている年寄り犬の方であることを思い出した時には、その男はもう目の前に来ていた。
 無精ひげをたくわえて、落ちくぼんだ眼をした男だ。へたれた帽子のつばの奥で、魚みたいな目がぎょろりと動いてこちらを見ている。子供の浅い言い訳なんて、みんな見通しそうな目だ。こういう目つきの大人はみんな、僕の経験則的に判断すると、子供のことが嫌いな大人だ。この区別はさほど筋違いだとは思わない。そしてもっと悪いことに、そういう大人が特に嫌うのが、僕みたいに性格のひねくれた子供であることだって、自分でもちゃんとわかっている。だからってしょうがないだろう。せいぜい行儀良くふるまってやれば、なんとかこの場は切り抜けられるかもしれない。今はそのことだけ考えようとした。
 面倒くさそうに、男はへの字の口を開く。しわがれた声が僕の心を落ち着かなくさせる。
「にいちゃん」
何を言われたって構うものか。僕が言うべきことはわかりきっている。そいつでこの場を貫き通す覚悟はできた。乾いた唇を湿らして軽く息を吸い溜める。平常心だ。普通にしていれば何もおかしなセリフじゃない。僕はもう、いつだってそのセリフを言ってやる。
「壊れとるから使うたらいかんぞ」
おじさんの指先は、僕でもなく犬でもなく、そこら中ひびわれて穴だらけになったベンチを向かって指さしていた。そういえばヒロタが座った時にも派手な音を鳴らしていたっけ。
 ――なんだよ。なんだよもう!いいけどさ!心の中で悪態を突きながら少し楽しくなってきている自分がいた。そそくさとベンチから腰を上げる。どちらにせよ、こんなところに長居は無用というやつだ。
大型犬は涎を垂らしながらこっちを見ていた。番犬にはなれなさそうだと思った。
 もう一人の作業着の男性は、敷地の隅にある、薄汚れた電灯の笠を外していて、何やらこちらに向かってしきりに手を動かしており、それを見たおじさんもすぐにそちらに向かって行った。おじさんは去り際に僕に聞いた。さっきまで警戒していた質問だった。何の確認でもない世間話だった。
「にいちゃんの犬かい」
 僕は何のためらいもなく、にこりと笑って、思ったままに返事をする。
「はい」
少しだけ緊張しながら僕は言った。
「僕の犬です!」
「そうかい」
帽子の影が少しだけ笑って見えた。
「立派な犬だのう!」

 犬は僕についてきた。鳥居をくぐって山道に出る時、彼の目は遠くを見るように何かを探して、それから僕の顔を見上げ直すと、賢そうに隣に並んで僕が歩きだすのを待った。
 さぁ、帰ろう。



「ロボ!こらっ、座って!」
「うわああああっハハハ!!!!!狭っまいんだから、もう!!!!!」
 ただでさえ狭いうちのお風呂場にヒロタの笑い声はよく響いた。だけど狭いは余計なお世話だよ。
 犬の名前については言った通り。だってそのはずだったんだから。
 僕とヒロタはシャツとパンツだけになって二人でロボのことを泡まみれにしている。お母さんが帰ってくるまでに洗い終わる算段だ。その算段は算段と呼ぶにはあまりにもずさん過ぎたのだけど。
「絶…………っ対に乾かないと思う」
ヨシオカの予想は完全に的中した。洗い終わりさえしなかったのだから。替えの下着をわざわざ取りに、ヤマウチがヒロタの家まで往復してくれたおかげで、僕とヒロタは遠慮なく水浸しになることができた。犬の体は着替えておしまいなんてわけにもいかないので、ここからは酷く長丁場になるであろう予想ができた。
「こんばんは。おじゃましています。カズキくんの級友で、ヤマウチハルノブといいます」
 わざとらしくかしこまった大声は、僕たちに現状を知らせると同時に少しでもこの現状をマシに思わせるための礼儀作法なのだろう。ヨシオカも挨拶をしているだろうけど、シャワーの音に掻き消されてこれ以上の会話は聞こえなかった。
「うわあっ。どうするんだよ。オバサン帰ってきたんじゃないの」
「どうするったって、どうしようもないじゃん」
「ははははっ」
「ふふふっ。まぁ、怒られる覚悟はしてるから」
 よくもまぁこんな軽口が叩けたものだと、数時間後にみんなが帰ったあとのリビングで僕は自分の迂闊さを思い知るのである。



