ねずみ辺獄

 一匹の仔鼠が茂みをガサガサ歩き回って、食べられるものを物色している。
 とても小さな仔鼠で、頑張って集めたタンポポの茎やキノコなんかが、華奢な腕から今にもこぼれ落ちそうで、おぼつかない足取りでフラフラ、ヨタヨタ歩くのだった。仔鼠はたくさんの食べ物が嬉しいばっかりで、自分を見下ろす蛇なんてちっとも気が付かないでいた。
「こんにちは、私の可愛い鼠さん」
 耳に甘ったるい声色がして、なんのことかと見上げた時には、真っ赤なパイプやヒダの詰まった大きく開いた蛇の喉が、仔鼠の頭を優しく包み込んでいた。タンポポもキノコも、そこら中に散らばってしまった。
「あぁ、もったいない、もったいない」
 蛇が何かをつぶやくと、仔鼠の耳は温かくて気持ちが悪かった。仔鼠は静かに目をつむり、多くの鼠がそうあるように、その短い命を儚んだ。せめて安らかに召されて逝こうと、たくさんの食事に思いを馳せた。そうするといっそうさっきのキノコを食べ損ねたことを悲しく思ったりしてしまう。そうしているうちにどうしたことだか、仔鼠の視界はパッと開けて、丸いお尻はポトリと地面に下ろされた。
 見てみればそこは蛇の腹の中ではなく、打ち捨てられた古いあばら家のようだった。きっと人間に忘れられてもう長く、ところどころが崩れていたが、床だけはまだずいぶん形が残っている。目の前にはやはり蛇がいて、その尾元にはさっき仔鼠が散らかしたはずのたくさんのタンポポやキノコがあった。そして仔鼠の一番わからないことといったら、あちこち床の上に立てられている大小色々の透明な容れ物で、それはペットボトルだった。底に何かが詰まっている。
 蛇は部屋の隅まで尻尾を伸ばし、尾慣れた動きでカランコロンと、空の一本を引っ張ってきた。
 当然仔鼠はペットボトルなんてわからない。
 それは無色透明で、赤いラベルに赤いキャップ、魚みたいな形をしていて、数滴の香ばしい水滴以外には何も入っていなかった。
 蛇は上手に巻き付いて、魚の口に狙いを定めて尻尾の先をぴしりと振り抜く。仔鼠は驚いてすくみあがった。回るキャップも宙に舞う。
「お前のおうちだよ」
仔鼠の視界がもう一度暗くなる。蛇の喉を二度見た鼠なんて、このあばら家の中以外にはそう何匹といないだろう。
 蛇は仔鼠をペットボトルに吐き出した。それからタンポポとキノコを数本ばかり尾に取って、仔鼠の頭上からバラバラ落とす。開ける時よりも丁寧な動きで尻尾を使って蓋をした。ボトルの底で引っくり返って固まったまま、仔鼠は落ちてくる餌をお腹や頭で受け止めた。
 蛇はボトルに胴を巻き付け、プラスチックの壁ごしに言う。黄色いお腹がウネウネするのがキノコの傘の向こうに見えた。
「可愛い鼠、聞きなさい。お前はここから好きに出られない。この蓋はお前には開けられない。それにもしもお前が外に出て、そのままどこかへ逃げて行っても、私はお前をすぐに見つけて、お前よりずっと速く這いずって、お前のことを迎えに行くよ。だから良い子にしておいで。どうか私を困らせないで。お前は私のものなのだ。私は蛇で、お前は鼠。どうやったってお前は私の可愛い鼠だ」
 仔鼠の入ったペットボトルは几帳面そうに並べられた。並んだペットボトルの底には、それぞれ鼠の姿があった。
「お前達、新しい子だよ。今日はこの子がお土産をとってきてくれたから、みんなでそれをいただこうね」
 勝手なことを言いながら、蛇が順番に蓋を開いて、せっかく集めたタンポポとキノコをポトリポトリと落として回る。仔鼠はそれを黙って見ていた。
「これではまだまだ足りないね。お前達は育ち盛りだから。それに食い扶持も増えたのだからね」
蛇は困ったような嬉しいような顔をして言った。
