私のファーボ

はじめて親に嘘をついた。
「どこ行ったか知らない!?」

緊張や罪悪感の、なかったわけではないけれど。それらの気持ちは、今は少なくとも母親へ向かうものではないと思っている。
日のまぶしい朝だった。暑くならないといいなと思った。いつもみたいにトーストのすみっこを、ジャムもバターも塗らずに残してしまってから、そうする意味のないことを思い出した。今思えばジャムも、バターも、普段からまるでケーキみたいに山盛りにしてしまえば良かったんだ。そんなものくらい、いくらでもあげていれば良かった。
口の中に残る苺の甘さが、情けなくって、悔しくって、自分の喉の奥の方に、絞り出したつもりの叫びが残っているのがわかったけれど、声を出すのがみっともなくて、パジャマの袖を噛みながら、ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙を垂らした。

両親の離婚を知らされた時には、涙なんて一滴も出なかった。めんどくさいな。ってだけ。
せめてもう一、二年待ってほしいと懇願したけれど、その理由が犬であると聞くと、小学生のわがままとして私の意見は却下された。嘘でもいいから中学受験の準備だとかなんとか言っておくべきだった。

目覚ましを使わずに起きれた。ううん、本当はほとんど眠っていない。時計は20時。
急いで着替える。クラブで使う練習ジャージが良い。家の中は静かで、遠くから冷蔵庫のうなる音がする。まっすぐに玄関に向かい、用意しておいたリュックを担ぎ上げると、リビングの外、小さな庭へ回り込む。
「ファーボ」
ファーボはとっくに私に気が付いて、眠たそうに薄目をあけて、横になったまま待っていてくれた。
「行くよ」
ロープの金具をちゃらちゃら鳴らすと、仕方がなさそうに重たそうな腰をゆっくりと上げる。聞いているのかいないのか、大きな老犬はされるがままに首に縄を結わえ付けられる。
反対側を自転車のハンドルに結び付けて、カゴにリュックを放り込んだら、まだ賑わいの聞こえる住宅地を、一人と一匹で歩き始める。

知らない道を、ファーボは何も言わずに付いてきてくれた。途中で何度もペットボトルを取り出して、たっぷり水を飲ませながら、そのほとんどは口に入らず地面を濡らした。公園の水道で補充できて良かったね。
だけど息がだいぶ上がっている。私の足だって、今自分が歩いているのか止まっているのか忘れそうなくらい痺れてきている。
スマホを取り出して地図を見る。時刻は午前2時。参道登り口。合ってる。
もう少し、もう少しだけ頑張って。乾いた呼吸の音が不安を駆り立てる。自転車はこれ以上押して行けない。リュックサックもカゴから出して自分で背負わなくてはいけない。懐中電灯は家にあるやつ全部持ってきた。

登り坂に入ってから、ファーボの足はみるみる重くなっていった。しょうがないと思う。今では少し痩せたようだけど、それでもファーボは私と同じくらい体重がある。それにもうファーボはおじいちゃんだ。
いつかリードを握る私を引っ張って、転ばせて泣かせたデっカいバカ犬が、今はこうやってほとんど私に引っ張られながら、息を切らせて山道を登っていく。

ひゅううっ

聞いたことのない異音が響いて、それがファーボの喉から出たことに、私ははじめ気が付かなかった。
ひゅうううっ ひゅうううううっ
「ファーボ!!!!」
リュックを投げるように下ろして水を取り出し、キャップを開いて傾けてやる。ファーボは目を白黒させながら、すごい勢いで飲み下していく。
ここから先は水道があるかわからないから、水は節約しながら登ろう。そう思って山道に入った。
間違っていたのかもしれない。
何が?水を節約しながら登ってきたこと?ペットボトルを2本しか用意しなかったこと?もっと早くにお水を飲ませなかったこと?もっとゆっくり歩かせなかったこと?もっと早くに出発すべきだったこと?もっと近くにするべきだったこと?山道になんて入ったこと?こんなところまで来てしまったこと?こんなところまで連れてきてしまったこと?私があの時中学受験とかいって嘘つかなかったこと?お父さんとお母さんの離婚を止められなかったこと?ファーボの引き取り先が見つけられなかったこと?ファーボを逃がすことを思いついたこと?それを親に黙って実行してしまったこと?そのせいで今、こんな山の中で、真夜中で、ファーボと二人きりで、ファーボを苦しませてしまっていること!?そういう、もうすべてのことが間違っていたの!?
私はなんでこんなことをしているの!!!!!!!!

