ゲンロンSF創作講座 便乗小説#2 「ダークフォトンの水底で」(2)

2 暗い日曜日

 ダークフォトンってのはいわゆるダークマター=暗黒物質の正体のひとつで、カッツ博士の仮説が物理学のマジすごい学術誌、フィジカル・レビュー・レターズに乗ったのが2013年。欧州宇宙機関が打ち上げた宇宙望遠鏡ガイアが実際に観測したのは2020年のことだった。当時10歳だったおれは、その大発見を、東京オリンピックをテレビで見てる途中、デレピコ! デレピコ! と割り込むニュース速報にブチ切れる親父の姿と共に思い出す。地球はこのニュースでもちきりになり、金メダルの数なんて(元柔道コーチをやってた親父以外)誰も気にしなくなった。これまでおれたちが知っていた宇宙ってのは半分でしかない。宇宙全体に重なりあうように、ダーク宇宙構造が存在してて、ダーク銀河系、ダーク太陽系、そしてその第三惑星のダーク地球であるところの惑星ユクスとファースト・コンタクト! 大いなる謎だったのは、このユクスがまるで地球の「双子」に見えたことだ。ユクス人は、遺伝子レベルで地球人と似通ってて、まだめずらしいが、地球ーユクスハーフに出会うこともある。おれが20歳のとき、大学にユクス人の留学生がやってきた。光の無い場所で育った彼女は、髪の色から肌まで全部真っ白。本当は目も白いのだけど、「なんか気味悪く見えるって言われて」カラーコンタクトを入れていた。「って言われても見えるって感じが私には分かんないんだけど」というわけで、彼女に視力は無い。その代わり、ユクス人の聴覚と触覚は半端無く、地球生物を遥かに超えている。超音波を歌い、その反響で空間を把握、三次元イメージ構築。「ほんとは見えてんじゃないの」と教室の外でつぶやかれた陰口も聞こえて傷つく繊細さもセット。そんなわけで、安住の地を求めてキャンパスをうろついてた彼女は、ぶつぶつ、マニアックな言語哲学の問題を考察するおれのつぶやきに引きつけられて、静けさだけがウリの哲学研究室にたどり着いた。それから、恋だ。いや、彼女がおれのことをおれたちが言う意味で「好き」と思っていたかは分からない。分からないけどどうでも良い。恋愛というものは、例え地球人同士であろうと、1つの異星文化との出会いに等しいのである。(おれ,2020)日傘をさして歩く彼女は雪の妖精って感じで美しく、でも紫外線対策は全くもって不十分ですぐに皮膚がんになって死んだ。おれが数年落ち込んでいる間に、恥知らずの地球政府は何度もユクスの資源を開発しようとしたのだけど、可視光線どころか電磁波も通らないのでセンサーも働かず、計画書は次々と焼かれる。あと何も見えないので、誰も観光に行かない。科学技術レベルも地球とそんなに変わらないのだけど、二つの星の理論を組み合わせたりして、すっげー早い宇宙船とか超効率いい発電設備とか出来て、割といいとこ取り、ウィンウィンの関係が出来てきた。
 こっちからしてみりゃユクスは暗黒に包まれた探索不能な場所、向こうからすれば地球は紫外線ふりそそぐ気ぃ抜くと死ぬ危険な場所、お互い侵略なんてことを頭から考えずに済んだのも良かった。そんなわけで、科学とかのナイスな発見あったらお互い教え合おうね、的な無難な条約が結ばれて、はじめての異星人への興味はあっという間に下火になっていった。出会ったときのあの情熱が冷め、安定期は倦怠期の別名、まあうまい距離を見つけてよろしくやってこうや、となった双子星。そこに。
「え、ちょっとタンマ、私、すっごくユクス行きたいんだけど!」