「鼠達、私の可愛い鼠達。私はもう一度出かけてくるから、お前達はみんなおとなしくして、その中で良い子にしておいで。ちゃんとご飯をとってくるのだから、私を困らせたりしないでおくれね。そうすればお前達鼠なんて、何も心配すること要らないんだから」
 蛇は上機嫌でズルズルしながらあばら家の外に出かけて行った。
 蛇の這い音が聞こえなくなると、仔鼠はようやく自分が怖かったことを思い出して、ボトルの底でしくしくべそべそ泣きだした。
 隣のボトルから声が聞こえた。牛乳色のラベルだった。
「ごめんよ、君の集めたタンポポだったのでしょう」
 仔鼠はびっくりして聞き返した。大きな声で訴えるように鳴きながら。
「どうして蛇はこんなことをするの。どうして食べてしまわないの。僕は、そのせいでずっと怖い」
「蛇は――あの蛇は仔鼠を見つけると、生かしたまま連れて帰るのさ」
オレンジ色の丸くくびれたボトルが言った。
「小さな鼠を一匹食べても、蛇のお腹が少し膨れてそれっきりだ。だけど仔鼠なんて、すぐに大きくなるだろう。それから食べれば、蛇のお腹もだいぶ膨れる。あの蛇は、そのために小さい鼠を見つけては、殺さないで飼っているのだ」
首長で背高の緑のボトルが教えてくれた。
「じゃあ、僕もいつか食べられてしまうの」
「それは」
考えるような少しの沈黙が、鼠達の間に流れる。
「そうだね。君も、そしてそれよりきっと早く、他の鼠も」
 仔鼠のお腹が、掴まれたようにキュウっと痛くなる。
「僕死にたくない」
「みんなだってそうだ」
水色ラベルの四角いボトルは、ほんの少しだけ怒って聞こえた。
「すまないけど、これはどうしようもないことだよ。それにだいたい、蛇に見つかったその時に、もう丸呑みになっていることが当たり前なんだ。蛇に見つかっているのに、今もこうやって生きているのがおかしいことだ。本来ならばね」
そう言うボトルからは焦がした豆みたいな匂いがしていた。
 丸呑みという言葉を聞いて、仔鼠は真っ赤な喉の奥のことを思い出し、首の後ろがゾワゾワと寒くなった。
「そのことが幸せであるのか、不幸せであるのか、僕は知らないよ。さぁ、蛇がよこしたご飯を食べてしまいなよ。あの蛇は鼠を太らせたいから、太らない鼠のことなんて食べないでいる理由がないよ」
緑色の大きなラベルがそう言った。鼠達はそれきり黙ってしまった。
 仔鼠は今聞いたことを考えて、ボトルの底に落ちているタンポポの茎を拾い上げた。十も二十も、もしかしたらもっと抱えていたのに、たったの三本になってしまった。胃袋が引っくり返る気持ちだったけど、それでも端っこにかぶりついた。何の味もしなかったけど、それでも必死に圧し込もうとした。こんなに美味しくないタンポポは初めてだった。
 涙がいくつもぽろぽろこぼれた。ペットボトルには染み込まないから、涙はそのまま夜寝る時に体を濡らして、冷たかったし嫌だった。
 蛇は自分が言うだけのことがあり、とってくる食べ物については実際なかなかの量ではあった。それは木の実や草の種だったり、バッタやカブトムシだったりすることもあった。
 何日かすれば仔鼠もいくらかペットボトルの底には慣れたが、それでも蛇が餌を落とす時、真っ赤な口が見えると怖く、その時はずっと下を向くから、いつも頭にご飯がぶつかった。
 蛇は何度も往復し、その世話は甲斐甲斐しいくらいだった。「私の可愛い鼠達」と呼ぶのは、蛇自身には皮肉でもなんでもないようだった。
 だが歯を削ることの必要性についてだけは、蛇は全く理解しなかった。そのために木の枝や石ころを入れてくれることは決してなかった。だからといってペットボトルの底でも齧ってしまおうものなら、蛇は必ずその傷を見つけ、鼠をボトルから引きずり出した。それは誓って歯を削ることだけを目的としたものであったとしても、決して許されるものではなかった。
 それは例えば、仔鼠の次にやってきた若い鼠のことである。