ペットボトルを一本まるごと空にしたファーボは何も考えていないような顔をして、泣き出しそうな私を見ている。いつもみたいにあごの下に手を突っ込んでやると、大きな舌を出して肘を舐めた。ベタベタしてくすぐったい。
大丈夫。息はもう平気そう。ごめんファーボ。少し休もう。時間は気にしなくていい。大丈夫だよ。持ってきたご飯、今ちょっと食べちゃおう。

月が明るい。尾根には空を覆う木もなくて涼しい。虫がどこかで鳴いているのに、なんだか静かな山だと思った。
悪くない山、なんじゃないかな。


私が立ち止まったのに合わせてか、ファーボはようやくといった面持ちで、地面に足を投げ出した。夜の土がひやりと気持ちよさそうだった。雑草の生えていない場所があって良かった。
境内を見回してみると、手水はさいわい流しっぱなしで、リュックに入れてきたご飯皿に汲めた。喉が渇いたら、あそこから飲むんだよ。お皿から下手糞にびちゃびちゃ飲みながら、言い聞かされる老犬を見ていると、なんだかどうにも頼りなくって、改めて不安が沸き上がってくる。
リュックの中身をひっくり返してファーボに見せる。これが一番重かったんだからと、荷物のほとんどを占めていたドッグフードを取り出すと、袋の口がゆるんで何粒も地面にこぼれ落ちた。
手のひらに集めて食べさせて、べたべたになったからズボンで拭って、それから封筒を引っ張り出した。私なりに考えた荷物の一つ。お年玉の、私が自分で自由に使える分。簡単な手紙と一緒に。
どこへ置いておけば読んでもらえるだろう。お賽銭箱に入れておいていいのだろうか。
寝てていいよ。ごろごろ転がり出てきたボールともぬいぐるみともつかない玩具達は、ファーボのわきに並べておいた。白い砂利をざくざく踏んで本堂に向かって歩き始めると、ファーボは付いて行こうか迷ったように首だけもたげて、やっぱり地面に倒れ直した。

やっぱり、あんまり綺麗じゃない。
今使った木材の踏み台なんて、なぜかところどころ緑色っぽくて、踏み抜かれていないのが不思議なくらいだ。こんな山奥の神社にまで、本当に人が来たりするのかどうか、見れば見るほど信用できない。そう感じるのは、夜のせいだと思うことにした。
封筒は神社の人にちゃんと見つけてもらえるように、賽銭箱の上に引っ掛けるように寝かせておいた。しわしわになったしまったけれど、これならゴミとは思われないはず。
戻ろうと思って振り返ると、なんだかおかしな感じがした。
ファーボがずいぶん遠くに見える。それとも小さく見えている?
なんで?
途端に背中が寒い気がして、少し早歩きで本堂を離れる。ここは山奥のよく知らない神社で、今は真夜中の、2時?3時?そんなことを急に意識してしまう。駆け足みたいな速さでファーボの隣に戻ってきた。
近くで見てみれば、ちゃんと見覚えのある大きさだった。変なの。

気が付いてしまう。思い出してしまう。わかりきってることだ。
一人だ。帰り道は、ずっと。

そうだ。帰り道は、ファーボがいない。ファーボがそばにいない。背中が凍りつく。噴き出した汗がたちまちのうちに冷えていく。ごまかしようもない。夜の山なんて、怖いに決まっているのに。そんな当たり前のことを、なんで忘れていたのかなんて、そんなことはわかりきっている。ファーボがいたからに決まってる。
どうしよう、どうすればいい。そうするはずだった予定の通りに、ここから一人で帰ればいいだけなのに、そんな予定を立てていた過去の自分が信じられない。
月が雲に隠れてしまって、さっきくぐった鳥居の先を覗き返しても、道どころかあんなに生えていた草木の影さえまともに見えなくて、どこかに消えてしまったようだ。虫がにわかに騒ぎはじめた。
それとも虫がうるさいんじゃなくて、吹いていた風がやんだだけ?それとも今、風が吹き始めたの?色んな音が耳に飛び込んでくる。そのどれもが何の音かわからなくて、何も聞こえないのと変わらない。私がなんとか聞き取れた音は、自分の心臓がドンドン胸を叩く音と、足元でハフハフ言う犬の吐息だけ。今はその聞き馴染んだ吐息が何よりありがたくて、しゃがみこんで、あごの下の皮を触らせてもらった。
よだれでひじがベタベタになっていく。いくらでもベタベタになってしまえ。

朝になるまで一緒にこうしていようかと考える。それとも、ここから一緒に帰る?帰りたいと思う。うちに帰りたい。
だけど

「新しい家のことなんだけどね
うん ファーボのことも 考えはしたんだけど
だから 残念だけど ファーボはね」

そうだ。
だから、私がやるんだ。誰にもできない。私だ。ファーボを助けられるのは、私だけ。私がやるんだ。
大きくって太い頭に、腕をめいっぱい巻き付けてやった。息が熱い。大きい。犬の耳ってどんな時でも臭い。