 と名乗りを挙げたのが地球の視覚障害者、特に全盲の人々、にわかに活気づく。地球では障害者として扱われるが、ユクスなら健常者じゃんよ! ……そううまくいくわけないでしょ? 述べた通りにユクス人の聴覚はめっちゃスゲエ。白杖頼りの地球人とか邪魔でしかない。でも聴覚優位の惑星だけあって、ユクスの障害者向けのいろいろ、超音波補聴器とか、空間イメージング補助装置とか、拡張手術とか訓練校とか色々あって、努力次第で割と馴染んでいけることも分かる。(この辺の技術は地球にも輸入されてるので有名だ)で、そこで頑張れるのはやはり「元から見えない」全盲の人々で、二星間の友好の象徴にもなって一石二鳥! ってな感じで外交ビザがぽんぽん発行された。
 そんなわけで地球からの移民が増えていくのだけど、その中で今度は科学者グループが結成される。プロジェクトが立ち上がり、目の見える研究者もやってくるようになって、調査するのはユクスの奇妙な「水」について。おれもまあ、そもそもユクスに来ようとした原因は事故での失明だけど、この研究グループへの配属は取り付けている。訂正、いた。
「地球の人たちは、科学者も含めて、みんなとっくの昔に帰っちゃったよ。ダイジはどうして来たの? ユクスがこんなことになったのは、もう三ヶ月も前だ。ニュースは地球にも伝わって、渡航は禁止になってるはずでしょ?」
 渡航費用をケチったんだよ。悪いか。事故の治療費は高くついたし、いろいろあって借りてた金を返済したら保険金が消えちまい、やべー宇宙船乗れねー、ってなったおれ、元恋人のあれこれで知り合いになったユクス大使に会いに行ったら、昔使われてた政府のプライベート宇宙船余ってるから貸してやるよ、と提案されておれは思わずその白い髭面にキスをしたね。私ら地球の感染症に免疫ないからマジそういうのやめて、ってキレられたけどおれは上機嫌。で、その勢いでロクな準備もせずにレトロシップに飛び乗ったのが半年前。でもおれの主観ではたったの2週間。
「それで分かったよ、ダイジ。じゃあ、ダイジの宇宙船は特別なんだね。他にダイジみたいに取り残されてる人はいないんだよね?」
 大使は「こんな旧型のUSS9989なんて(そしてこんな状態のいい機体なんて)他に残ってないぞ」って言ってたから、多分いねぇんじゃねえかな。おれ一人がバカを見たみたいで気に喰わないけど。くそっ。
「ダイジ、あんまり汚い音葉を発さないで。あのね、ユクスでは悪口とか、罵倒とかは法的に取り締まられるんだよ」
 知ってるよ。あいつもそれで苦しんでた。ユクス人にとっては紫外線よりもそっちが堪えるらしい。街を歩けば、そこら中から撃ちだされる悪意の流れ弾。ユクス人は、外耳道のカーブの辺りの筋肉を発達させていて、地球人がまぶたを閉じるみたいに、耳を「閉じる」ことが出来る。強く閉じると鼓膜もミュート出来るらしく、耳栓とは比べ物にならない性能だ。集中とかしたいとき便利そう。あと、「耳を閉じたまま眠れるから、ダイジがイビキかく人でも全然平気だよ」おんなじベッドで寝るときも安心……って、いやね、おれはイビキとかないからね。おっと、これは子どもに聞かせる話じゃないな。まあ、そうは言っても、彼女たちが世界の認識に使うのは音だ。常に沈黙の中に閉じこもるってわけにはいかないのだった。
「ダイジ、少し休んでいこう」
 方向転換の意志が腕から伝わる。おれの右手はロケットが、左手は千里耳が引いていた。いやいや、おれまだ全然いけるから。ていうか二週間ぶりに人に会えて超ハッピー元気マックスだから。脚の筋肉が張ってる? 転んだときに足首も少し痛めたでしょうって? そんなことまで聴こえちゃうの? すごいねしかし。あ、ここに座ればいいの? おおっ、ふわっと柔らかクッションだな。それでいて適度な弾力。宇宙港のソファもそうだったけど、この星の椅子すごくない? 触り心地に気を使わない方がおかしい? いやいやユクス的考えよそれ。聴覚だけでなく触覚も大切にされてんのね。
 と、おれのつぶやきを聞いた(と思う)千里耳が、ぱっと左手を離す。