 若い鼠は賢く、勇敢で、すぐに逃げる方法を考え付いた。その考えというのは、蛇が出かけて見ていない時間に、ペットボトルを少しずつ噛んで、穴をあけて脱出するという計画だ。それはとても賢く思えたので、仔鼠もさっそくそれを真似した。
「もし私が上手に出られたら、そっちも外から噛んであげよう。そしたらきっと早く出られる。その代わりじゃないが、そっちが先に出られたら、こっちも外から噛んでくれたまえ」
他の鼠達がそうしない理由を、二匹は考えるべきだった。
 餌をたんまり抱き込んだ蛇が、いつもみたいに上機嫌で帰ると、その日に限ってこう言った。
「お前達そろそろ食べ残しやら糞やらで閉口している頃だろう。今日はご飯にする前に、新しい容れ物に取り換えてあげる。お前達気分が良くなるだろう」
蛇は順番にペットボトルを逆さにし、鼠をべしゃりとゆすり落とすと、新しいペットボトルに慣れた尾つきで次々鼠を移し替えていった。
 若く賢い鼠は、自分の番が回ってくるのを真っ青になりながら震えて待った。いよいよ蛇は噛み傷だらけのペットボトルをひっくり返して、若く賢い鼠に言うのだった。
「悪戯っ子がいたものじゃないか」
意地悪そうに、からかうように、馬鹿にするように微笑んでいた。
 蛇にボトルを逆さにされても、若く賢い鼠は必死になって落っこちまいとこらえていたが、とうとう蛇は業を煮やして、その身を中に潜り込ませた。
若い鼠は失禁しながら悲鳴を上げた。蛇がトロリと巻き付いて、力いっぱいに抱きすくめると、若かった鼠はすぐに取り出しやすい形になった。
 蛇は鼠を咥えて引っ張り出すと、恍惚とした金色の目をして、死にたての鼠をズルリと飲んだ。愉快そうな顔をしていた。仔鼠は黄色く膨らんだ蛇の腹が、自分のことを呪っている気がした。でも仔鼠はそんなこと知らなかった。知るわけもなかった。そして他の鼠達が、自分達にこのことを教えないでいた理由を知った。
「今日はもうお腹がいっぱいだから、お前のおいたは見逃してあげる」
 仔鼠はもう本当に怖くて、蛇の用意した新しいボトルに、ほとんど自分から潜り込んでいった。満腹になった蛇は色んな仕事がし難くなるので、仔鼠はただただ蛇の尾をわずらわせないことだけ考えた。
「お前は良い子だ。私の鼠」
満足そうに蛇は言い、気持ち良さそうにまどろみはじめた。
 体を横たえる蛇のお腹は、夜が更けても大きく膨れたままだった。仔鼠は眠ろうと思っても、どれだけ強くまぶたを閉じても、呑みやすい形にされてしまった可哀想な鼠の顔が、頭から消えることがなかった。
 丸一日も経った頃、お腹がまっすぐに戻った蛇はようやく長い眠りから覚めて、いつものように食事を探しに姿を消して、それから仔鼠はようやく短い眠りがとれた。
 そういうことなどもあったりするので、鼠達は伸びすぎる歯を不便に思いながら、満足に削ることもできないでいた。
 それは鼠らしさの喪失ですらあったのだが、しかし蛇にとってはそんなことは大した問題にならないらしい。蛇にとっての鼠らしさとは、よく太り、従順で、美味いこと、それだけだったからである。
 だがそのおかげで鼠達は飢える心配だけは忘れて過ごせた。
 蛇は時には自身の大好物であろう、カエルすら運んでくることもあり、そんな折には鼠の中にも喜ぶ者がいるほどだった。
 だけどカエルなんて上物はそうそうしょっちゅうとれるものでなく、小さな鼠でも何匹もいれば、全員に行き渡るわけもない。
 そうすると今度は鼠の中から、蛇のことを「蛇さん」などと言って敬う者が出てきたりする。
「蛇さん、私達の蛇さん。そのカエルはとても美味しそうですが、蛇さんはどうしてそれを食べないでいられるのですか?」
こういう場合に鼠は当然、蛇がなんと答えるのかを知っている。