首輪の留め具を外す。ところどころ剥げた青い革に、油性ペンで書かれた数字の列と、今までに何度だって口にした名前。
よく覚えてないんだけど、ぬいぐるみのようだった子犬は、私の好きだったキャラクターか何かに似ていて、幼い私のつたない発声が、彼の名前をそうと決めたのだと、いつか母が言っていた。

私の犬。
私が逃がすんだ。私のファーボ。
老いた犬の目が月を映している。


足の感覚がない。喉から埃の味がする。何度も転びそうになって、だけど足を止めることができない。木々の影が波みたいに流れていく。懐中電灯が何度も登山道を見失いかけて、そのたびに心臓が縮むようだった。それでも走って、走って、靴の中では、足の指がずっと変に痛い。視線はずっと、帰り道を見失わないように地面を見つめ続けているのに、なぜかとぼけた老犬の顔が、視線の真ん中にずっとある。
最後に見たままのファーボの顔。
「待て」をしたままのファーボの顔。遠ざかって、小さくなっていくファーボ。闇の中に溶けていくファーボ。
黒い目が最後まで光っていた。何も考えていないのか、それとも全部わかっているのか、何も教えてくれないファーボの目。今でも私を見ている。きっとあのまま、鳥居をくぐって消えた私を暗闇の中で探してる。私がそのあとすぐに走り出したのが、ファーボの耳に聞こえていたらどうしよう。ファーボが老いた足で、本当は私の後を追いかけてきていたらどうしよう。私の足音が聞こえている限り、ファーボは私を追いかけてきてしまうかもしれない。ファーボが最後に走ったの、いつだったっけ。ファーボは今でも走れるのかな。来る時にはあんなに息を切らしていたし、走ったりしたら死んじゃうかもしれない。死んでしまうかもしれない。付いて来ないでほしい。お願いだから。お願い。付いてこないで。付いてこないで!付いて、こないで!!!!!!!!


自転車が見えて安心したのか、空が白っぽくなっていることにようやく気付いた。おそるおそる山道を振り返ったけど、当然そこには何もいない。
痛っ!!
立ち止まったせいで足が痛みを思い出す。靴に石が入り込んだのはわかったけど、そのまま走り続けたんだった。つま先にごろごろと当たる感触。自分の指を見るのが怖い。へろへろ歩いて自転車に辿り着き、サドルを椅子にして靴下を脱ぐ。やだな、もう。
生まれてはじめて、靴下を脱ぐのが痛い、という体験をした。爪が全部残っていたのは幸運だと思った。それでも靴下のこの色ばっかりは、説明できないし、もう捨てよう。履き直そうかとも思ったけど、指に布があたるだけで声が出そうになったから、靴も靴下も自転車の前かごに放り込んだ。
明日学校行きたくない。明日っていうか、今日か。足の裏の、あんまり痛くない部分を使ってペダルを回す。
私は家に帰る。一人で、帰るんだ。ファーボ、お願い、ファーボ。
どうかお願いだから、私を追いかけたり、探したりなんかしないでいてね。


母はまだ帰っていなかった。そんなこと、もうどうでもいいような気さえしている。なんだっていうんだ、門限くらい。どうだっていうんだ、朝帰りくらい。
実際のところ、私はなんだか一つの大仕事をやり遂げた気でさえいた。疲れ果てた体と不自然な興奮と、睡眠不足が私の頭をおかしくしているのかもしれないな、なんて、他人事みたいに考えたりしながら、変な歩き方でお風呂場に向かった。

本当は湯船に浸かりたかった。そうするべきだと思った。時間の制約と、湯を張る時間のまどろっこしさに負け、シャワーで体の埃を落とす。
水の音が雑音を掻き消す。温かさに任せて目を閉じる。まぶたの裏は、夜闇を思い起こすには十分すぎるほど暗く、かつての愛犬がまだそこにいる。最後に見た顔のまま、そこにいる。
黒い目が、私を見てる。
夜の中。山の中。暗闇の中で、一人ぼっちにされてしまった、可哀想な犬。私だ。
私が、彼をひとりぼっちにした。暗闇の中、置き去りにした。
あんなに賢い犬。あんなに可愛い。あぁ、そうだ。可愛かったんだ。ファーボはとっても可愛くて、優しくて、ファーボは、世界で一番の犬だった。世界で、一番の、犬だったのに。

今でも私は、赤ん坊みたいな泣き方をするんだな。格好悪いな。と思った。
色んなものが、お湯ごと排水溝へ吸い込まれていく。
ファーボ。ファーボ。繰り返す名前が、誰にも届かずに流されていく。
膝をついて、顔を覆って、息が苦しくて、それでも私は自分の心を空っぽにするために、何度でも何度でも、彼の名前を吐き出し続けました。

何度も。

何度も。




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