白猫の話をする錆色の鼠の話

 そんな怖い顔しねえでくれよ。
 何も追い出そうってんじゃねえんだから。そこへ座りなって。
 この通り、こちとら老いさらばえた痩せネズミなんでな。オマケにホラ、腕が一本足りてねえ。アンタなんかがその気になったらこの屋根裏から叩き出されるのはこっちの方だ。
 ちょうどブドウを絞ったところだったんだが、飲むかい。白サラミをやるつもりだったんだ。クラッカーの欠片がまだあったから、そいつを出すよ。
 この通り、そんな具合でね。ここじゃあ飲み食いにそうそう困りはしないんだ。もしもアンタがここに居付くつもりでも、ネズミ同士で醜く奪い合ったりしないで済むほどにはね。だからどうか穏便に頼むよ。
 何?どこからって言われたら、そりゃあもちろんこの家のキッチンからさ。
 疑っているね。ハハハハ、そりゃあそうだ。なんたって俺は一本腕の痩せネズミだからな。そこに転がってるライム一つだって盗んでくるには骨が折れるだろう。
 でもよ、見てみな。あそこに置いてあるのはマシュマロの袋だ。どうぞお好きならそこにあるスモークチーズの箱だって開けていい。できればアンタが座ってるそのイワシの缶詰には手を付けないでくれると嬉しいね。好物なんだ。それからええと、他に何があったかな。
 からかってるわけじゃないんだ。どれもこれも簡単な話でね。これみんな盗ってきたのは俺じゃない。猫が盗ってきてくれるのさ。そう、この家の猫。
 いい顔をするねえアンタ。
 ……そうだな。俺もちょうど暇してたんだ。一杯やりながらよ、昔話に付き合ってくれよ。
 さしずめそうさな……うん。ズル賢くて卑怯なネズミと世間知らずな子猫の話、といったところかな。
 興味は?まあそう言わずに。
 よしよし。そうと決まればアンタ何を飲む?ライム、黒すぐり、オレンジに……ああ、いいから座ってなよ。片腕暮らしにも慣れたもんでな。いいからいいから。ミルクは……もう残ってねえな。おっ、安もんだが蜂蜜も出てきたぞ。種類は少ないが酒もある。リキュールの小瓶ばかりですまんがね。
悪いがカップは使い回しで勘弁してくれ。多少は変な匂いがするかもしれんが……まあ、なんだ、気にするな。
 こういう時には新しい瓶の蓋でもあればグラスの代わりに良いんだがね。近々いくつか盗ってきてもらうか。
 そうだとも。なんだって盗ってきてくれるんだ、アイツは。

 俺に両腕が揃っていたのはもうずいぶん前のことになる。
 その頃は俺だってアンタほどじゃないが若かったし、力や自信にも満ち溢れていたもんだから、この家の冷蔵庫や戸棚の中のもの、みんな自分の物だと思ってた。
 アンタはまだ見てねえかい?この家の人間達ときたら、みんなだらしなくブクブク太って、間抜けでどんくさい連中でよ。食べ物はいつだってたくさんあって、そいつを漁るのは朝飯前だった。戸棚には鍵もかけねえし、パンの袋だって口はほとんど開きっぱなし、冷蔵庫はいつもパンパンで、ドアの閉じ切らない日はしょっちゅうだ。
 だから俺は腹が減ったら、ご家族様お気に入りの高級サラミや、香ばしく時には湿気たグラハムクラッカーなんかを拝借できる日は少なくなかった。
 俺はその頃は別に屋根裏に居座っちゃいなかったから、壁にあけた穴の裏なんかで寝て、人間達が寝静まれば起きちゃあ食い、食っちゃあ寝て、悠々自適の暮らしを満喫してた。今ほどじゃあねえが、悪い暮らしじゃなかったねえ。
 メシを盗むに当たって覚えておきたいことはいくつかあるが、中でも一番大事なことは盗んだことがバレないようにすることだ。わかるかい。
 ビスケットを半分とか、ニンジンの先っぽだけ齧っちゃあいけない。歯型の跡は残さない。パッケージをビリビリに破り散らかすなんてのはもっての他。ビスケットなら一枚まるごと、ニンジンだったら食いきれる量じゃなかった時には手を付けない。サラミは切ってあるものを、チーズも最後のひと欠片をってのが基本だ。
 ネズミがやったとバレちまったら人間ってのはヤツらものぐさなりに食いもんみんなしまい込んじまう。ネズミなんか住み着いちゃいないって思わせとけば、いつだって戸棚は開きっぱなしで、冷蔵庫のドアにはセロリの葉っぱが挟まったままなのさ。
 だけどなあ、いつでもメシが食えるからってネズミってのは気持ちまでだらけちゃいけねえよ。ついつい気持ちが緩んじまうと、それが大きな失敗につながることもある。それが俺にとっては「七面鳥の夜」のことだった。
 その日はディナーに立派な七面鳥が出ることを、冷蔵庫を覗いてた俺は前の日からわかってた。あんまり良い匂いがするもんだから熱気につられて起きだして、身を乗り出して覗くとよ。オーブンから出てくる七面鳥の、こんがりとしたあの皮の色の香ばしそうなことといったら!チキンだとああはいかないねえ。立ち上る湯気まで脂の匂いがしてよ。運ばれていく皿を見ながら俺は祈った。「人間達が食べ終わった後、どうか肉のひとかけら、詰め物のひとさじ、ソースの一滴だけでもいい。皿の底に残っていてくれ!」ってな。今夜はもう戸棚からカビの生えかけたビスケットなんかいただいたところで騒ぎ出した腹の虫がおさまるはずがねえもの。
 人間達が食事を終えて、ベッドに向かうのを見計らったら、俺はもう待ちきれずに冷蔵庫に飛び込むだろう。その晩に限って冷蔵庫のドアがきちんと閉じてるなんて悪夢さえ想像したけれども、俺はいよいよツイてたよ。
 冷蔵庫の中をよじ登ると、そこにはどうだ。見事に一本残った七面鳥のぶっとい足が、皿の上でテカテカ光って俺を待ってた!そんなのアンタ、正気でいられるかい?ハハハ、羨ましいだろう。サラミでも齧りながら聞いててくれよ。
 俺は夢中で飛びついて、パリパリの皮をむしりとった。まったくこの家の人間ときたら、あの体型からして肉を調理させると大したもんだと思ったねえ。お次は中の白い肉だ。いやこれが本当にたまらない。冷めてこそいるが、ネズミにとっちゃこれも嬉しい。脂が肉の目にギュウっと詰まってよ。皿の表面にへばりついたこごった肉汁をこそいで舐めても、これもまたなんて香りのいいものだ。皮、肉、皮、肉、狂ったみたいに食い進めて、一息ついたら隣の小鉢がクランベリージャムだと気が付いた。そうなったらもう止まらねえよなあ。結局俺一匹でほとんど半分食べちまったよ。
 まだ食えそうな腹具合ではあったんだがね。そうできなかった理由ってのが、ここからだ。
 考えてみりゃあこの肥満体一家が、七面鳥の足一本を綺麗に残しておくなんてこと、おかしいことに気が付くべきだった。取り合いになったっていいくらいだろうに。まあ、それでも尚あのベッコウ色の皮の魅力に逆らえたかって聞かれたら、今思っても自信がないね。
 俺はもう夢中でガツガツやってて、おまけに冷蔵庫の音ってのは中からだと余計にうるさくてな。玄関の扉が開く音にも、誰かが歩いてくる足音にも、俺はまったく気が付かなかったのさ。なんのためにご大層な耳がついてるんだか。
 その人間も災難だったね。遅くにようやく家に帰って、残しておいてもらったご馳走にようやくありつけると思ったのに、冷蔵庫のドアを開けたらほとんどなくなっちまってて、その代わりと言っちゃあなんだが、皿の上では太ったネズミが驚いた顔をしてこっちを見ている。
 お互い様だろうがこれには俺も驚いたというか、焦ったよなあ。あの時咄嗟にドアを閉められでもしていたら、俺はたぶん生きてはいなかっただろう。人間が驚いてのけぞった隙に、重たくなった腹を抱えて俺はあわてて飛び出した。
 あの時の人間の情けない顔をお見せできないのが残念なんだが……あの時は俺の逃げざまもきっと無様だったろうからな。忘れてやることにしよう。ほとんど転がるように人間の足元を走り抜けたはいいものの、壁の穴まで辿り着いてみればどうしたことだ、腹がつかえてくぐれねえ。
 そうさ、壁の穴なんて自分一匹くぐれるだけの大きさあればそれで充分だったからな。腹の形が変わっちまった時のことまでわざわざ考えておくものかよ。
 冷や汗をかいたね。自分はもうおしまいかもしれない。そう思ったら気分が悪くて、腹の中身がせりあがってきてピンク色のゲロをどっさり吐いた。
 ……あー、すまんね。サラミはもうやめとくかい。レモンか何か絞って飲むかい。胸がスッキリするからな。気が抜けてるがコーラもある。あいにく冷えちゃいないが……ええと、そうそう。
 おかげで胃袋はちょっぴり軽くなったし、頭もいくらかスッキリしてきた。それ以上体を突っ込まないで他の逃げ道を探すことを考えられるくらいにはね。人間だっていつまでもオロオロしていないから、すぐにホウキを引っ掴んで俺の後を追ってきた。狂ったみたいに振り回してね。
 このままぼうっと突っ立ってたんじゃホウキで叩かれてぺしゃんこだ。俺は慣れ親しんだ壁の裏に見切りをつけて、キッチンから飛び出そうとした。振り下ろされたホウキの先端が俺のいた場所に振り下ろされたのは、まさに俺が駆けだした次の瞬間だったといえる。俺も若かったからね。いくら腹がいっぱいだろうがそれくらいは機敏に動けたさ。
 さて、だけどもちろん安心はできない。人間は当然俺の後を追ってくる。あのホウキはたぶん俺の体が動かなくなるまで止まるつもりはないだろう。どこへ逃げる?
