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さよなら、人魚。

ある日。
小学生になったばかりの私が学校から帰宅すると、保健所から来たという人が玄関前で私を待っていた。
「お母さんは病気で入院しました。きみも今すぐに病院に行かなくちゃいけないので着替えを用意してくれるかな。先に入院しているお母さんの分もね。」と言う。
その人はマスクをして、白衣を着ていた。
私はそんな話でだまされないぞ、と泣いて抗議した。
さらわれるもんか。だまされないぞ。
隣の家の人が窓から顔を出した。
あぁ、助けてもらえると思ったら。
「早くその子を連れてってください。」などと言うではないか。
私は少しだけその場で泣いて大人たちを困らせ、そして降参する。
あきらめた私は保健所の人の車に乗って、母が入院した町はずれの病院に向かった。

その夜、名古屋から母の妹である叔母が駆けつけてくれた。
「あのね、あんたのお母さん。すごくひどい病気なのよ。しばらく外には出られないし、会えないのよ。」と私に説明する。
「ママ、死ぬの?」と聞いたら、「死んだら、どうしようかね、困るね、そうなったらね。」と泣き笑いのような顔をした。
部屋にやってきた看護婦さんが叔母に「先ほど、バケツ一杯の血を吐かれまして。」と話しているのが聞こえた。
母は肺結核で、隔離されていたのだった。

私もすぐに検査をしたけれど、感染していないとのことで家に戻された。
隔離されている母の代わりに、叔母が私の世話をしてくれた。
叔母の作るご飯は、オムライスとか、から揚げとか、ポテトサラダで。
それらは幼い私をとても喜ばせた。
好き嫌いが多くて、食の細い痩せっぽっちだった私は、叔母の作る美味しいご飯のおかげで、少しずつふっくらと子供らしい体になっていく。
叔母はそれをとても喜んでくれた。
私は「バケツ一杯の血を吐いた」という母のことを、心配もせずに楽しく毎日を過ごした。
叔母と見る「ザ・ベストテン」や「ドリフ」はひとりで見るよりもうんと楽しい。
明菜ちゃんの振り付けを真似する私を、叔母は手を叩いて笑ってくれた。

しばらくして。
学校から帰ると、当たり前のように母が家の中にいた。
「どんなボロ家でも、やっぱり自分の家がいちばんよ。」
そう言いながら、鏡台の前で身支度をする。
大きなクッションブラシで勢いよく髪を梳いてから、いくつものカーラーでくるくると手際よく巻いていく。
巻き終わったでこぼこの頭にネットを被せたら、今度は念入りにお化粧だ。
母はホステスの仕事をしながら、女手一つで私を育てている。
それが彼女の選んだ道だった。
「今日は同伴してくれるお客さんいるかしら。」
母は手帳に書き込まれたいくつかの電話番号を指でなぞる。
「あぁ、急いでマニキュアも塗らなくちゃ。」


その傍らで、叔母は帰り支度をする。
「姉ちゃん、病み上がりなんだからあまり飲んだらだめよ。」
身支度の最終仕上げに、シュパーっと香水を振りかける母に、叔母が言った。母の耳にはたぶん、届いていないと思うけれど。

あぁ、叔母が帰ってしまう。ポテトサラダも、コロッケもハンバーグも、赤いタコさんウインナーも、もう作ってもらえない。
もう誰も、明菜ちゃんの振り付けをする私に手拍子して笑ってくれないだろう。

「さぁ、私はこれで帰るよ。近くの駅まで送ってくれる?」と叔母が私を誘った。
私はうなだれて、叔母を見送る。
そんな私を見て、彼女は笑った。
「本当のママが元気になって帰ってきたのに、そんな顔しちゃって!」


母はホステスの仕事に戻った。
ことあるごとに、「私をバカにしないでよ。バケツ一杯の血を吐いた女よ。ただじゃ死なないわよ。」と言った。
どうやらその台詞を気に入っているらしかった。


私は風邪ばかりひいて、体の弱い子だった。
母は自分が肺結核になったこともあって、「あんた、スイミングとかしたほうがいいかもね。」と言い出した。
近所に新しいスイミングスクールができたのだ。
「あの子、スイミングに行かせようかしら。」母が叔母に電話で相談する。
「病院で結核感染の検査したときに呼吸が弱いとかって言われてたから、スイミングに行かせるのはいいことよ。」と叔母は賛成した。

