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劇団高校四年生 『天使は瞳を閉じて』感想

於 駒場小空間 6/4~6/6
約6300字 10~15分

 大学に入ってから、演劇やってる知り合いが増えた。舞台を見に行くのが好きな友達もいて、色々話すようになった。でも、その中の少なくない人がこんなことを言う。

「普通の、物語がある劇って、全然面白くないじゃないですか」
「ああ、僕、そういう暑くるしい劇って見れないんですよね」
「もう、物語とか見たくないんです。そういうのはどうでもいい」

 ほえ? 頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。「物語」の無い演劇、そっちの方が、僕には想定できなかった。しかし、その後になって、彼らの語る劇を目にすることになる。例えばチェルフィッチュ。例えば平田オリザ。例えばコンテンポラリー・ダンスに接近した舞台。反復、メタフィクション。「実験」なんて段階はとうに過ぎ去って、とても豊かな表現の世界がそこにあった。

 僕は、彼ら、彼女らの顔を思い浮かべる。一緒に演劇を見たり、話したりした友人たち。今日の舞台ほど、彼ら彼女らの気持ちが分かった公演はなかった。最初に正直に言おう。僕が舞台を見ながらずっと感じてたのは「苛立ち」だ。その多くは、27年前にこの戯曲を書いた鴻上尚史に対してのもの。そして残りは、27年後の現在に、この劇をやる意味を見せてくれなかった劇団高校四年生に。演技も演出も各セクションも良かった。けれども、感想を聞かれたとしたら、良い悪いではなく、きっと「嫌いな舞台」と答えるだろう。

●あらすじ●

 核戦争か、環境破壊か、ともあれ人間はほぼ滅亡した近未来。どうも神様も死んでしまったらしく、残された天使二人が観察するのは小動物ばかり。ある日、天使の一人が残っていた人間の町を見つける。幸せそうな結婚式を見ているうちに、天使の一人は人間になることを決意する。「人間になって、幸福になりたい!」

 町は透明な壁に包まれ、そこを出て行くことは出来ないけど、人々はそれなりに幸せに暮らしている。マスターのお店には、今日もいつものメンバーがやってくる。人間になった天使は、そこに溶け込んで生活を始めている。もう一人の天使は彼女を、人々を見つめている。

 街の娯楽はテレビ番組。カルマ・グループが様々なメディアを運営している。登場人物の幾人かはテレビ番組作りにも関わっている。時間は穏やかに流れていくが、時折カルマ・グループの会長がテロリストに撃たれたり、登場人物たちの間にも浮気があったり、人間になった天使は「見えない方がいいもの」も目にすることになる。人々は段々と変わっていく。天使は彼らを見つめ続け、時に少し手助けをしたりする。

 幸せだった夫婦は別れ、夫のユタカは幸福になれるドラッグ「コーマ・エンジェル」に手を出した。テレビ局に努めていたトシオは「議長」と呼ばれ、町の住民を率いて町の壁を壊そうとする。マスターはテロを起こしてそれを止めようとする。幸せだった関係はバラバラに崩壊して、結局壁も壊れ、街は滅びる。かつて天使だった彼女だけが、誰もいなくなった街で、みんなの幸せな思い出しながら、幕。

 「物語なんてつまらない」ねえ、みんな。みんなが嫌ってるのは、本当に物語そのものなのかな。物語が、人間を単純化することを、それによって人間がまるで装置のように見えることを、人間を描こうとするときのその手つきの浅さを、嫌ってるんじゃないかな。僕はそれにイライラしっぱなしだった! 