 一番に思いついたのは玄関だ。外へ出られれば人間もそれ以上は追ってこない。自然な話だね。だけどもそりゃあ、ねえ。
 アンタ、この家に入ってきたのはどこからだい?匂いがしねえから下水じゃねえだろう。おおかた外壁や雨どい伝って、そこの天窓の隙間からだろう。ああしとくと日が差し込むから時間がわかって便利なんだ、あれは。
そうさ、他にはろくな入り口が無いはずだ。なんせもう俺が見つかった以上、一度でもネズミが出た家だ。いっぺん外に出ちまうと、もう一度中に戻りたくても、配管の隙間は塞がれちまうし、地下室のヒビも埋められちまったら難しい。
 すまんね。アンタがこの家に入るのに苦労したなら、そりゃ俺のせいでもあるってことだ。
 そういうことを考えだすと追い出されるのも考えものだ。それに手放すにはあんまりにも惜しい家だろう?サラミもチーズもクラッカーも、いつだってたんまり買い込んであるようなキッチンだぜ。命がかかってんのに馬鹿なこと……とは思ったりしねえだろ?フフッ、ネズミの楽しみなんて食うことばかりさ。アンタだってわかるだろ。
 それによ。考えてみりゃだいたいネズミなんて、生来人間や猫に追われるように生きてくもんさ。今までは気楽過ぎた暮らしが、普通のネズミ並に戻るだけ。そう思えば開き直りもできるってもんでな。俺はどうにか家の中で逃げ込める場所を探すことにした。
 それからはもう、ずいぶん長い追いかけっこをしたもんだ。俺がソファーの下に滑り込むと、人間はおっかなびっくりホウキの先で俺のことを突こうとした。俺は埃やゴミクズくっつけたままあわてて反対側に飛び出して、人間も人間で悲鳴を上げてホウキをがむしゃらに振り回すだろう。だもんで今度はテレビの後ろに飛び込むと、俺を追いかけて振り下ろされたホウキの先がテレビの角にぶち当たって……これは今思い出すと笑えるが、テレビの角が今でもヒビ割れたままなのはその時のせいだ。今度見に行ってみるといい。メシを食うのに飽きた時でもな。
 結局テレビの裏からも追い立てられて、そんなこんなで追いやられるうちに地下室に転がり落ちてった俺だがな。ツイてたのが、地下室は明かりの点いてなかったおかげで、人間が明かりを点けるより早く洗濯機の後ろに隠れることができた。デカくて重たそうな洗濯機は簡単には動かせなさそうだったし、周りの棚も散らかり放題で、もし人間が俺の居場所にあたりをつけても簡単には手が出さない場所だ。カビの生えた靴下が落っこちてるのも嫌いじゃない。
 人間はしばらくウロウロ俺のことを探し回って、あっちこっちにホウキを突っ込んだりしてみてから、地下室から出ていったみたいだった。まずは一安心だが、それは助かったってことじゃあない。こうなると次に人間のやることといったら俺がいそうな隙間に向かって毒とか薬を吹き込むことだろう?
 ここでじっと隠れていなかったのが俺の賢いところでな。人間が出てってすぐに俺も地下室を抜け出した。二度目以降は割愛したが、追いかけっこをするうちに俺もだな。なんだ、えー……いくらかこう、腹の中がさらに身軽になってたもんで、その時にはちょっとの階段なんてもうヒョイヒョイとね。
 だが都合の悪いことに、眠っていたはずの他の人間も起きだしてきててな。地下室から飛び出したところでご対面だよ。そりゃあそうだ。テレビがあんだけ派手な音出してブッ叩かれりゃあな。俺を見て悲鳴を上げてたよ。俺もビビったが、いや向こうの方がビビってたね。真っ赤な顔をしわくちゃにして、スリッパを脱ぐと俺に向かって投げつけてきやがった。だがそのまましばこうとされるよりは、投げつけてもらった方がこっちとしてもよほどやりやすい。あんな軽いもん避けるまでもなかったが、そうそう当たるもんですらない。それによ。このことは覚えておいて損はないんだが、ああいう時に殴りつけてこずに手に持ったもんを投げつけてくる人間ってのは、たいていは俺らよりビビってるから、そのままわきを走り抜けりゃアッチから道をあけてくれんのさ。実際俺が突撃すると、必死になってつまさき立ててブヨブヨした背中を廊下の壁に押し付けてくれた。どたどた足音が迫ってくるし、せっかく譲ってもらったんだからさっさと失礼するに越したことはない。
 さっきの人間が戻ってくるよりも、俺が廊下の角を折れて身を隠す方が早かった。足音が止んで泣き声まじりの話し声がしはじめたから、俺はその間に逃げる方法を考えさせてもらうことにした。人間達がいつも二階の寝室から下りてくることは知っていた。これはつまり厄介な人間は今は二人とも一階にいるということだ。ヤツらがこのまま一階から地下室を探し回っていてくれりゃあ、俺は二階に登っちまえばしばらくは目をくらませられるって寸法だ。あとはヤツらが探し疲れて寝に戻ってくるまでの間に、どこか適当な隠れ場所を見つけてやりすごしたら、それからゆっくりキッチンに帰って壁の穴を広げりゃいい。悪くないだろ。
 階段なんかわざわざ上るもんでもないし、今までほとんど行ったことのなかった二階だが、背に腹は代えられん。それでこそ人間も予想もしないってもんだろう。ネズミがわざわざ階段上って逃げるなんてな。このあたりもまさに俺の知能の高さが発揮されたことの……別にいいだろうがこんぐらいの自慢は。年寄の昔話なんかそういうもんだと思ってくれよ。あと二回は自分のこと褒めるシーンが入る予定なんだから。さて、そうして俺はゆっくり二階を見て回ることができた。まぁ、走り回った後であれだけの段差を登るのは、思っていた以上にキツい仕事だったが。やっぱりその判断は正しかった。一時しのぎの隠れ場所どころの話じゃない。二階の廊下を奥まで歩いていってみると、天井に小さい窓があってな。
 そう、ここだよ。屋根裏の入り口だ。やつら元来ものぐさなタチなんだろうねえ。ご丁寧にもハシゴまで下ろしてくれたまま、ガラクタ押し込んでゴミ捨て場みたいに使われてたのがここってわけさ。
 こんなガラクタの山の奥にはもう何が積まれてどうなってんのか、ヤツら自身何も覚えちゃいねえんだ。埃まみれの蜘蛛の巣まみれで、こりゃ一番奥の古いところは人間の手が入らなくなってから数年どころの話じゃねえぜ。だから俺がそれ以来、こうしてありがたく使わせてもらってるってわけだ。食いもんどころか住むところまでヤツらのガサツさの世話になるとは、まったくよくできた話だろう。こうなるとますますネズミにとっちゃあ手放すには惜しい家じゃねえか。
 さらにありがたいことと言ったら、ほれ、あの奥の穴。あれはたぶん棒っきれかなんか突っ込んじまって古い壁板を割っちまった跡なんだろうが、潜ってみてわかったことなんだがね。これはなあ、フフフッ。あそこを下りるとまっすぐ先がもうキッチンの天井裏だよ。わかった時にはそりゃあもう、最初っからここに住んでりゃ良かったと思ったねえ!
 だからよ。俺は前までと同じように、腹が減ったら起きてきて、キッチンまでチョロっと下りて戸棚の食い物を物色し、腹が膨れりゃまたここで寝る。そうやって暮らしてりゃあそれで良かった。まあ見つかっちまったせいでやつら冷蔵庫のドアだけはきちんと閉じるようになっちまったがね。
 そういったところで、さてお待ちかね。ここに溜め込まれた食いもんの説明がまだされてないって思ってんだろ?それにこいつはネズミと猫の話だってのに、まだ猫なんか影も形も出てねえともな。
 前置きが長くなっちまったが、アイツのことを話そうじゃないか。
 その前にアンタ、おかわりどうだい。本番はここからなんだから、ゆっくり腰落ち着けていこうじゃないか。俺は一杯もらうとするよ。

 そんなわけで俺はいいねぐらを手に入れたわけだが、当然人間達は気が気でない。
 当たり前だなあ。冷蔵庫の中にまでネズミが入り込んで我が物顔で七面鳥を食い荒らして、そいつの死骸が出てくる様子もない。あれ以来俺も上手くやるようにはしてるが、あれだけの追いかけっこを演じた後だ。人間達も流石に過敏になっちまったし、俺もすっかり冷蔵庫は諦めたつもりで、シンクやテーブルに放置された皿の上から食べ残しをくすねる日が続いていた。ただあいつら食い意地張ってなかなか皿の上に食えそうなもんなんか残りゃしねえ。めぼしいもんが無い日にはいつも通り戸棚のクラッカーだ。カビのはえかけた湿気たやつな。
 そんなんでもまあ、悪い暮らしではなかったさ。戸棚にはいつでもクッキーやビスケットが置いてあって、たまにはそいつの片面にチョコレートでも塗られてあったらもっと良い。
 しかし俺にとっちゃあ満足のいく現状維持だったが、人間どもはこれを良しとはしなくてね。どうにかネズミの死体を見なきゃあ枕を高くして寝られない。そこで白羽の矢が立ったのが、フフフ。ネズミには猫。というわけだ。
 いや、実際俺も焦りはしたよ。アンタだって想像すると身震いしちまうだろ。あいつら猫ときたら、人間どもが馬鹿騒ぎしながらテーブル囲んだ足元にいながら、隣の部屋の壁の裏にいる俺らの足音まで聞こえてるそうだぜ。
ゾっとするよな。