日曜の朝は、「ストップ!ひばりくん」を見るのが楽しみだったのに。

ひばりくんは、可愛くて、髪の毛が黄色で、大きな瞳で、どこででも着替えようとしてみんなをハラハラさせて、ヤクザの家の子で、そして男の子だった。
そんな魅力的なひばりくんに、もう会えない。

次の日曜からは自転車に乗ってスイミングスクールに通った。
がたがたの田舎の砂利道を走る自転車のかごの中で、大きすぎるビート板は飛んだり跳ねたりして危なっかしい。


泳げなかった私は、初級の「グッピー」というクラスに入った。
「グッピー」は、水かき、息継ぎ、バタ足の練習をする。
そのクラスでは、私が一番年上だった。ちょっと恥ずかしいな、と思いながら息継ぎの練習をした。
しばらくして、次は「エンゼル・フィッシュ」のクラスに進級した。
「エンゼル・フィッシュ」では、水中でターンをして、50メートル泳げなくてはいけない。
私はそこで、落ちこぼれた。
水中で、ターンできない。
何度も何度も、インストラクターは私に指導をしてくれるのだけれど、そのたびに私はごぼごぼと水を飲みこみ、ゲボゲボと吐き、鼻水を垂らす。
何週も「エンゼル・フィッシュ」のクラスに残って、水中でターンの練習をした。
気がつくと、またもクラスには私よりも年下の子ばかりになっていた。
もういやだ。恥ずかしくてたまらない。
インストラクターの先生はそんな私の頭を優しく丁寧に水中に沈めて、体を回転させてくれるのだけれど、私はそのたびに死にそうな顔で水からもがいて顔を出す。
一度もターンができないままだった。

インストラクターの先生が、「じゃあ、今度は水の中でゆっくり座ってみようね。息が続くまでじっと水の中にいようね。」と私と一緒に水の中に沈んだ。
それならできる、と思う。私は水の中でじっとして、目を凝らした。
ゴーグル越しに見る水の中の世界は歪んでいて、不思議な泡の音がする。
そのとき、ざぶん、と大きな音がした。
たくさんの泡と、波を見た。
その先には、きれいに体をくねらせて泳ぐ男の子が見えた。
「ドルフィン」のクラスの子だ。
水の中から、私が見たその男の子の泳ぎと、その体は。
なんだかとても不思議な形だった。
静かな波と、空気の泡。
ゆるりとくねる彼の体と、見たことのないバタ足。
私は息が続くまで、彼の泳ぎを見つめたかった。
だけれど、彼はあっというまに向こうのプールサイドに消えていった。

息が苦しくなって水から顔を出した私に、インストラクターの先生は言った。
「頑張って、あの子ぐらい泳ぎが上手になるといいね。」

笛が鳴った。休憩の合図だ。

私は水から上がって、プールサイドに腰掛けた。
そのとき、小さな波を起こしながらさっきの男の子がぷわっと、水面に顔を出した。
私は緊張した。
男の子は飛び上がるようにして水から上がって、すとん、と私の隣に座った。
私達は並んでプールサイドに腰掛けている。
私は彼のことが気になって仕方がない。
どうしたら。
どうしたらあんなふうにお魚みたいに泳げるの?
どうしてあんなふうに水の中で体を動かせるの?

彼からこぼれる水滴を、私はただじっと見つめている。
その水滴の行く先を、気づかれないように目で追いかける。

男の子の足は、片方だけだった。

胸がどきどきした。
自分の視線をどこにどうやって逸らせばいいのか分からない。
私はバカみたいに黙って、固まっていた。
そのとき、男の子は冷たく私に言ったのだ。

「両足あるくせに、泳げないの?」


ショックで息がひゅっとなった。
そして私はしくしくと泣いた。
水の中のその男の子はとてもふしぎな生き物で。
私はいつまでたってもターンができなくて。
彼から落ちる水滴はなんだかきらきらしていて。
プールはいつだって消毒の匂い。
今頃、ひばりくんはどうしてるだろう。
きっと今週も可愛いのだろう。
私はなんで、泣いているんだろう。
恥ずかしくて、彼のこともまっすぐに見れなくて、でも彼の泳ぐところをもっと見ていたくて。
いつになったら私は彼と同じクラスのドルフィンに進めるのだろう。
私がドルフィンに進む頃には、彼は金メダルを獲っているかもしれない。