「えぇ、えぇ、私の鼠。このカエルはね、お前達に食べさせるためだよ。蛇はカエルが好きだけど、いっとう好きなのは鼠だよ。だからね鼠、このカエルはお前達がお食べ。私はお前達に食べさせるためだったら、大好物のカエルだって我慢ができる」
 蛇はつらつらと、得意満面に笑みをたたえて言うのである。誇らしげに、自慢げに、自分の素晴らしさを謳うようですらある。すると鼠も返すのだ。
「あぁ、蛇さんはすごい。そんなに美味しそうなカエルを我慢することは、鼠などにはきっとできません。きっとここは外よりも、ずっと幸せかもわかりませんね」
そうすれば蛇はニマリと笑い、カエルの足の太いところを丸ごとちぎって、よく喋るボトルに投げ込んだりするのだ。
 そんなおかげですっかり太った口の回る鼠ときたら、ある日には他の鼠に向かってこんなことを言うのだった。
「考えてみれば、みんな死ぬまで早いか遅いかの違いでしかない。みんなここから出られないまま、そう遠くないうちに死んでしまうから、だったら蛇さんにお願いして、餌のいいところをもらった方がいいだろう。枯れ草とかトンボの羽とか食べて生きるより、その方がずっと幸せだし、もしかすればこのままどんどん太れば、蛇さんは俺のことをもっと太るかもしれないと思って、ますます良い食事をくれながら、ずっと生かすかもしれないぜ。そうなれば俺は、このまま蛇さんに飼われていくのも悪くない」
 何匹かの鼠は、それは確かにそうかもしれないと思ったが、そんなことを言ったばかりの鼠も、さっそく翌日に食べられてしまった。
「お前は本当によく太った。こんなに立派に丸々として、こんなに見事な鼠のことは今までに一度も見たことがない。私のために本当によくも太ってくれたね。私は嬉しい。私はお前が誇らしい。おかげで私は、もう本当に、お前のことを見ていると――――私はもう、我慢ができない」
特別大きな真っ赤なラベルのペットボトルに、蛇は一目散に飛び込んだ。一瞬だけの小さな悲鳴ごと、太った鼠の姿は消えた。
「あぁ、お前は本当に素敵な鼠だよ。私をこんなに悦ばせてくれる。あぁ、大好きだよ、可愛い鼠。可愛いかわいい、私の鼠」
 もぞもぞ元気よく波打つ腹を、愛おしそうに何度も尻尾で撫でる蛇。それもすぐに動かなくなる。この光景を見飽きないでいるのは、あばら家の中では蛇だけだ。
 それから蛇は眠りのために、ペットボトルから這い出ようとして、そこでようやく自分の体が出られないことに気が付いた。太り過ぎた鼠は外に出せなくて、中で飲むしかなかったからだ。風船みたいな黄色いお腹が、見事に出口につっかえている。
「私はここで眠るけど、可愛い鼠達、今度のご飯が遅くなるけど、どうか良い子にしておいで。お前達にも、きっとすぐに食べさせてあげるから。私を困らせたりしないでおくれね」
蛇はそう言って、ボトルの底で狭苦しそうに体を巻いた。
 あぁ、この中は鼠臭くて、お腹も鼠でいっぱいで、こうして眠るのも悪くない。そんなことを考えながら、蛇は寝息を立てはじめた。
 鼠達にとってはこの日常も、今となっては生とも死ともつかない白昼夢のようなものだった。目を閉じ、耳を伏せ、「どうか次も他の鼠でありますように」と祈り続けてさえいれば、儚い命がほんの少しは永らえられるかもわからなく、その最期を飾る苦しみを今は忘れて過ごすことさえできるのならば、それだけで決して不幸ではないと信じようとする可哀想な鼠の夢だ。
 仔鼠もまた、そうした淀んだ時間の流れに身を任せることに慣れつつあった。
 それでも仔鼠は今もまだその眼を閉じきっていなかったから、顔を背けた視界の端に、日常のほころびを見ることができた。ほころびは蛇の形をしていて、破裂しそうに膨んだまま、ペットボトルの底にいた。
 「もしかして」
それはほとんど思いつきみたいな閃きで、考えるだけで小さな背中から絞れそうなくらい汗が出た。頭がぐるぐるする。一抹の望みが、心臓を壊しそうなくらい速くする。まさかそんなことができるのだろうかと、仔鼠は何度も自分自身に問いかけた。