「本当に生きていこうとした時、つまり世界というシステムに拮抗する関係性を築こうとした時、有効な手段が、「死ぬ」ことと「狂う」ことしかないのではないかと思った時からでした。もちろん、僕は、この結論を結論として、受け入れはしませんでした」

「僕たちは絶望よりも希望に鈍感で、希望よりも絶望に敏感です。ですが、この作品は決して、悲劇ではありません
             (鴻上尚史『天使は瞳を閉じて』あとがき)

 原作脚本では、冒頭で、物語の100年前のワンシーンが描かれている。そこには、登場人物の前世である10人が登場し、何か―世界というシステムだろうか―に切実に抵抗する様子が描かれている。

「俺はここを出たいんだ! こんな学校にいつまでもいたくはないんだ!」
「私はこの病院を出たい! 私は狂ってないし狂いたいとも思ってない!」
「俺は会社なんかやめたいんだ! 俺には、俺のしたいことがあるんだ!」
「私は天国なんかにいたくないの! 私はこんな場所にいたくないの!」
(鴻上尚史『天使は瞳を閉じて』)

 高校四年生バージョンでは、このシーンがまるごと削られている。上の「あとがき」にあるように、この物語は多くの演劇がそうであるのと同じように「抵抗」の物語だと感じる。「抵抗」って言葉、もう古くさく感じられるね。デモに行くのは老人か、戦争反対のTシャツを着た神様ばかりだ。だからきっと、このシーンは削られたと僕は感じた。けれど、もし抵抗がなければ、この物語は悪夢になってしまう! 

 「抵抗」は決定的に変わった。もうそこに希望を託すことは出来ない。けれど、その代わりに何かを見つけなければいけなかった。僕は蜷川幸雄の『真情あふるる軽薄さ』という劇を思う。1969年に作られたこの劇は、2001年に再演されたとき、エンディングが変更された。

「強固な壁が今はないことが、この戯曲を演出する上ですごく難しい」

「この戯曲を、当時の反体制運動と結びつけて上演しても、今、有効性はないんです」

「国家権力のあり方と質が、それはもう、圧倒的に変わってしまった。機動隊のような物理的な暴力の形をとらないだろうと思っているんです。ですから、目に見えるような盾は、もはや国家権力の象徴でもなければなんでもないと、だから崩れ落ちてしまえばいいんだと思っています。60年代にノスタルジーを感じているおやじが、まだあれを国家権力の象徴だと思って敵対視しているとしたら、『そんなもんじゃないぞ』と言いたかった。ITも含めた国家権力は、もっと目に見えない形で出てきてるから、単純に機動隊や盾を撃ったってしょうがないんですよ。今何らかの希望を、あるいは希望に類似したものを描くのは、欺瞞だと思うんですね。
          (蜷川幸雄『演出術』「真情あふるる軽薄さ」)

 闘争の60年代から、既に20年が経過して、1988年に初演された『天使は瞳を閉じて』では、既にこうした変化が読み込まれているように感じる。「強固な壁はない」という言葉が、冒頭の「柔らかく透明な壁」に阻まれる登場人物たちのシーンに響きあう。

男1「膜じゃない! 透明な壁だ!」
女1「じゃああの見えてる壁はダミーなの!」(『天使は瞳を閉じて』)

 明確な敵は居ない。抵抗する相手がわからない。「ここではないどこか」へ行こうとしても、柔らかで透明な壁は抵抗を吸収して受け流す。システムが世界を覆っている―この物語の「透明な壁」のように。それはこの世界の写し身でもある。物語では、「透明な壁」の外には放射能が降り注いでいるとされるのだけど、初演の2年前、1986年にはチェルノブイリの原発事故が起きている。終わりかけだったけど冷戦も続いてた。

 時代について言うなら、尾崎豊の名前も挙げておきたい。物語の中には、ミュージシャンを目指す「ユタカ」というキャラクターが登場する。舞台で実際に歌いもする。ユタカはやがて、幸福になれるドラッグ「コーマ・エンジェル」に溺れて破滅していく。当時大人気だったミュージシャン、尾崎豊は、1987年の終わりに覚せい剤所持で逮捕されていて、偶然の一致と捉えるのは難しい。物語と現実、二人のユタカは共に破滅していく。92年に飲酒とドラッグで尾崎豊は死亡した。鴻上のまなざしは、物語の中の天使のように、ユタカ―尾崎豊を見つめている。優しさを込めて、けれども同時に冷たくもある。それは他の登場人物たちに対しても同じだ。