 人間はホウキを振り回しても、周りの物をぶっ壊さないか気を使ってくれたりするだろう。……まあそれでもテレビはぶっ叩かれてたんだが。それが猫となるとアイツらネズミのことを追い回す時はあのデカい目に俺らのことしか見えなくなるらしい。だから花瓶だって写真立てだって並んだ食器だって普段は踏まずにスイスイ歩いて見せる癖して、ネズミの姿を追う時だけは何でもかんでも蹴倒しながら一直線にスッ飛んできやがる。あんな風に動かれるともう、俺達はできるだけ近くの壁に穴が空いてるか、アイツらのママが「ああ猫ちゃん、ダメよそんなバッチいもの食べちゃ!」と叱ってくれることを祈るしかない。そして大抵のネズミはそのどちらにも恵まれない。それが猫とネズミってもんだ。
 何より一番マズいのが、人間は時には俺達ネズミを恐れもするが、猫はネズミを恐れることが絶対にないということだ。そして俺たちネズミはどうしようもなく……濁したところでしょうがないが、猫が怖くてたまらないもんだ。
 こればっかりはしょうがない。あいつらが人間の家にいる理由ってのは、俺達ネズミを追いかけるためってのが半分と、残りの半分は膝の上で撫でられながら餌をもらうためだ。
 だからそれはかすかにだったが、家の空気に猫の匂いが混じってることに気が付いた日には、肝の冷える思いがしたぜ。天井裏の隙間からではヤツらの太り過ぎた贅肉の壁でまるで見えやしなかったが、人間達がワイワイはしゃぐその輪の中心に、地獄の使者があどけない顔して「よろしくね、アタチのパパたちママたち!」みたいな仕草で媚でも売ってやがるのかと思うと、まさしくこの世の終わりに思えたよ。
 俺が真っ先に考えるべきことは、あらためて家を捨てるか残るかの判断をすることだった。猫が来た以上は二度とのんびり暮らせない。それはもう今まで以上にってことだ。俺が壁の裏を伝ってキッチンの天井に下りた時には、そいつはもう戸棚の下で待ち構えながら、いつだってその上に飛び乗ってシナモンやジンジャーの小瓶を蹴散らし俺の体をなぎはらうだろう。なすすべもなく俺の体は地面に叩きつけられて、「うっ!」とか言いながら起き上がる間もなく、二発目三発目が俺の体を無慈悲にぶっ叩き、四発目から五発目以降は俺の死体を殴って遊ぶことになる。
 そうなったら最悪だよ。だがよ。言っちまえばそんなことはいらぬ心配だったんだ。
 夜もふけてくと人間どもは一人また一人と輪の中から外れていって、リビングの真ん中には小さな箱がポツンと一つ残ってな。邪魔な贅肉がどっかに行って、俺はようやくそいつの中身を拝むことができた。逃げるにしたって姿形ぐらいわかっておかなきゃ。だがどうも思っていたのと様子が違う。猫なんかいったいどこにいやがる。
 箱の底には綿くずのかたまりが残ってるだけ。人間どもめ、さてはどこかへ連れて行ったか隠したか。そう思って箱の中から興味を失いかけるところだったが、よく見りゃあ綿くずはモゾモゾと寝返りなんか打ってるじゃないか。白毛のかたまりは箱の中で四本の手足を伸び縮みさせて、丸い頭が顔出して一瞬猫の形になったと思ったら、また丸まって毛玉に戻った。
 いや驚いたね。あんな猫がいるもんだ。見事に生え揃ったジャガイモのカビだってあそこまでフワフワしたもんにはならんよ。よく見れば確かにモコモコした形の中には耳や尻尾も埋もれているんだ。
 そいつが丸まって眠り出したから人間どもはようやく大声で騒ぐのやめてその場を離れ出したってわけだな。
 まるで冬毛の兎の尻尾だけ集めた襟巻きみたいな毛並みをしていた。ありゃあ毛のせいで目方ばっかり余計に張って見えるんだろうが、伸ばしたところでお粗末な手足の短さときたら、それこそ本当にじゃがいもに生えた芽みたいなもんだ。いかにも子猫で違いない。
 こんなんはアンタ、ネズミをとるような猫じゃないのは確かだぜ。まったく猫にとっても気の毒なもんだ。ネズミが出たからって駆り出されてきたんだろうが、あんな体で出来ることっていったらなんだ?寝ること、鳴くこと、ミルクを飲むこと?それからネズミを乗り逃したあげく、棚から花瓶を落っことして叱られることか?どれもアイツは得意そうに見えたね。ネズミは猫を怖がるもんだってさっき言ったが、だとするとアイツは猫としては出来損ないだ。
 俺はもう気を張ってたのが馬鹿馬鹿しくってな。毛玉なんか拝むのをやめて、天井裏から真夜中にキッチンに飛び下りると、シンクの中からふやけたサンドイッチを頂戴することにした。その日のサンドイッチにベーコンが入ってたのはわかってたからな。ずっと目を付けてたんだよ。水浸しのサンドイッチから引っ張り出すと適当に塩が抜けて柔らかくてな、たまに食うと美味いんだあれが。
 人間どもろくに食器も洗わねえしサンドイッチの上からだって皿を何枚も重ねやがるからベーコン一枚引っ張り出すにも苦労する。食器の山がガチャガチャいうばっかりで駄目だ、重くて動かねえ。あんまり力づくに引っ張ったせいか、底の方でパリンだかガシャンだか聞こえた気もしたが、なあに、この方がカサが減って掃除が楽ってもんだろう。それにきっと掘り起こしたら割れてる食器は今のが一枚目じゃねえだろうさ。
 しかしこうなると俺の夜食はどうしたもんか。ふやけたパンのはしっこちぎって食べるのは、ベーコンを前にしちゃ味気なさすぎるってもんだよな。
だからって背に腹は代えられん。とりあえず今は腹を膨らせて、あとはまたいつもそうするように、バレないように戸棚からクラッカーやクッキーの一枚でも……そんなことを考えて、ベショベショのパンをちぎろうとした。
 ちょうどその時だよ。
「誰かいるの?」
嫌に近くから声が聞こえて、流石に俺も驚いた。うっかり蹴飛ばしちまった食器の山にロックグラスなんて乗っけてたのが人間どもの悪い癖だよ。溜まりまくった洗い物の山はたちまちのうちにバランス崩して、滑って落ちたロックグラスが、ガシャーン!
 こうなっちまうとシンクの底ではギラギラしたグラスの切り口が牙みたいにずらりと並んで口開けて、ちょっとした即席鼠罠の完成だ。とっさに飛びのいてなかったら刺身か串刺しになるところだった。これについてはヤツらのズボラさを恨んだよ。メシを漁っててこんなに冷や汗かいたことは七面鳥以来だな。
 さっきの声の主は大きな音に驚いたのか、耳に障るかん高い声で悲鳴をあげた。
「うわああ!?」
「うるせえ!お前のせいで死ぬとこだったぞ!?」
咄嗟に怒鳴り返してたよ。しょうがねえ。そいつのせいで俺は危うく死にかけたんだ。
 誰かと思って探してみたら、床の上だ。シンクから見りゃ下の方。真っ暗闇の中に見覚えのあるフワフワのかたまりが座っているのがぼやっと見えてね。その薄ぼんやりした白い影みてえな顔の真ん中に、穴があいたみてえにでっかい二つの真っ黒の目がぎょろぎょろしながらこっちの方を見上げてるんだ。
 いやギョっとしたね。真っ暗になった部屋ん中にも関わらず、俺がチラっと身を乗り出しただけでバッチリこっちが見えてやがるから大したもんだ。
 とはいってもそのナリは子猫。あとはもういくらか手足が伸びて、牙と爪でも立派に砥げてりゃあ俺もちょっとは怖がってやれたかもしんねえな。ついでにフワフワ邪魔くせえ毛も切ってくりゃいいさ。伸ばした爪でも使ってよ。あれじゃあ子猫というよりは綿飴のオバケとでも言われたほうがよっぽど信じられるってもんだ。
 その猫もどきみてえなフワフワは、飛び掛かろうとするでもなくよじ登ろうとするでもなく、俺がベーコンをすっかり諦めちまったのを不思議そうに見ながらこう言った。
「ご、ごめんなさい。でも君、そこで何してるの?」
 俺も俺で猫なんか無視してメシを盗りに行きゃあ良かったが、俺は気まぐれにその質問に答えてやることにした。いや、愚痴を漏らすことにした。って言った方が正しいな。
「ああ猫ちゃんよう。何って腹が減ってんのにあのクソイラつくベーコンがとれねえまんま食器の海に埋もれちまってウンザリしてたところだよ。黙ってたってエサが出てくるお前にゃわかんねえだろうがな」
「そうかあ」
 あいつはそう言って黙りこくった。変な猫だぜ。ネズミが残飯を漁ってるのを眺めながら襲ってこようともしねえんだから。もっともあのちっこい手足じゃいくら下から飛び跳ねようが俺の体にゃかすりもしない。
 からかうつもりで今度は俺が猫に聞き返すことにした。
「なんだお前ときたら。それでも猫か?ネズミを捕れって言われてねえのかよ?」
「うん、言われた。よく知っているね?僕ネズミを捕まえるのが仕事なんだ」
この言い草からして俺にはピンときたね。ああ、そしてあんまりおかしいからよ。顔がにやけそうになるのをこらえて、俺はもう一度聞いてみた。
「ほう、そりゃあいい仕事だ。そんで?ネズミは見つけられたかよ」
「ううん、まだ。君はネズミがどこにいるか知らない?」
間違いないぜ。こいつときたらネズミのことを捕って来いって言われてるってのに、ネズミがどんなもんか知りもしねえんだ。今まさにそいつが目の前にいるってのによ!考えてれば有りえる話だぜ。見るからにヒヨコみてえな毛並みのチビスケだ、この世の仕組みなんてきっとまだ何にも知りゃあしねえままこの家に送り付けられたってところだろう。馬鹿だね人間も。それとも初めから期待なんてしちゃいないのか……どっちにしたってこうなってくると面白いだろう?