「でも失敗したら、今度はきっと殺される」
 蛇は出かけているわけじゃない。プラスチックの壁を隔てて、今もすぐそばに横たわっている。今こうしている次の瞬間にも、その眼をカッと見開いて、息を吐きながら言うかも知れない。
「悪戯っ子がいたものじゃないか」
 思い出すだけで、仔鼠は息ができなくなる。
 あの金色の目、あの赤い舌、あのシュルシュルという息を吐く音。
 あれらは全部、鼠を縛る呪いだ。蛇は蛇であるだけで、その証をふりかざすだけで、鼠の全てを奪ってしまえる呪縛を、生まれながらに持っているのだ。鼠にとっての蛇とはそういうものだ。どう足掻いたって抗いようのない関係性だ。
 しかし――その蛇も今はペットボトルの底にいる。あるはずのないまぶたは閉じられ、赤い舌だってしまわれている。あの気持ちの悪い呼吸の音も、今は寝息に代わっている。
「できる」
 仔鼠の小さな頭の中で、聞いたことのない自分の声が、どんどん大きくなっていく。その声はきっと生命の矜持だ。
 仔鼠は、ペットボトルの底の固さなら失敗した時からずっと覚えている。どれぐらいの時間があれば、どれぐらい噛み進められるかだって、ちゃんと覚えているはずだ。
 もうこれまでに何度も見てきた蛇の腹。今そこにある蛇の腹は、今まで見た中で最も大きく、これほど膨れ上がることなんて、これから先にはきっと無いだろう。仔鼠が生きている間なら、尚更だ。
 だから、その時は今しかない。必要なものは全部仔鼠が持っている。十分な時間と、確かな試算。伸びすぎた前歯。残りは二つ、そのうち一つを今ふりしぼる。最初の一口を齧る勇気を。
 仔鼠が前歯をふりかざす。プラスチックが破片を散らした。 

 蛇の目がようやく覚めた時、最初に気付いた違和感は、自分を襲う視線だった。プラスチックの壁を隔てて、全ての鼠が蛇の有様を凝視していた。
 異常なことが起きている。鼠が蛇を睨むはずはない。蛇が鼠を睨むものなのだ。事実鼠達が見つめているのは、蛇を納めたペットボトルの、その先端に居る者が成そうとしていることの顛末だ。
 蛇は体をよじったが、胃袋の中身はまだ重く、跳ねることも思うようにいかず、転げようにもボトルの底は狭すぎる。
 ペットボトルがここまで大きいサイズのものでさえなかったならば、頭をもたげて伸ばした首は、きっとボトルの口に届いて、キャップを構える小さな一匹の仔鼠なんて、容易に牙を引っ掛けて中へと引き摺り込めただろう。
 蛇はその牙と舌をしまった。
「あぁ、私の可愛い鼠。悪戯っ子な私の鼠。今ではまだ怒っていない。私はまぁだ怒っていないよ。私は鼠のことが大好きだから。
だから鼠、止めてちょうだい。
今はまだ悪いおふざけなのだろう。小さくて賢い私の鼠、可愛い可愛い仔鼠さん、こんなこともうおしまいにしましょう。
私の鼠、お願い、やめてちょうだい。
そうだお前にはカエルの一番いいところをあげる。カブトムシの幼虫だって掘ってきてあげる、トンボの背中の白身だってあげようね。そうだスズメの卵だって持って帰ってあげてもいい。お前達食べたことがないでしょう。卵は取りに行くのが大変で、木に登ったり、屋根に上ったり、とても遠くだし、ネコがいることだってある。
鼠だもの、お前達はネコのことわかるでしょう。鼠のことをみんな食べてしまう怖ろしい生き物だよ。そうだとも、ネコ。それにカラスも怖ろしい。外には怖ろしい生き物がこんなにたくさん住んでいるのに、私はお前達に何度ごはんを運んできたかしら。
なぜ言うことが聞けないの。
それでお前達みんな、そんな危ない目にあったことがあるのか考えてみて。容れ物の中で待っていてくれれば、私はお前達のお腹を満たしてあげられる。ここにはネコもカラスもこないし、お前達はずっとここにいればいい。危ないことはみんな私がやってあげるし、お前達小さな鼠には、できることなんて何もないでしょう。どうせお前達にはもう餌の探し方だってまともにできないだろうから。