休憩が終わって、インストラクターの先生が戻ってきた。
しくしく泣く私に困っていた。
あの男の子はとっくにプールに戻って、私にはできない泳ぎで50メートルを泳いでる。


翌週。
私は「ストップ!ひばりくん」を見て、日曜の朝を過ごした。
ひばりくんはやっぱり可愛い。その週のひばりくんはポニーテールだった。
いつか私が可愛いオスの犬を飼ったら。
その犬の名前は「ひばり」だ、絶対。と私は誓う。


母は私がスイミングに行きたくない、というのをあっさりと受け入れた。
きっと月謝が高かったのだろう。
叔母は「あら、なにやっても続かないねぇ、もったいないねぇ、水着。」と電話越しに笑っていた。


中学生になって、私はますます勉強ができなくなった。
年号とか、世界の国の首都とか、そんなことはあやふやのままだ。
そろばん塾にも通いだしたけれど、九九の七の段は今でも言えたり言えなかったりだ。


母に殴られる日が増えた。
家出もしてみたけれど、露出狂の年寄りに追いかけられて自分から交番に駆け込む始末。
悪い友達もできた。
いい友達もできた。

成人してもまだ大人になりきれなくて、ぐずぐずのままだった。
それでも、働くようになって、自分なりの自由を手にした。
本当はなにが自由なのかよく分からないままに。
私は好きなように進んだ。
その毎日は、どんな行方に向かっているのかさっぱり分からなかった。
気づいたことは、いつのまにか私は母の扶養家族ではなくなっていたことくらいだ。

私が27歳の時。
癌ホスピスの一室で、母は死んだ。52歳だった。

私は当時の恋人と一緒に暮らすようになる。
恋人は、不動産に勧められた私たちには有り余るくらいに贅沢な、新築の大きな借家を借りてくれた。それが彼の優しさの表現だった。

そこで、私は生まれて初めて喘息の発作を起こした。
最初は、どうして咳が止まらないんだろう、と思った。
呼吸はどんどん弱くなり、発作で何度も救急に運ばれた。

「喘息の原因は新築の家のボンドとかペンキだと思います。」と医者は言った。
そして、診察のたびに強い薬を新しく処方された。

薬の副作用で、心臓が弱ってしまった。
なにをするにも、つらかった。
苦しくて、胸を押さえた。
新築のその家はモダンなデザインで、家の中心にらせん階段があった。
キッチンとリビングは2階にある。
水を飲もうと、らせん階段を上がる。
布団を干そう、と下に下りる。
それだけで一日の力を使い切った。
息ができなくなって背中を丸めて泣いた。
拭き掃除の途中、階段を三段目までしか拭けなかった。四段目からどうしても先に進めない。
らせん階段が憎かった。
キッチンのシンクには、汚れたままのお皿。
一昨日からそのままだ。
洗おう、明日こそは洗おう、と思う。
でも、どうしても洗えない。
一枚の皿ですら、洗えない。
スポンジに、洗剤を垂らすことすらできない。
キッチンのテーブルの脚を掴んで、座り込んだままで泣いた。
観葉植物が枯れてゆく。
ゆっくりと枯れてゆくそれを毎日見続ける。
枯れてゆくのは私のせいだ。
私は水をやることすらできない。
目玉焼きを焼こうと思ったら、黄身が割れた。
それだけで、その場にへたり込む。
自分はなにをやってもだめだ、と泣く。
呼吸ができない。
ここは水の中なのだろうか、それとも私は陸では息のできない生き物なのか。

深夜、救急で運ばれた。
呼吸器と点滴に繋がれた私を見て、当時の恋人は泣きそうな顔で私に言った。
「おまえ、死んじゃうの?」
私はなにも言わずに、だまって呼吸器からの酸素を吸い続けた。


次の診察のとき、医者は新しい処方箋と併せて、心療内科への紹介状をくれた。
私は「うつ」という心の病気になったのだと医者は遠慮がちに言った。


心療内科で貰った薬を最初の数日間だけ飲んだ。
あとは、薬を飲むことすら億劫で。
起き上がることも諦めたまま、湿気った冷たい布団の中でぼんやりと天井を見ていた。
仕事はそのままやめてしまった。
それは深く私を自己嫌悪に陥らせた。


その頃から、あの片足の男の子のことを想うようになった。
くねるように、静かな泡と波を作るあの男の子。
ずっと昔に一度だけ会った男の子。
あの子といつか一緒に泳ぎたかった。
もっとあの子を知りたかった。
だけど、もし彼が今の私を見たら。
きっとまた、こう言うだろう。
「両足、あるくせに。」
そう思うだけでまた私はどんよりと、心の沼に沈んでいくのだった。