 こうなりゃもうふやけたベーコンなんかに付き合ってる暇はねえ。それよりもっといいもんがある。俺は自分の天才的な……まあ、なんだ。知能を活用してだな。一つ試してみることにしたのさ。
「ネズミの居場所か。知っているかも知れんが、どうだろう。その前に俺からも一つ仕事を頼まれちゃくれないかい?」
「うん、僕にできることなら、いいよ」
「よしきた。こいつを開けてくれ」
そうと話がまとまったなら俺はシンクの縁から床へ、そこから冷蔵庫に一目散。閉まったドアをベチベチ叩いて猫を呼んだ。
 七面鳥の一件からどうしたってコイツが心残りでな。それこそ七面鳥がそうだったみたいに、本物のご馳走ってやつは得てして戸棚なんかよりこういうとこに入ってるもんだ。サラミやチーズやプディングなんかだな。
 もう待ちきれなくってよ。猫が歩いてくる様子さえ、毛玉が転がってるみたいでおかしくって嬉しくって。まあ猫がネズミの言うこと聞いて泥棒に加担してることの方がよっぽどおかしいんだけどよ。
 冷蔵庫のドアも猫の力なら余裕かと思ったんだが、どうも子猫の体ってのは思ってたほど強くもねえな。冷蔵庫のドアを開けるには一匹じゃ重すぎるらしくてね。しょうがねえから俺も結局一緒になって引っ張って、ようやく少しの隙間が空いた。だけどもうそんだけで十分なのさ。閉まんねえように見張っててくれよって言いつけて、俺はようやく念願の宝の山へと潜り込んだ。
 しかしこれが、なんというか、なんでもかんでも都合よくはいかねえもんでよ。その日に限ってろくな食いもんが残っちゃいねえ。そういやヤツらは猫がやってきた祝いも兼ねてか盛大に飲み食いし終わったあとだ。ちゃんと全員残さず食ったってことだろう。腹立たしい。
火の入ってないチキンや魚があるにはあったが……できればこう、いかにも食い残しってもんの方がいい。
 別に何食っても良いんだがよ。あんまり綺麗なもんをかじるとほら、さっきも言ったが、人間にバレんだな。こんなことでまた騒がれて新しい猫でも増えてみろ。そいつがアイツみたいな間抜けな子猫とも限らんだろう?七面鳥の一件から俺も色々考えてんのさ。
 そんなわけでその夜は冷蔵庫の中から二つ割になってるリンゴの半分だけを持ち出そうとして、だけどやっぱり思い直して二つとも運ぶことにした。丸ごとなくなってりゃバレんだろう。そのままそこで食わなかったのは、あん時に得た反省の中には「冷蔵庫の中で飲み食いするな」ってのもあったからだ。
 リンゴを蹴落として冷蔵庫から飛び降りると、あとは猫に頼んでドアを閉めさせれば仕事は終わり。
「助かったぜ、相棒。ほら、もう一つはお前の分だ」
これで共犯。どうよ。完璧な仕事じゃないか。
「わあ、いいの?ありがとう!でもネズミの話は?」
「まあ焦るんじゃねえよ。こいつ食ってからでもゆっくり話してやるからさ。ああヘタとか種がいらんならくれ、俺が食う」
なんだろうな。大していいリンゴでもなかったはずなんだけどよ。固かったし、スジっぽくてよ。だけどようく冷えてるそのリンゴの味を今でもたまに思い出す時が、まあ、あるっちゃあるな。
 アイツと一緒にリンゴを齧りながら、俺はこの後のことを考えていた。
 最初に思いついた筋道は単純だ。メシを盗るのを手伝わせたら、それをどうにか天井裏にでも運んで、そこでゆっくり齧りながらの種明かし。
そうすっと猫は「なんてこったネズミのことを捕り逃しちまった!早速初日から折角のチャンスを不意にした!パパやママに叱られる!ネズミの野郎に騙された!」
そう言って地団太踏みながら悔しがる様を肴に齧りゃあこんなリンゴでもちょっとしたご馳走みてえなもんだろ。こんなに美味い食い方はねえ。
 実際のところ俺はリンゴを見つけるまではそんなつもりだったがよ。いざ冷蔵庫を開けてみりゃ漁れそうなもんはしなびかけてるリンゴぐらい。いつもなら、もっといいもんが入ってるはずだ。そこでだ。
 猫がいりゃあ、冷蔵庫は開けられる。オマケにアイツは俺のことを襲う気もねえ。こうなるとなあ。フフッ。何も今夜だけで終わらせることなんかねえんだなあ、ってな。リンゴを齧りながら思いついたのがそん時よ。
 そうさ、言ったろう。ズル賢いネズミがズル賢いんだって確かな話をよ。たっぷり聞いてもらおうじゃないか。
 リンゴを飲み込んで口を開くと、考えてた台詞がスラスラと出てきた。
「よしよし、じゃあ俺からお前に三つほど、教えておいてやらなきゃいけないことがある」
「なあに?ネズミを捕まえること?」
「まあ部分的にゃあそうだ。一つずついくぜ。まず一つだが、お前には残念なことにこの家にはネズミは一匹しかいない。だからまあ、どう頑張ってもたくさんってのは無理だなあ」
「そうなんだ……だけど、だったらその一匹を捕まえれば僕はネズミを全部捕まえたってことになる!」
「その通り!お前はずいぶん賢い子猫だな」
ああ、猫ときたら俺が思い描いてた筋書きと、まるで同じような返事をするじゃないか。これじゃあ俺の舌もますます良く回るってなもんよ。
「そして二つ目、これもお前には気の毒なんだが、ネズミを全部捕まえ終わったらお前のこの家での仕事がなくなる」
まあ、実際には良くて半分もなくならんだろうが、ある程度はその通りだろう?不釣り合いに大きな猫の頭は、どうやら見掛け倒しではないらしい。少し考えはしていたが、俺の言う意味を正しく理解してくれた。
「それは……そうだね。仕事がなくなったらどうなるの?」
「この家にはもう猫なんていらなくなるかもしれないってことさ。だってそうだろう?捕まえるネズミはもういないんだから」
猫の顔に不安の色が浮かんだのを、俺は見落としはしなかったとも。確かに手応えを感じていたよ。
「いらなくなったらどうなるの」
「そりゃあお前……いらなくなったんだ。いられなくなる。かもしれん。いられなくなったらその時は、まあ大変だろうが他に住む場所が必要だろうよ……そうさなあ、たとえば路地裏とかゴミ捨て場……下水道……獣の潜む山の奥、うっそうと暗い森の中………他には意地悪なボスネコの……」
「嫌だよ!!!!僕この家がいい!ネズミなんて絶対捕まえない」
ここまで言えばもう、アイツときたらほとんど泣きだしそうだった!おまけになんだこの台詞ときたら。とてもじゃないが猫の吐くようなもんじゃあない。俺はもうクツクツと沸き上がってきそうな笑いを必死に喉の奥んとこで押し留めながら、話の続きを聞かせたよ。
「なるほどそれはいい考えだな。いや待てよ?しかしこれだと困ったな。そうなってくると今度はお前さん、ネズミを捕るためにここへ来たのが、ネズミを一匹も捕らないでいたら、おっと、ネズミを捕まえる仕事を頼んだパパやママはお前のことをどう思う?お前のことをいらなく思ったりはしないだろうか?」
「ええっ、そんなっ!?そんなのもう、どうしたらいいの!どうしたらいいかわかんないよ!ねえ、僕はどうしたらいいの!?僕ずっとこの家にいたい!」
さあもう可哀想な猫の頭の中はめっちゃくちゃだ。俺は優しく助け舟を出してやればいい。
「ふむ…………もしかすると……俺が助けてやれるかもしれん」
いかにももったいぶった物言いで、神妙な顔をしながら言った。フフッ。笑いをこらえるのが本当にもう、正直そろそろ限界だったんでね。
「ほんとうに!?僕なんだってする」
「よしよし。じゃあ作戦会議といこう。だがその前に……遅くなったが俺からお前に教えておいてやらなきゃいけないこと、その三つ目を伝えておこう」
猫はいかにも真剣な顔をして、俺の言葉を聞いてくれたよ。
「俺だよ。そのネズミってやつは」

 さて、それから数日、計画の準備とリハーサルに、俺達はみっちり時間を使うことにした。特にアイツに力加減を教えること。これだけ出来りゃあどう転んだってこの計画は引き分け以上の結果が残せる。
「本当にうまくいくの?」
 半信半疑と呼ぶには、疑のとこが多そうだな。アイツは信じきっちゃいないようだった。
「お前がうまくやりゃあ、うまくいくさ。自信を持ちな」
俺は余裕たっぷりだったぜ。心配事があるとすりゃ、それこそ猫がやらかさないかだけ。だからこそみっちり仕込んでやったんだし、できると思ったから実行を決めたんだ。
 打ち合わせた通り、人間どもはリビングに集まって楽しいディナーの真っ最中。俺とアイツはキッチンの物陰からタイミングを伺っていた。
「よし。じゃあ手はず通りに配置につけ。大丈夫だ失敗したらやりなおしゃいい。練習した力加減を忘れんなよ。ホラ行ってこい!」
 景気付けに猫のケツをシバこうとして、ほとんど毛なもんで空ぶっちまったが、それでもまあ合図には充分だ。
「よ、よしっ……!」
アイツにとっちゃ自身の進退にかかわる大一番だ。緊張してるように見えて、なかなかどうだい。しっかりとした足取りだったよ。
 猫はまっすぐテーブルに向かい、たっぷり媚を売った声色で奴らの足元からニャアっと鳴いた。
 今度は俺が動く番。人間達の視線が猫に集まるその隙に、ソファーの下へと素早く滑り込む。
 猫はどうやら食い物の欠片かなんかもらってたな。夢中になりすぎてこの後の段取りを忘れやしないかとヒヤヒヤしたが、心配には及ばなかった。ペロリと口の周りを舐めずって、俺に目配せを送ってきた。子猫が一丁前に、なかなかやりそうな面をするもんだ。安心したぜ。
 あとは俺が度胸を見せて、そっからアイツとの呼吸次第。
 狙うのはあらかた食事の終わった人間どもがテレビのリモコンに手を伸ばす時。やつらの注目がテレビに向かって集まる瞬間が良い。そう、テレビさ。ホウキでぶっ叩かれたやつだな。
 場所も時間も、いくつか候補を考えたんだが、おそらくこれが一番いい。人間どもが全員いて、そいつら全員に俺の姿を目に焼きつけてもらうんだったら、テレビの前ほどの舞台はねえだろ?