だから綺麗な容れ物の中にいて、ずっと私の鼠でいなさい。お前達みんな、私のものでいればいい。鼠なんてみんな、鼠なんて、鼠はみんな蛇の――――――」
 仔鼠に必要だったのは、蛇が起きるまでの十分な時間と、ペットボトルを齧り切れるという確かな試算、今は削れて短くなった伸びすぎていた大事な前歯、体を動かすちっぽけな勇気と、そして最後に必要だったことは、今まで何度も見てきて覚えた。ペットボトルのキャップの閉め方。
 そうして蛇はたった一匹の仔鼠に、己の牙を突き刺す機会をとうとう失った。
 無策でこそなかったが、仔鼠にとっては並々ならぬ挑戦だった。まだ血の巡りが落ち着かないし、手も足もみんな震えてしまう。それも少し落ち着けば、仔鼠の頭の中には色々な考えがよぎるのだった。
 例えば、このままではいずれ蛇が死んでしまうこと。それに自分が――鼠達が、これからはまた自分の力で、食べる物を拾い集めなければならないということなどだ。
 蛇のことが少しでも哀れじゃないかと言われれば、それは難しい質問だった。仔鼠がいつか檻の底で食べた木の実は、確かに甘くて香ばしかったし、そのことをきっと仔鼠はこれから何度も思い出すだろう。それでも仔鼠自身のためには、蛇の入ったペットボトルなんて二度と触れないに越したことはない。
 仔鼠は気持ちが少し落ち着くと、今度は急にどうしたことだか、ペットボトルがいきなり破裂して、怒り狂った蛇が飛び出す幻想を、頭の片隅に見たような気がした。
 仔鼠はやっぱり怖くなって、他の鼠のペットボトルを開けてやることも忘れたままに、あばら家から飛び出していった。
 走り方を忘れかけていたから何度も転びそうになったし、砂粒を踏むだけで足の裏が痛い。薄暗がりに慣れた瞳は、夕日の光に焼けそうだった。だけど小さな体は転がるように跳ね回って、みるみるうちに速度を増していく。体に染みついた蛇の匂いを、振り落としそうな勢いだった。
 やがて仔鼠は大きな岩の手頃な割れ目に潜り込めそうな隙間をみつけると、小さな体をひんやり気持ちいい岩肌にあずけて、今は少しだけ眠ろうとした。
 疲れ果てるということさえも仔鼠には懐かしく、今の心には安らぎだった。目をつぶってじっとしていると、仔鼠の頭の中にいる蛇は、どうやったのかペットボトルから這い出して、明日にでも自分のことを見つけに来るような気がしてしまうから、そんなことを考えてしまわず済むように、すぐに眠ってしまえるように、いつだって疲れ果てていたかった。
 きっとこれからはそんな暮らしに、仔鼠は少しずつ帰っていく。いつかみたいに、朝早くから野花に下りた露をすすって、昼には休む暇もなくタンポポやキノコをもいで集めて、夜になったら暗闇の中でカエルやコオロギの影を追う。そしてどうか叶うのであれば、カラスやネコやヘビなんかには、できれば会わずに済みますように。そんな暮らしを夢に見て、仔鼠は安らかな寝息をたてた。静かな夜が更けていく。
 さて残された鼠達は、今頃どうしていることだろうか。
 無事に抜け出せただろうか。体はすっかり鈍っていても、きっと元気に生きていける。少しの慣れは要るかもしれないが。
 ひょっとしたら何匹かは、あのままペットボトルの底にいて、親切な誰かがまたいつかミミズやドングリを落としてくれるのを、待ち続けることを選ぶのだろうか。
 それとも無事に抜け出せたのに、もう逃げることもできるというのに、せっかく仔鼠が締めたキャップを、ゆるめながら言うのだろうか。
「蛇さん、お腹が空きました」と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?