 本から顔を上げるといつの間にか部屋が薄暗くて、日が暮れようとしているのを知った。散歩行こうか。声をかけると、大型犬は重たそうな体をむくりと持ち上げてそばにきた。
 ロボは老齢を感じさせない健脚で、走るとなると億劫そうだが散歩に連れて行けばいくらでも歩いた。大きな体を支えながら、よくも元気に歩くものだと獣医さんも褒めてくれたらしい。その大きい体も家に来てから一回りほど膨らんだ気がする。
「毛の多い犬って痩せたり太ったりがわかりにくいよね」
 ヨシオカが言っていた。ロボはかなり痩せていたから、それがうちにきて健康的な体重になったのだと思われた。お父さんがおやつをあげすぎていなければだけど。
 冬も越して今のロボときたら本当に毛玉みたいでちょっとした見ものだ。散歩をさせているとすれ違う人のほとんどがちょっと振り向く。少し恥ずかしくて、なんだか誇らしい。いつだか一度、自転車に乗った女の子なんてすれ違いざまに何度も振り向くものだから転びそうだったことすらあった。ロボが散歩中にオロオロするのを見たのは後にも先にもあの時ぐらいだ。
 散歩中のロボは落ち着いたもので、たびたび小さな犬に吠えられたりしても一瞥もせずにまっすぐに歩くことができた。だがそれも時と場合によった。知っている人間、それもお気に入りの人を見かけると、僕の体を引っ張るほどの勢いで、ずんずん歩みを進めるのだった。
 そしてその時というのは、例えば今のことであり、場合というのは、あいつのことである。
「おぉー!!!!ロボ!カズキも!」
「僕はロボのおまけかよ」
「当たり前だろ」
「かみつけ、ロボ」
軽口を叩き合う。
 ヒロタはよく、ロボの散歩中に会った日にはそのまま道連れに付き合ってくれた。二年生に進級して三人とは違うクラスになったけど、きっかけさえあれば今でもこうして一緒に話した。
 ヤマウチとは特に、彼の部活帰りによく会う。そのたびにロボは僕をひっぱり、あごから前足から首の後ろから何でもかんでも触られに行き、お互いの気が済むまで触れ合うと、またなんでもなかったみたいに歩きはじめるのだった。
 散歩中はポンスケにもよく会った。ポンスケはロボに比べるとずいぶん小さい和風な様相の白いオス犬で、ロボのことを見ても吠えも唸りもしなかったが、決して目線を外すこともせず、立ち去ろうともしない犬だった。その隣にヨシオカが――ヨシオカミヤコがいる時はロボが熱烈な興味を示すため、そうなる度にヨシオカも僕も散歩紐をきつく握り直し、僕はロボを引っ張るつもりで歩く必要があった。ヨシオカはいつも少しかがみながらポンスケの頭に手を置いて、軽くお辞儀をして僕らが歩き去るのを待った。
「どうよ、最近のロボ!」
「早く抜け毛がおさまって欲しいな。毎朝制服が毛だらけになる」
 ヒロタなりに、ロボの年齢や健康を気にしてくれているんだと思う。僕も考えないわけではない。元気に見えるけど、ロボが老犬であることにはかわりない。そのリスクやコストについて正しく理解と納得を示すことは、ロボを迎え入れるために絶対に必要な条件だった。そのために導入された制度の一つとしておこづかい天引き制度がある。これは僕がロボの世話をおこたると、その内容と日数に応じて来月のおこづかいが減額され、それらの差額はロボ貯金へと回されることになるのだが、うっかり世話を忘れたりさえしなければなんと僕にはデメリットはなく、もし仮に差し引かれようともそのお金はロボに使われるため損をした気にならないという、まさに超画期的なシステムであり、ここ半年の僕のおこづかいは半減した。
 余談ではあるがお父さんのビールの本数も減っている。お父さんはそんなこと言わないので僕が勝手に気が付いただけだが、それ以外のところでも両親が協力してくれているのは明らかだった。あの日の晩、お父さんは遅くに帰ってきて、僕はその時もうベッドにいたから両親がどんな話をしたのかはわからない。ただお父さんの帰ってきた気配がした後、最初に聞こえたのが爆笑する声だったので、実をいうとあの日の晩は、こってり怒られた後にしては結構安心して眠れたりした。
 翌朝に僕が学校に行く前、お父さんもお母さんも真面目な顔をして家族会議を開廷したのが、本当はちょっと可笑しかった。そしてその日はもちろん、学校で三人に素晴らしい報告ができることが待ち遠しくて仕方がなかった!

 いつの間にやらいつものコースをぐるりと一周し終わったらしい。西の空では紺色の雲がオレンジ色の影を映していた。ここからでは見えないけれど、あの山がいつか見た時みたいに暗くなっていくのを想像した。
「じゃあ、また!ロボ、またな!」
おでこ同士をぐりぐりこすりつけあって、ヒロタは走って帰って行った。
意外と近くに住んでるんだよな。そんなことも、もしかしたらきっと知らないままだった。あんなことがなかったら。

 弁点山に狼がいる。そんな馬鹿げた噂話があって、僕らは狼を探しに行った。
「ただいま」
 一人と一匹が長い長い影を引いて、自分たちの家へと帰る。
 あの山に現れた狼王は今、そうして僕の隣にいます。






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