 いよいよだ。人間の太った指がリモコンのボタンにめりこんだ。ヒビ割れた画面にノイズが走り、それからフットボールの試合が流れる。
 今だ。視線を交わした俺達は、ほとんど同時に飛び出した。まず俺がソファーの下からテレビの前まで一直線。俺の姿がテレビの中のクォーターバックに重なって、食後の団らんはたちまち悲鳴に包まれた。いやはや賑やかな食卓だこと。椅子を蹴飛ばして立ち上がるヤツ。口を押さえて悲鳴を上げるヤツ。あわててグラスをひっくり返すヤツ。持ってたリモコン投げそうになったけどテレビにヒビを増やすのをためらったヤツ。
 誰かがホウキを取ろうとするより猫が飛び出すのが早かった。素晴らしいタイミング。練習した甲斐があるってもんよ。
 ここまでタメは十分。印象はバッチリ。ネズミは大げさに悲鳴を上げて、猫に追われてテレビの裏に逃げ込んだ。猫もすぐに後を追いかけてやってくる。お互いに興奮していたよ。アイツがアガっちまってたらなだめてやるのも俺の仕事のつもりだったんだが、一緒に火照ってちゃ世話ねえな。
「ちゃんとできた?」
「ああ、見事なもんだぜ。もうあとひと仕事だ。練習の通りだ。ホラ急げ。ゆっくりやれよ」
「うん」
 猫の牙が俺の腹に刺さる。いや、見せかけだけさ。軽く咥えるだけ。ただ少なくとも人間どもにはそう見えなくちゃな。しかしこれは猫には言うつもりもないが……気持ちの良いもんじゃないぜ。
 言うまでもねえか。そりゃそうだ。猫の牙の感触なんて一回触れたら十分だ。二回目は要らねえ。だいたい一回目でみんな死ぬ。それも首にもらうならまだマシだ。だいたいそれですぐに死ぬ。背骨を砕かれんのもマシな方かもな。腹を食われるのがアンタ、こりゃ最悪だろうぜ。猫が生のソーセージ食ってるとこ見たいかよ?自分の腹からこぼれてるやつをな。……ああ、すまんね。サラミは……はあ。もういらねえかい。
 だからって腹を噛ませなきゃしょうがなかったんだ、その時はな。俺の皮の一番だぶついてんのが腹だったんだから。
「よしいいぞ。こっからは最後までお前の仕事だ。なあに、腹だけ破かなきゃそれでいい。頼んだぜ」
猫の口をハンモックみたいにしながら俺はそう言って、手足をだらりと、白目は剥いて舌を出したら準備万端。
 俺を咥えたまんまの猫がテレビの後ろから飛び出すと、聞こえてきたのはまあ歓声と悲鳴が半分ずつってところか。しっかり見せびらかしてやらねえとな。
 ネズミを退治した優秀な子猫の完成だ。時間が経つうちに悲鳴はほとんど歓声に変わってよ。その歓声もすぐに興奮した誉め言葉に変わっていく。
 猫ときたらすっかり上機嫌になりやがって、あやうく次の仕事を忘れるところだった。まあアイツからすれば、これでようやく自分の居場所がハッキリ持てたってことだろうからよ。だが暇をやるにはまだ早い。
 舌出したまんま小声で促すと、猫はようやく自分の仕事が残っていることを思い出した。
 人間達の手元足元すり抜けて、向かうのはここ。そう、ここだ。屋根裏。
 呼び止められても聞くんじゃねえって前もって言っておいたのは正しかった。人間達の声が遠ざかっていくのが聞こえたよ。
 グワングワン揺れて乗り心地は最悪だったが、気分はすこぶる良かったね。
 なんたってたまらんよ、計画通りに事が運ぶことの愉快痛快なことといったら!そりゃあ猫を出し抜くのも味なもんだが、相手が人間ともなりゃこんなにご機嫌なことはねえだろう?今でもその日の成功を思い出すと、こう胸が熱くなっちまう。
 喉が渇くな。ちょっとここらで口を湿らせてもらうよ。アンタもなんかお代わり飲むかい?
 遠慮しなさんな。楽しくなってきたぜ。ポップコーンでも出そうじゃないか。バターとストロベリー、どっちがいい?俺は両方食う。
 さて、屋根裏に着いてようやく猫の口から自由になると、腹のへこみを撫でさすって、穴のあいてないことを確かめた。上出来だ。
 腹中が猫臭えのはこの際目をつぶるさ。自分で言うのもナンだが、口ん中がネズミ臭えアイツよりマシだろうよ。毛まみれになった舌を懸命にぬぐってやがったよ。
 もし失敗しそうになったら顎ふりほどいて自力で逃げてくりゃいいと思ってたが、なかなか大した子猫じゃねえか。
 俺とアイツはちょっとばかり、ちょうど今こうやってるみてえによ。腰を下ろして話したよ。あん時は飲み物の用意はなかったがね。
「お疲れさん」
「これで上手くいったかな」
「ああ、見事なネズミ捕りだった。他でもねえネズミが保証してやるよ」
「じゃあ僕おうちにいられるんだよね?」
「そりゃあもちろん。こんなに良い猫放っておかねえさ」
そうさ。誰だって放っておかねえよ。こんなに良い猫のことなんて、なあ?
「うふふ、そうかな」
ああ、そうだよ。
 結局のところネズミがこの家に俺一匹なのは変わりねえんだ。今夜が上手くいったところでまたずっとネズミを狩らないでいりゃあ遅かれ早かれお払い箱にされちまう。……とまあ、アイツは少なくともそう信じている。誰かがそう信じさせたせいでな。ひでえ奴がいたもんだ。
 んでよ。冷蔵庫を開けるにゃあ猫の手を借りたいって話だったろう。それも一晩二晩じゃなく、できることならこれからずうっとな。
「そんじゃあ改めて、これからよろしく頼むぜ。ええと……お前さん、名前は?」
「名前?」
「人間どもがお前を呼ぶ時に使ってる言葉だよ」
「かわいい」
「その次に多く使うやつ」
「ごはん?」
「たぶんまだ違う」
「ミルク?」
「それも違……ん?いや、もしかして違わないのか?まあいい。白いしな、ちょうどいい。じゃあお前はミルクってことにしよう」
「君は?君には名前があるの?」
「俺の名前?ねえよそんなもん」
ネズミには必要ねえんだ。
と思ったが……あったほうがいい。相手は猫だ。このまま俺を「ネズミ」クンと思わせ続けるのは、俺らの関係にとっちゃあ毒になりかねん。言いくるめられたことには違いねえが、俺がネズミであることなんか、できるだけ猫の頭の中からさっさと追い出しちまうに限る。そのために必要になってくるのが「ネズミ」以外の呼び方だ。
「だからまあ、待て。今ちょっと考えるから」
「じゃあきっとチョコレートだよ」
「なんだって?」
「チョコレート。君の名前。僕のはミルクなんでしょ。だったら君のは、たぶんチョコレートじゃないかな」
「ああ、なるほど。言いたいことはわかったぜ。お前自分が白くてミルクなもんだから、俺の毛の色を見てそう言ってるな?名前ってのはそういうことじゃねえんだが……いや、そういうことなのか……?わかんなくなってきちまったな」
「ごめん、間違えちゃったかな」
「ああ、いや、間違っちゃいねえよ。そうだな、うん。そうとも、俺はチョコレートだとも。そんじゃあ今度こそ本当に、あらためてよろしく頼むぜ、ミルク」
「うん、よろしくね、チョコレート」
 それからの俺達は本当に良い相棒同士だった。
 俺はあいつのネズミ捕りをたまに手伝う。もちろん死体役だ。ありがてえことに人間はネズミが生きてるか死んでるかなんてろくに見てもいやしねえし、その死体が前に見た死体とそっくり同じかどうかなんてのは、それよりまともに見ちゃいねえよ。生きてる死体の使い回し。リサイクルだね。
 猫の方はそのお返しに人間どもが寝静まってから冷蔵庫のドアをちょろっとばかし開けてくれる。もっともこっちはたまにじゃなくて、ほとんど毎晩の約束だ。だってそうだろ?こっちは猫の牙に腹を預けようってんだぜ。オマケにわざわざ危険を冒して人間の目の前に姿を現さなきゃなんねえんだから、これぐらいはしてもらわなきゃあ割りに合わねえってもんじゃねえか。
 そうして首尾よく獲物がとれたら、そこからさらに猫と山分けする。必要ないと思うかい?猫は自分で冷蔵庫を開けられるんだから。だがこれも二人で決めたことだ。
 猫があの図体で好き勝手に冷蔵庫を漁ってたら俺の取り分がなくなっちまうし、人間にもあっという間にバレちまうだろ。だから冷蔵庫には俺が入って、盗った獲物は猫にも半分くれてやるのさ。猫はそれ以上は勝手に盗み食いをしないこと。そのかわり俺も戸棚の食い物を漁る時には猫にも半分やることにした。
 チョコレートのついたビスケット以外はな。
「なんだお前、食わねえのかい」
そう聞いた俺にアイツが言ったことを覚えている。
「僕はチョコレートを食べられないんだって」
「そうかよ。そりゃあ」
「うん。それってさ」
思いついたことは同じだったようで、俺とアイツは声を合わせて小さく笑ったよ。
「名前はチョコレートで正解だった」ってな。
 しかしそんなに仲良く分け合って、腹が満たせんのか心配したかい?それについては問題がないんだ。何故ならいつだってキッチンの隅には猫のための皿が置かれていて、空になるたびに新しい餌が補充されることになってたからだ。まあ不味くはないってぐらいのもんで、俺もアイツもほとんどそっちを進んで減らしはしなかったが。
 それでもたまに冷蔵庫がほとんど空っぽみたいな日には、二人でそいつをカリカリ齧ってダラダラと時間を潰したよ。
「あんまり美味しくないね」
「でもまあ不味くもねえな」
なんてこぼしながらな。俺はネズミだからまあともかく、なんともまあワガママを抜かす猫がいたもんだ。誰かが盗み食いを覚えさせたせいか?俺とアイツの約束はそれからも本当に上手く続いていったよ。ご馳走と、身の安全。俺達二匹はお互いのためにそれらを提供し合ってたわけだ。
 何度も二匹で芝居をうったよ。舞台はテレビの前だけに留まらなかった。フフ、観客どもを飽きさせないプロ意識ってヤツかもな。
 ロケーションごとにタイミングや演出を変えてくのがミソでね。主演の猫にはいつだってとびっきりの活躍を披露してもらわなきゃあ。
 階段の踊り場を狙うのも賢いやり方の一つだった。人間どもは俺らほど機敏に駆け上がったり飛び下りたりできないから捕まる心配もなかったし、何より猫が躍動的にその毛並みを波打たせて上へ下へと跳ね回るから、アイツがそれだけ素晴らしい働きをしている猫だと人間どもに印象付けるにはぴったりの場所に思えたよ。灰色まじりの長く白い毛がなびくと、いかにも舞台衣装って様子でね。ああ、猫にしちゃあ見事なもんだぜ、アイツの毛皮は。猫にしちゃあな。