 『天使は瞳を閉じて』の戯曲を読んだとき、こうした強い時代性を感じた。チェルノブイリと尾崎豊はその一部で、時代の「抵抗」のあり方について描かれていた。だから僕は、2015年の今日、この劇をなぜ上演するのか、抵抗をどう提示するのか、それを期待して舞台に足を運んだ。蜷川が「欺瞞」と言うように、原作の賞味期限は切れてるように思えた。システムは透明度を増して、もうそこに壁があることにも気づけない。尾崎は死んで、もはや死も狂気も抵抗にはなりえない。大体、正面から抵抗することそのものがシステムに組み入れられるプロセスに見える。

 けれど、高校四年生の『天使は瞳を閉じて』で、僕の見る限り、抵抗の刷新は行われていなかった。代わりに、冒頭のシーンは丸ごと削られ、それによって「抵抗」というテーマ自体が薄められていた。さあ、僕が一番言いたかったことを言おう。僕にはこの舞台が悪夢に思えた。どれだけ「抵抗」の物語が現代にはそぐわなくなったとしても、それを取り除いてしまったら、この物語全体が悪夢になる。物語の中で繰り返し出てくるテレビ番組。嘘と麻薬のような幸福で人々をただ興奮させ、システムに組み込んでいくトシオと電通太郎の仕掛け。それと全く同じになってしまう。舞台が、麻薬になってしまう。 

 ケイの作ったビデオアートの感想を求められたトシオが、「感想? 面白かったよ」と答えるシーンがあった。(原作には無いセリフだ)心のこもっていないセリフだ。面白かったけどね、ポップじゃないから、テレビには乗せられないね。実際はどうでもいいと思ってんだろ! このひと言がメタに聞こえる。さあ気をつけろ、君にもケンカをふっかけるぞ! この劇を見て、ただ「面白かった!」というそれだけの感想を抱くこと。それは、僕たち自身がトシオになること。抵抗を失い、システムに飲まれ、「コーマ・エンジェル」というドラッグに身を浸すことじゃないのか?

 もちろん、この物語は「抵抗」と同時に、「抵抗の変質」「抵抗の失敗」を描いてる。誰かに抵抗を強要すること自体が愚かしいことも。この僕の文章自体が、わざわざ古びた抵抗を掘り起こして押し付ける一種の暴力みたいなものだと思いながら書いてる。でも、せめてそれが無ければ、この作品は鴻上の否定した悲劇に、悪夢になってしまうと思う。

(フラ・アンジェリコ 「受胎告知」)

 高校四年生バージョンの『天使は瞳を閉じて』への苛立ちについて話してきた。でも、一番最初に書いた通り、僕がイライラしてたのはむしろ鴻上が(1988年に)提示した「物語」に対してだったように思う。

 鴻上は、「あとがき」にあるとおりに、システムに抵抗する人間を描こうとしていて、それは人間の側、天使の側から両面で進行していく。

「これが人間よね! 幸せよね!」(『天使は瞳を閉じて』)

 人間になった天使=テンコは満面の笑みでそう叫ぶ。高校四年生の舞台でも、冒頭のシーンで彼女の笑顔は本当に素敵だった。同僚の天使へ振り返り、ふっと微笑む瞬間が目に焼きついてる。けれど、それは同時に幸福の麻薬に捉えられることでもある。

 人間―天使になった人間―天使。その三つの立ち居地が物語を織っていく。僕はこんな風に想像する。1988年の時点では、観客はこの舞台を自分のものとして捉えられた。2015年にはそうじゃない。この3つの立場のどれにも、自分を重ね合わせることは出来ない。そうした状況で、2000年代の演劇は観客と舞台を溶け合わせたり、連結したり、様々な試みをしてきたと思う。物語を解体することは、ただの興味による前衛と実験ではない。メッセージを、システムを、その強制力を解体する切実な戦いでもあった。以前に同じく駒場小空間で見たシアターマーキュリーの公演『さよならを、天使に。』では、天使を観客と舞台を媒介するメディアのように扱っていたように思う。 →『さよならを、天使に。』感想