私は一日の大半を夢の中で過ごした。
こぽこぽと泡の音が聞こえる。
ここは水の中なのか、陸の上なのか、私には分からない。
暗いその世界には、私を待っている人がいた。
あの男の子だ。片足の、あの子。
彼はもう、紺色のスクール水着を着ていた小さな男の子ではなくて。
妖しく、美しい青年だ。
冷たく笑いながら、私を誘う。

彼は水の中を自由に泳ぐ。
彼が作る泡に、波に、時間を忘れて陶酔した。


私はどんどんおかしくなっていった。
喘息もひどくなって、痩せて、恋人の心配そうな顔を見てはつらくなって。
でも、どうすることもできなかった。
沈んでいくことしか。


そんなときに、叔母から電話があった。
少し話しただけだった。
「じゃあね。」と言って電話を切って。
その夜も眠れずに、眠れないということがこんなにも悲しいことだなんて、と朝を迎えた。
玄関に車が停まる音がした。
窓から見下ろすと、それは叔母だった。
あんたの電話の声がおかしいから、と叔母は言った。
「だから、迎えにきたよ。あんた、おばけみたい。おばあちゃんとこにすぐに行こう。」
バッグに着替えを詰め込むだけで、苦しくなってしゃがみ込む私の背中を、ゆっくり休んでおいで、と恋人がさすってくれた。

おばあちゃんの家に着くと、叔母は玄関を少しだけ開けて、中に向かって叫んだ。
「おばあさん!おばけになったあんたの孫を連れてきましたよ!とりあえず、塩!この子に塩撒いてー!」

「ほうか、来たか。どんだけわしの孫、おばけになったかのー。」
粗塩を袋ごと持って出てきたおばあちゃんは、玄関前に立つ私を見るなり、それを逆さまにして私の頭の上から勢いよく放った。
どばー、と塩が一気に頭から流れた。
通りすがりの近所の人はびっくりして、「どうなさったの?」と目を丸くしている。
「はいはい、お葬式の帰りでね。おばあちゃん、ぼけちゃって塩の加減が分からなくってー。」と叔母は笑ってごまかす。

私はおばあちゃんと暮らし始めた。
目覚めと同時に養命酒を一気飲みするおばあちゃんに見習って、私は珈琲代わりに朝から梅酒を飲んだ。
昼はふたりでビールを飲んだ。
夜は日本酒を飲んで、ビールも飲んで、梅酒も飲んで、養命酒も飲んだ。
布団を並べて、おばあちゃんと並んで眠った。
おばあちゃんの寝言は向こう三件に聞こえるまでの近所迷惑だった。
それでも、私はぐっすり眠った。
お酒に酔って、おばあちゃんの寝言を聞き流しながら安心して眠った。


おばあちゃんの隣で、私はいろいろな夢を見る。
意味を読み取れる夢。
誰かに呼びかけられる夢。
さらさらと流れるだけの夢。
記憶を辿る夢。
はっきりとした現実のような夢。
淡くて、曇りのある夢。
どうしても思い出せない夢。

昼間、たこ焼きを買っておばあちゃんと食べた。
おばあちゃんは前日に床屋でかけてもらったパーマにご満悦だ。
おばあちゃんはなぜだかいつもパンチパーマをかけたがる。
床屋帰りはいつも北島三郎だ。
おばあちゃんはたこ焼き一個で、これでもかとビールを飲み干す。
私もつられて、ぐいぐいビールを飲んだ。
そしておばあちゃんとふたり、そのまま台所のテーブルにつっぷして眠った。


夢を見た。
こぽこぽと泡の音がする。
ここは水の中だ。
静かな波が寄せてくる。
あぁ、あの子が来てくれた。
どこに連れていってくれるんだろう。
あの子みたいに、私は泳げるだろうか。
うまく泳げなかったら、あの子は私にがっかりするだろうか。
「両足、あるくせに。」と言うだろうか。

彼は、きれいに体を動かして、私の前にふんわりとやってくる。
私は嬉しくて、彼を見つめる。
彼は堂々としている。
ふたりで水の中を自由に泳ぐ。
あぁ、ずっとこのまま。
私はあなたと一緒にいたいよ。
でも、彼は体を返してこう言った。
「そろそろ、陸に帰ろう。」