 バスルームを使うのも良い案だと思ったんだが……人間どもは何故だかバスルームでネズミを見る時いつもより大げさに声をあげるんでね。ただこれは、ハッキリ言って失敗だったし、二度とやらない。やりたくない。アイツもそう言ってる。俺が飛び出したら人間ときたら叫ぶのと同時にシャワーをこっちに向けやがった。ずぶぬれにされるのも困りものだが、それ以上に最悪なのは飛び込んできた猫にまで水がぶっかかったことだ。アイツ俺のこと放っておいて泣き言いいながら飛び出していきやがって、慌てるだろそりゃあ。俺もすぐに飛び出してどうにか一人で壁の裏に隠れたよ。人間がバスルームから出てくるのには時間がかかる。モップみてえになった猫はその間にそこら中に水溜まり作りながら俺のことを探しはじめて、どうにかお互いの無事が確認できてからようやく人間にさらわれて行った。「ついで」だか「シャンプー」だかいう言葉が聞こえた気がする。バスルームから人間以外の悲鳴が聞こえてきたのはそれから間もなくのことだった。気の毒に。
 まあそういう失敗もあるにはあったが、基本的には上手くいくもんさ。
 我ながら天才的だと思ったのは、玄関でやった時に趣向をがらりと変えたことだ。まず人間どもがいない間にちょっとばかりキッチンを食い散らかす。これはあんまりやりすぎて猫が見張りもできない無能だと思われてもいけないから、控えめにな。そのかわり普段は手を付けないようなまっさらなハムなんかを端から齧れる貴重な機会なんだ。もちろん猫にも少し齧らせてやる。公平にな。人間が帰ってくる気配がしたら開幕だ。いつもよりずっと簡単にできる。追いかけっこはいらねえんだ。猫を玄関マットに座らせて、俺がその前に寝そべりゃいい。もちろん舌をだらりと垂らして、血走った眼をひんむいたままな。ドアをあけてそれに気づいた人間が小さく叫べば仕事は終わり。あとはいつもの流れの通りに猫に体を拾わせて、屋根裏まで一直線。そして人間どもは噛みちぎられたハムを見てこう思う。
「おお、うちの賢い猫はネズミの被害を最小限に留めようとしたのだな」
そのうえで噛み跡の残った部分を大きく削り落とすから、それは猫にとってのボーナスになった。アイツめ、律儀に屋根裏まで持ってきてその半分を俺によこしたよ。まったく良くできた相棒だよ。
 それからキッチンでやったときのウケがやっぱりいつだって最高だった。悲鳴を歓声に数えていいなら大歓声ってなもんでな。あの嫌がり方は衛生管理には一応気を使ってるってことなんだろう。ネズミが毎晩冷蔵庫に入り込んでることがわかったら、それこそどんな悲鳴を上げることやら。
 俺達には今ではほとんど目配せもいらねえ。サイレン代わりの悲鳴を合図にご家族自慢の愛猫はするりと飛び出てネズミに飛び掛かる。手慣れたもんで今では爪をひっこめたまま俺の体を殴ってみせて空中に放り上げることだってできたし、そのまま俺の体に一つの穴も空けないで見事に咥えて受けたりもできた。
 そんな時には俺もタイミングを合わせて「ぎぎいいーっ!!!!」なんて大げさに断末魔を上げて、手足をピクピクさせて動かなくなるんだ。やっぱ久々にやると声が出ねえな。前はもっと真に迫ってた感じが出せたんだが。
なんだ、つまり俺らの息はそんくらいどんどんピッタリになっていったのさ。
 上手くいった時にはアイツはいつも屋根裏に向かって走りながら嬉しそうにウインクして見せてたよ。まあ俺からはだいたい片側からしか見えねえからそれがウインクだとわかったのはずっと後のことだったんだが。おまけに運ばれてる最中は頭も酷く揺れるから、アイツの顔見てると酔うんでな。だが乗り物酔いなんてそんなもんは安い必要経費でね。夜には当然祝勝会さ。とはいってもバレちゃなんねえことには変わりないから、ささやかなもんでしかなかったが。何往復もして細々とした摘まむもんを二匹で屋根裏に集めてよ。そういう晩には果物があればそいつを絞って乾杯した。ちと手間ではあったが、アイツがまだ小さい頃には飲み物なんかが入った瓶はここまで運ぶには大き過ぎたし重過ぎたからな。
 面白いもんだ。いつしかすっかり慣れちまったが、ジュースをチビチビ舐めながらローストビーフのきれっぱしとか白カビチーズの皮んとことか口ん中で噛んでると、すぐそばには猫が座って俺と同じものを食べてやがんのさ。あんなデカい図体して、俺とキッチリ半分ずつ同じ量をな。アイツからしたらそんなちょっとのきれっぱしが、あのでっかい口ん中でまともに味がわかんのかどうかもわからねえ。ネズミの匂いの口直しのつもりでもあったのかねえ。
 でもたぶん、ちゃんと美味かったんだろうよ。長い舌だして口の周りふいてるあいつの顔がよ。あれで美味くなかったら嘘だって顔をしていたよ。
そんでたぶん、俺もきっとクラッカーにチーズのっけたりしながらアイツと同じ顔していたんだろう。アイツは時々俺の顔を見ては、納得するように笑ったりするのが癖みたいだった。
 充実感……って言ったらアンタは笑うかい。
 生きるため、メシを得るため、あとはちょっぴり人間に泡を食わせることの面白さのためにやっていたのが、今じゃあすっかり猫との晩餐も楽しみの一つになっちまってる。
 忘れちゃいねえさ。そもそもの思いつきには猫を出し抜いて遊んでやろうなんて腹積もりがあったことも否定しねえ。
 口当たりのいい出まかせ半分の「相棒」なんて言葉がよ。ネズミが猫に向かって言うにはあんまりにも都合が良過ぎて、けどまあ、いつのまにかそれも居心地が良かったんだよ。
 気が付いてないわけじゃあねえんだ。俺自身、アイツに対して罪悪感を抱えてることに。だからって今更よう。いや……アイツもとっくに気が付いてたのかもしれねえが。ネズミなんか捕らなくたってアイツの居場所はなくなったりしねえってことも、そのためにズル賢いネズミ一匹生かしておく必要なんかねえってこともな。
 しかしこれは、甘えたことを言わせてもらうが俺の口から言い出せるもんじゃねえだろう。卑怯と思うかい。しょうがねえさ。なんたって俺はズル賢くて卑怯なネズミなもんなんでね。
 ……いや、すまん。すまんね。辛気臭いのはよしとこう。どうかアイツに言ってくれるんじゃねえよ。どれ、気持ちを変えてそこの缶詰でもあけようじゃないか。スパムミートは良い。あの脂臭さときたら活力の源だよ。しなびかけてるがリーキの茎があるからそいつでほじくろう。リーキは好きかい?この家じゃあんまり野菜は買われないからな。これで結構貴重なんだ。
 そうそう、缶詰といやあ、このへんのかさばって重たいもんはアイツが運べるようになるまでずいぶん待たされたもんだ。他にも瓶やら袋もんやらな。このへんは丸っとそのまま持ってくりゃあ人間にはなかなか気付かれにくくてね。アイツの体はデカくなって力もずっと強くなったし、はじめの頃には届きやしなかったシンクの縁まで今では軽うくひとっ飛びだ。おかげで得られる食い物が増えて、俺は本当に嬉しかったよ。
 そんでたぶんその嬉しさの中にはよ。これを言うのは、まあ気恥ずかしいには違いないんだが、やっぱりよ。あのカビ団子みてえだった白い子猫が、いつの間にか銀の針みたいな毛を生やして立派な猫の顔をしているのが、俺にもなんだか嬉しかったんだよ。別に俺が育てたなんて言うつもりはねえけどさ。教えたことといったら泥棒のコツと摘まみ食いの美味さだけ。ああ、それにネズミを殺さない力加減もそうだったな。しかしこんなのは、フフッ、猫に仕込んじゃいけねえよ、こんなもん。
 それからこれもまた当然のことではあるんだが、時が経つうちにアイツがいかにもデカくて強い猫に育って行くことは、ネズミである俺をヒヤリとさせることが少なくなかったよ。暗闇からぬうっと出てきた時の目の高さとか、腹に当たる牙の長さがその筆頭だな。体はデカくなったのに時々足音がしねえからいつの間にか屋根裏に入ってきてて腰を抜かしそうになったこともある。
 まあ、そんなんは俺の都合でね。それはそれで良いことさ。俺もそこまでネズミであること忘れたわけじゃねえってこった。
 アイツの手のひらが俺の体を放り投げる時には、アイツが気を付けたつもりでも腰がきしんで変に痛かったこともあったし、俺が人間の前に躍り出てアイツに捕らえられるのを待っている時は、暗闇から飛び出してくる勢いに底知れない怯えを感じたこともあった。
 もっとも前者の方については、これは俺も最初はもっと加減に気をつけるように説教すれば済む話だと思っていたが、それも実際は……原因のほとんどは力加減の問題じゃないことに俺は気が付くべきだったな。猫の力が強くなったんじゃないのさ。アイツはいつだって俺の体を傷つけないように細心の注意を払ってくれていた。そうさ、俺が思っているよりもずっと、アイツは自分自身の体が秘めてる力強さをちゃあんと理解して使いこなしてた。いくらデッカい体になってもな。
 問題なのは俺の方なんだ。自分の体だと思って、ろくにわかっちゃいなかった。不思議なことは何もねえ、言っちまえばこれはただの肉体の衰えだった。老いだよ。いやいや、まだまだくたばるつもりもねえけどよ。でもまあ現実的な課題として、くたびれつつある俺の体がアイツの若いエネルギーに置いて行かれつつあったというわけだ。
 もっともその時の俺はそんな自覚も……いや、どうだろうな。自覚をした上での虚勢だったのかもしれん。それもわからんが、上手くやってるアイツに向かって加減に気をつけろだのなんだの説教までする始末じゃな。アイツもアイツで言われたことをそのまま気にして、それからは俺の体をあんまり気軽に放り投げたり振り回したりしなくなった。
 だからと言って演目がいくつか減った程度で人間どもが猫の実力を疑ったりすることはなかったし、別に今までと比べても何かが大きく変わるわけでもなかったよ。
 だがそれがかえって良くなかったのかもわからんな。俺はとうとう自分の若さを過信していたツケを払わされる日に見舞われた。
 何っていう理由があったわけでもねえさ。その時も「そろそろやっとくか」ぐらいの時期になったから、いつもみたいにくすねてきた獲物を屋根裏でダラダラ摘まみながら、ネズミ捕りの段取りを打ち合わせることにした。アイツも俺もいつの頃からか祝勝会でもない夜にまで屋根裏に獲物を持ち込んで食うのがすっかり当たり前になってたな。