 天使が触れると、絶望に落ち込みそうになっている人間を、再び希望へ向かわせることが出来る。「天使は見つめるだけだ! 人間に介入すべきではない!」そんなことを言ってたくせに、人を助けようとする優しい天使。本来、人間を管理する=システムの一部のはずの天使が、どんどん人間に近づいていく。

 物語の最後で、ドラッグ「コーマ・エンジェル」の副作用だろうか、町の人々の背中に翼が生え始める。「人間が天使にいっせいに進化するんだ!」もしかしたら、それは人々が生き延びる道だったのかもしれない。天使になれば、放射能、宇宙線の中でも生き延びることは出来るのだから。けれど、マスターはそれを悲しむ。彼も、そしてテンコも天使であることを捨てて人間になったのだから。

「見たくないものなんて、ないよ」(『天使は瞳を閉じて』)

 天使はそんなセリフを言った。この言葉を僕はこう捉えた。天使は評価をしない。天使は愛さない。天使にとっては、良いものも悪いものもないから、だからどんな悲劇でも見つめることが出来る。天使はシステムだから。人間が天使になるということは、幸福も、悲劇も意味を無くすことである。

 ユタカとマリの幸福な結婚が終わりを告げたときも、天使は彼女に触れて、その麻薬のタッチで希望を取り戻させようとする。けれどマリは、その手を振り払い破滅へと向かう。ユタカのために違う男に抱かれ、最後は睡眠薬を飲んで死ぬ。破滅だけど、それが彼女の抵抗にも見える。天使=システムへの抵抗。

 繰り返される「僕はまた瞳を閉じていない」という言葉。ラストの「あなたの目はまだ世界を見つめていますか」というテンコのセリフ。『天使は瞳を閉じて』というタイトルが呼応する。見たくないものがあるというのは人間だから。涙を流すこともそう。それでも、見続けるということもまた、一つの抵抗になりえるのかもしれない。

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 けれど、そうした人間の物語、抵抗の物語の全てが、気味が悪く映る。1988年から、2015年の間に、何かが変わったように思える。いくつかの麻薬的幸福を切り落として、その99%の絶望のわずかな隙間からのぞく抵抗の形。死による抵抗、悲劇による抵抗、狂気による抵抗、幸福による、抵抗。テンコの幻想の中で手を差し伸べる人々の姿は、洗脳的なテレビ番組と対置されて、かつてのケイのビデオアートように、「握手をしよう」と微笑む。天使に触れられてただ幸福を受け取るのではなく、人間の側から天使に触れようとすること。1988年に、それは鴻上の言葉の中にある「希望」として、「悲劇ではない」ものとして描かれたのかもしれない。2015年の僕はそのシーンもグロテスクに見てしまう。この劇が描いている「希望」や「幸福」それ自体が、新しいシステムになって、新しい強制力になって、こちらを押しつぶそうとするように感じる。僕の友人達は、それを「物語」と呼んだのだと思う。蜷川が「欺瞞」と読んだ希望の腐敗物。『天使は瞳を閉じて』のまえがきで、鴻上はある女性の劇作家について語っている。システムとしての彼女の母親。人間への信頼の欠如。けれどもこの劇自体が、再び人間性を貶めてしまうように見える。「単純さもまた人間性」と呼ぶのなら麻薬を飲んだ方が良い。僕は物語に絶望していない。ただ好きな物語と嫌いな物語があるだけで。人間性を再び信頼させてくれる物語と、その逆に再び―どこにでもありふれている作品や出来事と同じように―人間性への失望を積み重ねさせる物語。

 希望が込められた作品は、時が経過して悲劇に変質した。そして高校四年生の再演はそれを「麻薬」に変えてしまったと感じる。僕は苛立ってる。

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