いやだ、と私は言った。
「陸は苦しいよ。」
陸は、きみにも苦しいはずだよ。
このまま、ふたりで。
水の中で暮らそうよ。

だけれどあなたは私を連れて陸に上がった。
ぴょんぴょんと器用に歩いていく。
仕方なく私も、あなたの後ろを歩く。
「陸にはあんまりいいことないよ。」と私は言う。
片足のあなたに、誰かがひどいことを言ったらどうしよう、と私は怖くなる。


それは夢の中だから、まるでおとぎ話のように目の前に崖が現れる。
崖の上のほうには、きれいな花が咲いている。
その花からは、なんともいえない甘い匂いがする。

彼は、その花に見とれていた。
そこに咲く花たちは、まるで熱帯魚のようにカラフルで。

よし、ここは私に任せて。

「あの花、取ってくるね。待ってて。」と私はその崖に向かった。

見ていてね。
ターンはできないけど、あのきれいな花をきみにプレゼントするから。
待っててね。
大人の女は走らないものなのよ。
いい女は崖になんか登るものじゃないのよ、本当は。
でも、今日は特別。
だって、きみは私の特別なひとだから。

もうすぐだよ、目の前にその花が見えるよ。

そこで、目が覚めた。
おばあちゃんに揺り起こされた。
「酒、買いに行くぞー。」
おばあちゃんは午後も酒に対してやる気を出す。


おばあちゃんと近所のアピタに行った。
アピタの中には、小さなお花屋さんがあった。
いつもは、仏壇用のお供えのお花しか目に留まらないのだけれど。
その日は小さなパンジーの苗がきれいに並んでいることに気づいた。
「おばあちゃん、あのお花可愛いよね。欲しい?」と聞くと、
「いらんなー。」とおばあちゃんは答える。
「わし、酒がいいよ。酒。」
仕方ないなー、とビールと日本酒を買う。
発泡酒でもばれないか、と思うのだけれど、
「いい酒、買ってくれよ、本物で頼んます。働けるうちは、いい酒飲めよ。飲ませてくれよ。」と隣からけん制をかけてくるおばあちゃん。
強者である。

おばあちゃんの家では一度も喘息が出なかった。
怖い夢も見なくなった。
怖い夢が忍び寄ってくると、「すみません、帰ってください。」と追い返せるようになった。


私はスイミングスクールで出会った、あの片足の男の子を。
自分の中で。
自分の殻の中で育てていたのかもしれない。
息ができなくてもがいているとき。
彼を思った。息ができない、その果てには。
静かな水の底があるのかな、と夢見た。
逃げたくて、でも、どこにも行きたくなくて。
そんなとき、あの子は私の心の中で、自由に泳いでみせた。
私はその夢の中で、彼のそのしなやかな泳ぎに恋をした。
そうやって現実を忘れて逃げ込むことしかできなかった。


でも。
それを全部。
最後に一度だけ、ぎゅっと抱きしめた。
形のないそれは、さらさらと細かい砂みたいに私からこぼれた。
あの男の子からこぼれる水滴はとても美しかった。
小さな体で、広い水の中を自由に、思い通りに泳ぐ男の子。
ばねみたいに、羽根みたいに。
水の中の生き物みたいに。

彼は今も生きている。
だって、彼は幻じゃないから。
私も今。
生きている。
私は、ちゃんと戻ってきた。

早送りも、巻き戻しもできないけれど。
自分自身を再生できる。

私はあの子にさよならしたんだ。
それはなんだか不思議な気分だった。
さよならは苦手だけど。
いつかそうしなくちゃいけないときがある。
夢の中、私は水の中の彼に甘いため息をついた。
それはとても美しい時間だった。


抱きしめて、最後にぎゅっと、一度だけ。
そうして、私はあなたを手放した。

呼吸している。
きっと、水中ターンは今もできないままだ。
でも、私は生きてるよ。
元気だよ。
きみも、きっと元気だよね。

大丈夫。

きみの幻とさよならしても。
わたしは再生できた。

架空のきみと過ごしたあの日。
嘘みたいなその世界は。
それはきれいな水の中だった。

私はなんとか陸に上がったよ。
きみが押し出してくれたのかな。
ありがとう。
私は進んでる。
その行方がきれいな場所だったらいいな、って思う。
いつか。
そのきれいな行方の、そのまた先で。
甘い匂いの可愛い花を、きみにプレゼントしたい。




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