 運ぶのはもちろんアイツの仕事だった。俺じゃ丸一日かかっても運べないような大袋や瓶や缶詰めさえ、風でも吹くような軽やかさで何でもヒョイヒョイ運んできちまう。俺は冷蔵庫や棚の上から今晩の食事を蹴り落としさえすりゃあ、あとは猫の背中に引っ掴まってボワッボワに生え揃った毛に埋もれてるだけで、あっという間に食いもんと一緒に屋根裏まで到着だ。もうすっかりいいご身分ってやつだよ。言うまでもねえだろうが皮肉だぜ、これは。
 俺はチキンのボイルにマスタードを塗りながら、すっかり手慣れたぬるい仕事の段取りをぼんやり頭に思い浮かべた。アイツは以前はハチミツ塗って食ってたが、近頃は顔がベタベタするからって何もつけずに食ってたな。好きにすりゃあいいが、つまらん食い方だよ。
「じゃあまたテレビの前でも使うかよ。最近やつら反応が悪いし、ここらでまた一つド派手に目立ってお前の役目を思い出させてやんねえとよ」
「それじゃあいつも通りに?」
「ああ、頼んだぜ」
「まかせてよ」
 今やもう打ち合わせなんかたったそれだけで済むもんだ。アイツは顔を綺麗に洗うと大きなあくびを一つした。
「それじゃあもう、明日に備えて僕は眠るよ」
「おい、チキンはもういらねえのかい」
「うん、さっき他にご飯もらっちゃったから。食べてよ」
「じゃあ遠慮なく。そんじゃお休み」
「うん、おやすみ。夜食もほどほどにしときなよ」
俺は挨拶もそこそこに、指についたマスタードを舐めながら残りのチキンにとりかかった。
 すっかり通い慣れたガラクタの山をフワフワの尻尾が飛び越えていく。俺はハシゴのステップが踏まれる音を遠くに聞きながら、オレンジの皮を雑に剥いでチキンと一緒にやることにした。果汁の詰まった袋をすすりながら、翌日の流れを頭の中でイメージしていく。
 リビングはネズミ捕りにしょっちゅう使ってる所だし、手順も結局いつもと同じ。ネズミが飛び出す。人間がビビる。猫が出てきて捕まえる。
 まあ、いつもと同じだ。心配なんかなんもいらねえ。俺の描く目録は完璧だし、アイツの仕事も今じゃ目を見張るものがある。もう俺なんか黙って寝ててもアイツがみいんな上手くやってくれんじゃねえかとさえ思えたが、まさかそんな、なあ。ちょっと前までチビっこだったアイツに、そこまで任しておけるもんかよ。アイツには俺が必要なのさ。そんなことを考えてるうちにオレンジの房はみんな吸われて絞んじまって、ネズミ一匹には多すぎるくらいのチキンもすっかりなくなると、俺もようやく眠る気になった。
 あそこに置いてるマンドリンが見えるかい。弦の切れたおんぼろのやつだよ。あん中にタオルを詰め込んだのが俺のお気に入りの寝床でね。いつだか人間が盛大にコーラを溢してくれたのを洗われる前に盗ってこれたから今でも甘ったるい匂いがすんだ。鼻の奥でオレンジの後味と混ざってね。食い過ぎたせいかちょっとの吐き気も催しつつだが、ご機嫌な気分で眠りにつけた。
 なのになんとも翌日は気怠い目覚めだったよ。食い過ぎたチキンとオレンジがまだ腹の中に残ってる。
 背中をバキバキ鳴らしながら天窓の隙間に目をやると、雑な目張りから西日の赤い色が漏れていた。
 眠りすぎだ。このところどうにも体調のスッキリしない日が続いていた。それを老いだと自覚できなかったのが俺に残された青い若さだったのかもしれん。
 重い腹をさすりながら意識を今夜のネズミ捕りに向けた。しかしどうにも腹も全然空いていないし、面倒臭いというか気が乗らないというか……時間にはまだ早いが、それなら今のうちに下まで行って今夜の予定を延期にするようアイツに吹き込みでもするか。そう思いながら俺は壁の裏を通ってアイツの姿を探しに行こうとした。
 ところがだ。このところどうにも壁の穴や天井裏が狭いと思ってはいたんだな。ネズミ捕りも長いことサボってたし、メシを運ぶのも歩くのも、なんせアイツに頼りっきりの暮らしだろう。それに加えて昨夜の暴飲暴食だ。出っ張った腹がさらに膨れて、キッチンの壁につかえちまった。ああ、そうさ。まただよ。なんだったら前の時より穴が小さく見える始末だ。
「しょうがねえな」
俺は壁の裏を引き返して、屋根裏本来の正しい出入り口を使わざるを得なかったよ。
 久しぶりに自分の足で下りるハシゴは覚えていたよりずっと高くて滑り落ちやしないかヒヤヒヤしたよ。まあ実際最後の二段くらいはほとんど落っこちるように飛び下りたよ。着地はどうにか上手くいったが、腰やら足やらがピシピシ痺れてね。しかも久しぶりに自分の足で歩く廊下が、降り立ってみるとこれが長く見えて仕方のねえこと。階段に続くカーペットの切れ目がまるで地平線みたいに見えてよ。運動不足にメタボリックシンドローム……そんな言葉が脳裏に浮かんだが、馬鹿を言え。ダイエットするつもりはさらさらなかったな。
 ああ、今のこの体型かい?こりゃあ別にそんな立派な賜物じゃねえさ。ただ年くって食が細くなったってだけのことよ。あとはまあ……節度を知ったってこともあるかもな。この話もそれにいくらか関係してるかもしれん。
 さて、俺は人間に見つからないように下の階を目指す必要があった。考えてみりゃそうするのだって久しぶりだな。いつもは人間どもが寝静まってから、壁の裏を通っていくか、そうでなきゃ猫の背中にしがみついてる。
 嫌に緊張しながらおっかなびっくり歩いていって、いつだって一番近くの部屋にすぐさま飛び込める気構えをしていた。その部屋に人間がいないことを願いながらな。もっともそれらの心配は必要なかった。階段を一段ずつ下りながら耳をすませると、人間どもはどうやらみんなディナーのためにとっくに集まっているようだ。時間に余裕があると思っていたら、ちんたら歩いてきているうちに結局いつもの公演開始間近だよ。
 なんだい?階段?ああ、そうさ。一段ずつ。しょうがねえだろ駆け下りようとしたらそのまま転がり落ちるところだ。
 それでもなんとか下りきったらもう俺はスッカリへばっちまってて、しばらく物陰で休むことにしたよ。こりゃ助演の遅刻で公演はキャンセルだ。そうさ。主演はアイツだからな。俺は悪役。
 フウフウ息を吐きながら、よくよく考えりゃこんなとこまで来なくたって俺が屋根裏でサボってるだけで猫一匹じゃネズミ捕りなんか演じられないんだから、勝手に延期になることに気付いて頭が痛くなる気がしたよ。あるいは酸欠でほんとに頭痛を起こしかけてたか。
 しかしここまで来て引き返す?馬鹿を言え。階段を見上げるだけでめまいがして吐きそうだ。絶対に自力で登ってやるかよこんなもん。そういや七面鳥の夜には自分で駆け上ったのが、今ではまるで信じられんと、そんなことを思ったよ。
 こうなりゃさっさとアイツを見つけて予定の通りにネズミ捕り、そのまま屋根裏に戻ったらオレンジ絞って喉を潤してもう一回不貞寝でもしてやる。そう思ったがオレンジは昨晩飲み切ったはずだから、飲むなら猫に持ってこさすのに夜が更けるのを待たなきゃならねえ。あらゆる手順が裏目に出てきてイラつくやらハラが立つやら、こうなると冷静だとはとても呼べねえ。ただでさえ鈍った体に鞭打ちながらここまで来てんのに冷静さまで欠いちまうんじゃあ、本当に屋根裏でサボっていた方が良かったよ。そうすべきだった。
 重たい腰を上げてリビングに向かったがアイツの姿はまだ見えなかった。なるほどいつもの時間になっても俺の姿が見えないもんでキッチンの穴まで迎えに行ってんのか。まったく面倒なことをしてくれる。ってな。遅刻したのは俺だってのに。人間の集まったリビングのわきを通らなきゃキッチンの方へは迎えない。少しだけ、ピリッとした緊張を感じたがね。だがまあ、開演前の緊張なんてのは慣れたものだ。リビングで人目を避けて忍び歩くのはネズミ捕りの位置につくのにいつもやってることなんだから。ただそれを、今は自分一匹でやるだけ。ただバレてもアイツがフォローしてくれるわけじゃない。もっとも今までバレたこともなかったし、バレたところで一息に走り抜けりゃ済むことだ。アイツんとこまで行けばあとはいつもの通り、なんの心配もいらない。どうにでもなるんだから。そうだ、さっさと合流しないと。
 そう思ったらどうにも気が急いて、これもやっぱり裏目に立ちまう。
 苛立ちと、焦り、太った体。こんだけ揃ってて「こっそり」なんてのは、ねえ。贅肉が無理ならせめて前の二つはどっかに置いてこれたら良かったが、そんな風に考えられるほど俺に冷静さは残ってなかったし、もしかしたらあの時の俺は……いや、もしなんて話じゃないな。緊張していたといえば格好もついたのかもしれんが……あれはたぶん、怖かったんだろう。頼る相手のいない状況で、一匹きりで人間の目に触れることが。
 せめて忍び歩いて行けばいいものを、気が急くせいで物陰から物陰に飛び込むように渡っていくから、飛び込もうとした次の物陰にビールの空き缶が転がってるのに気づいた時には、俺の体はそいつに向かって止まることなく突っ込んでいた。
 けたたましい音がして、俺は自分が立てた音のせいで耳なんかもうピンと張り詰めちまって、もうどうしようもなく駄目だった。そのまま物陰に隠れていればまだどうにでもなったかも知れないのに。俺の体はひとりでにそこから飛び出して、アイツの元に向かおうとした。馬鹿な野郎だよ。自分から大きな物音立てて、わざわざ視線を集めてから飛び出るなんてのは、そんな目立つ登場は主役のアイツにやらしときゃあいいんだ。
 人間の悲鳴が聞こえたが、聞き慣れてるはずのその悲鳴が威嚇や警戒の意味を持っていることを、俺はその時はじめて知った。つんざく声が背中に突き刺さるみたいで、気を緩めると足がすくんで止まりそうだった。
「チョコ!!!!」
悲鳴に混じってキッチンの方から俺を呼ぶアイツの声が聞こえた。急ぐ足音も一緒に聞こえた。
 もう笑ってくれとも言わねえよ。俺はもう猫の声や足音を聞いて安心する世界で唯一のネズミだったかもしれない。
 キッチンの奥から飛び出してくる大きな白い影を見て、俺はほとんど反射的に叫んじまった。
「ミルク!!!!助けてくれ!!!!ミルク!!!!」
ああ、もう恥ずかしいとも言えねえな。俺は間違いなく、ちゃんと人間を怖がってたんだ。恥ずべきことは猫に助けを求めたことか、それともその猫のことをつい最近まで……いや、もしかしたら本当はたったの今まで、ちっちゃな子猫と内心馬鹿にしていたことか?
