鬼滅の刃は古めかしくも新しい

 朝の情報番組の鬼滅の刃特集で物語の魅力として単純な勧善懲悪のストーリーでないことが挙げられていた。「単純な勧善懲悪ではない」これは物語の評価でよく使われる表現である。しかし私は思うのだ勧善懲悪をしないというのはもはや当たり前になってしまって目新しさのかけらもないと。悪にも道義があるというのは常識である。無意識に人を殺す悪役など居ない。居たとしてもそれは物語的展開が薄い。今の世の中ではむしろ勧善懲悪をやり切る「完全勧善懲悪」の方が目新しいのではないだろうか。

 鬼滅の刃の興味深い点として比較的グロテスクな物語を子供が好んで見ているというものが挙げられる。鬼滅の刃を大人が好むのは理解しやすいが子供人気を獲得しているのは不思議である。この点に私は1つの仮説をたてた。勧善懲悪を行わないという新たな規範が社会で受け入れられた結果として、人々は鬼滅の刃のような作品を子供が見るべきものと認識するようになったというものである。一昔前であれば悪いやつは悪い良いやつは良いやつなんていう単純な図式を子供に教えていた。悪いやつにも道義があるなんていうことは隠されていた。特に過去のディズニー映画ではそれが顕著であり、「シンデレラ」では義姉が一貫して単なる悪として描かれている。鬼滅の刃は子供に向けて教える新しい価値という側面があるのではないだろうか。だからこそ親も安心して見せることが出来る。

 大人である私としてはやはりアンチ勧善懲悪は古く思えてしまう。炭治郎が無慈悲に鬼を惨殺するような完全勧善懲悪の方が返って面白く感じる。そうしたら炭治郎は単なる悪役である。それはそれでもうダークヒーローというジャンルが開拓されているのだが。善悪に関する新たな位置づけが早急に求められるだろう。善悪二元論から多元論へ移り切って久しい今、その先を模索することが重要である。

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