 もうこうなりゃネズミ捕りでもなんでもねえ。そんな余裕はすっかり頭から消え去っちまって、俺はもう必死に駆けて、もう心臓が破裂寸前ってとこでようやくアイツが目の前に来て、その体を覆う立派な毛並みの広がりに、俺がどれほど感動したか。
 だが浸ってる場合じゃねえ。
「すまねえ、もう今日はこのまま…………」
俺がぜいぜい息を荒くしながらかすれた声で支持を出すのを、アイツの叫びが遮った。
「危ない!!!!」
 屋根裏や夜に見る時は真っ黒に見えるアイツの目が、明かりの下にいる時はピスタチオみたいなグリーンでな。その真ん丸な目の中に、腕をふりかぶる人間と、その手の中のロックグラスが映ってた。
 俺が振り向くのと同時に、ロックグラスは宙を飛んだ。ああ、ここじゃ後ろにテレビがねえなと、変に冷静に考えてたよ。俺はそいつが割れるとどうなっちまうのか思い出していた。いつかの夜に見た時みてえにな。
 だったらさっさと飛び退いときゃよかったのによ。
 おんなじ夜に見た、余計なことまで思い出しちまったんだからしょうがない。
 今も俺の後ろにいるやつが小さな子猫だったような気が、ほんの少しでもしちまったから。
 俺はガラスの砕ける音を聞いて、世界が引っくり返るのを見た。やれやれだなあ。
 背骨と頭に酷い衝撃があったことはよくわかった。体を起こそうと思ってるのに上と下がわからなくてな。それでもどこかに立とうとしたが、突っ張ろうとした手足の数が足りていないような感覚があった。
 やっぱりそのまま立ってられなくて崩れ落ちそうになったと思ったら、自分の体が突然フワリと浮き上がって、覚えのあるベタベタザラザラした感触が腹を撫でたから、そのせいで猫に咥えられたのがわかった。
 なんだ、しっかり自分は飛びのいてちゃんとかわしていたんじゃないか。それじゃあ俺はなんのためにぼうっと立ってたのかわかんねえなあ。なんて思いながら、アイツの足の裏にガラスの破片が刺さっていないか気になっていたな。
 いつの間にか俺は屋根裏にいて、いつもみたいに猫がいて、大きすぎる手で不器用そうに俺の二の腕を抑えようとしていた。
 頭はまだぼんやりしていたが、体を起こそうとして腰から下が動かないことと、自分が盛大に失敗したこと、アイツに抑えられている右腕の感覚がないことがわかって、アイツの口と手が真っ赤に汚れているのが見えた。
 そんな風にしていると、俺は何故だか色んな気持ちが急に楽になってしまってなあ。まるで体も軽くなってくみたいで、真ん丸になったアイツの目を見据えながら、まるでずっといつかそう言おうと思ってたみたいに、スラスラと口から台詞が出てきた。
「なあ。今日はいつもみてえにさ、死んだフリができなかっただろ。だからヤツら、まだネズミの死体をさ、探してるかも知れねえからさ。お前、俺の首を砕いて、ちゃんとやつらに自慢しに行け。そうしたらヤツら、きっとお前を誉めてくれるから。大丈夫だ。この家からネズミがいなくなってもお前の居場所はなくなんねえから。俺にはわかるんだ。ネズミなんか捕らないでも、人間達はきっとお前の毛を撫でるためだけに、お前のことをおいておくよ。これは」
これだけは。
「嘘じゃねえんだから」
 白い猫は何も言わないでいた。しばらく経って、俺の腕がもう血をほとんど吐き出さなくなると、泣きそうな声を絞り出しながら、鋭い牙を内に隠した大きな口を静かに開いた。
「せめて、痛みがないように」
 汚さないように気をつけろよな。人間達もお前のその毛がきっと好きなんだろうから。そう思いながら目を閉じると、やがてブツリという鈍い音がして、一瞬の鋭い痛みの後、俺の意識は闇の底へと落ちていき、二度と目覚めることはなかった。

 …………なんてことはなく。後からどれくらい経ったのか聞いたら、せいぜい二日も寝込んでなかったらしい。たびたび腕の激痛にうなされながらな。なんだ、嫌われ者のタフさってやつかね。頭も腰もひどく痛んだが、腫れが引く頃にはマシになってたよ。
 もうわかってんだろアンタも。そう、この腕はその時に。元より楊枝みてえに細せネズミの腕だ。血はずいぶんこぼしちまったが、アイツが管ごと噛み潰してくれたおかげでどうにか大事にゃ至ってねえよ。ほとんど千切れ落ちかかってたしな。やっぱり人間に「ネズミの死体」を見せるために、ってことだ。
 説得力は今までのネズミ捕りの中でもナンバーワンだ。顔と前足真っ赤にした猫がネズミの前足咥えて出てきたら、どう考えたって残りの部分は腹ん中しかありえねえだろう。
 アイツに言われた恨み言は二つ。もう若くねえんだから一匹で無茶してんじゃねえよってことと、誰かさんの血が全然落ちねえから今まで生きてきた中で一番長くて激しい風呂にブチ込まれることになったこと。とくに後者を言う時にゃあアイツときたら、フフッ、猫がネズミに見せる表情ってのは普通はああいうもんなのさ。
 しばらく寝たっきりでいたが、なんてことはねえ。アイツは一匹でも夜になるたびのネズミのために泥棒しては屋根裏まで運んでくれたよ。とにかくメシを食え肉を食えと、それはもう甲斐甲斐しくってなもんだ。そうしているうちに俺が腕以外すっかり元に戻っても、アイツはそうすることを止めなかった。
 それが、ほら。「こういうこと」ってわけ。アンタの疑問への解答は、これで出揃ったことになるかな。
 それからもうずいぶん経つが……俺もアイツも、ネズミ捕りの次の公演の話をすることは、それっきりないね。
 ただ今でもたまに夜になったら、アイツの背中に乗せてもらって、誰もいないキッチンの真ん中にまで、よく冷えたリンゴを食べに連れてってもらったりしてるよ。
 どうだい、アンタ?ネズミ捕りの二代目悪役の座が空席だが、興味はない?ああ、そう……それは残念だが、いやまあこれはどちらでもいい。どちらでもってのは、アンタの返事がな。ハハハ。
 もしまたそうする必要があったところで、今度は演技なんて必要ねえんだから。
 ああ?そのまんまの意味だとも。偽の死体を用意する必要がねえってこと。
 いやいや、いざとなったらネズミ捕りはするんだよ。わかんねえかな。よし、じゃあこう言いかえればわかりやすいだろう。
「アンタ、知らないネズミに出されたもんを、迂闊に口にするもんじゃあないよ」
 変に眠たいのは老いぼれの長話を聞いてたからだと思ったかい?なんでこんなに長い話をだらだら聞かせながら、何杯もおかわりを勧めたと思ってる?手や足が動き難いのは、座りっぱなしのせいなのか?カップに残った変な匂いは、カクテルの飲み残しのせいだとでも?いやカクテルであることには違いがねえか。ハハ。
 下水道やゴミ捨て場から来たのかどうかとも思ったが、アンタあのへんの縄張り争いを見てきたことがねえのかい?人間の家の中だったら、そいつがまさか起こらねえとでも?若えとは思ったが、独り立ちして最初に来たのがここだってんならまあ俺も心が痛まねえでもないが……。
 ようやくこの家からはネズミが綺麗に駆除されたんだぜ。アンタが下手に餌場を荒らして、それをアイツが見つけた時に、アンタは全力で逃げるだろうし、そうなりゃアイツはアンタを全力で狩らなきゃならねえ。わかるかい。俺と同じネズミをだ。
 アイツはそんなことしたがらないだろうし、俺もアイツにそんなことをさせるつもりはない。
 いいか。アイツの毛が俺以外の血で二度と汚れてもらっちゃ困るし、なんならそんなつまらないことのせいで、アイツがまた長風呂に突っ込まれでもした日にはだ。アイツのことが可哀想だろう。
 …………さて、じきにアイツが来る時間だ。すまんが、そろそろこのお話もおしまいにさせてもらおうと思う。今更悪く思わないでくれよ。
 なんせこれは「ズル賢くて卑怯なネズミの話」なんだから。









 …………いや、嘘だよ。冗談だとも。
 すまないね。酒がチョロっと入ってたぐらいだよアンタが飲み食いしてたのは!悪かったってば!
 アイツがこねえと暇なもんだし、このところネズミ捕りしてねえもんでな。退屈なもんでよ。いや失礼。
 話してるうちにネズミ捕りのことが懐かしくてね。ちょっとした劇の演目をね。誰かに見せたくなっちまったのさ。勘弁しておくれよ。
 ところでさっき言った話だが、俺もこんなではあるからよ。まさか本当にネズミ捕りを演じてくれってわけじゃあないんだが……どういう形になるかは知らんがよ。もしもアンタがここに腰を落ち着けて、アイツと仲良くやってくれるってんならそれは……なんだ。アイツもよ。なんというか、退屈しねえで済むだろうなとは、思うわけだ。
 なんだ、その、付き合わせて悪かったよ。思い出話にも、演技にもな。おかげで俺は楽しい時間が過ごせたよ。
 それにしたって、いやはやどれくらい経ったかね。すっかり夜も更けたじゃないか。そろそろアイツがくる時間だよ。サラミかリンゴか何かを咥えてね。
 アンタが帰っちまうにしろ、そうじゃねえにしてもだよ。この話に聞いた猫ってやつを一目拝んでからでもさ。そいつを決めるのは遅くねえだろう。
 今のうちに自己紹介でも考えとくといい。なあに心配いらねえよ。アイツは俺ほどひねくれてねえから。きっとすぐ慣れる。アイツもアンタも、お互いな。
 ああ、そうだ。ずうっと俺ばっかり喋っちまって、すっかり聞きそびれちまってた。大事なことだよ。
 今更なんだがアンタ、自分の名前ってあんのかい?ミルクとチョコレートは遠慮してもらえると、俺としちゃあ嬉しいんだがね。


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