「うん、分かったよ」
 何を分かり合ってるのよ親子二人で。仲間はずれとかよしてよ、おれはまだまだ不安なストレンジャーよ、手厚くケアしてってば。
「ダイジのために、いろいろ調達してくるって」いろいろ?「センサー靴とか、マルチ補聴器とか」
 近くに地球人向けのデバイスを扱う店があるらしい。千里耳は音もなく建物を滑り出ていった。ていうか、ここ、建物の中だよね? ああ、ホテルのロビーなのか。なあ、いま、どんなとこを歩いてんの? ていうか、どこに向かってんの? そういえば、人に会えた安心感で、何も考えずにほいほい手を引かれるままに着いて来ちゃったよ。もしこの二人が悪人で、おれを騙そうとしていたら……怖い疑いにゾッとする。
「ここはユクスの首都ヤーコプだよ。僕たちはちょうど、町の東端の宇宙港から、西端のこのホテルまで横断したところかな」
 えっ、町を横断した? うーん、確かに3−40分は歩いたとは思うけど、ここ首都でしょ? 小さすぎない? それともなに、横に短いのこの都市は。
「ううん、ユクスの町はどこも同じ、丸い形なんだ。首都だけは宇宙港があるから、ちょっと他の場所とは違うけどね」
 ああ、そういえば、あいつから聴いたことがあったな。ユクス人ってのは、あまり大きな都市を作らないんだ。大抵は人口1000人ほどの町が、ぽつ、ぽつと感覚を空けて並んでいる。一番大きな首都でも人口は3000人程度。でも、その3000人は一体どこへ消えた? 誰もいないのは宇宙港だけじゃなかった。町に入ってからも、おれはロケット以外の声を一度も聞いていない。あ、分かった。町ぐるみで集団かくれんぼとかしてるんでしょ。年イチのそういう儀礼みたいなやつ。よっし、じゃあ鬼はおれだな、ほらそこ、みーつけた!
 ……あー、降参降参。な、ロケット、教えてくれ。
「……僕もね、他の人を探してるんだよ」
 あれ、なに突然シリアスになっちゃってるの。あ、さっき「この星が黙る」とか言ってたのに関係あるやつ? 大体なによ、星が黙るって。一体何が起こってんのよ。
「言いたく、ない。言うと、本当になっちゃう気がするから」
 デジャ=ヴュ。いや、この場合はデジャ=アンタンデュ、既聴感、ってとこだろうか。あいつもよく、そんなことを言っていた。ユクスの文化は、声の文化。何かを声に出して言う、ということの意味が、地球とは異なる。だから、ユクス人は不用意に「殺す」とか「君を永遠に愛する」なんて言葉―音葉は発さない。もしそれを言ってしまえば、本当に相手を殺さなければ、あるいは何があろうと全人生をかけて愛さなければいけなくなる。ユクスから留学してきたあいつが、ダメ学生のおれを気に入ったのは、おれが言語哲学ってのを勉強してて、厳密な言葉の使い方にこだわっていたからだ。え? 今のおれの言葉遣いが全然厳密じゃない? は、は! ご存知の通り、人は変わる! ようし、ロケット、分かった。おれはもう何も聞かない。だからそんな悲しい顔、もとい声を出すな。
「うきゅーーーーぅ! うきゅきゅーーー!」
 うるさい。宇宙クジラうるさい。ねー、うるさいよねー。でも笑っちゃうよねーあの声。まあ、かわいいのは分かるし、キャラビジネスとかやったら売れるかも。地球で。あ、嘘ついちゃった。さっきはもうなーにも聞ーかないっ、って言ったけど、ひとつだけ聞かせて。いやなら答えなくてもいいから。ね、他の人がいなくなったのは分かったけど、お前と千里耳はどうして「いなくなら」ずにここにいるんだ? そうだ、これだけは聞いておく必要がある。何気なく口に出してから、おれは緊張に身をすくめた。この質問が、何か致命的な結論を引き出さないかと恐れて。
「ダイジ」ロケットの声から明らかな怒りが読み取れた。おれはごくり、とつばを飲み込む。やばい、これ地雷踏んだ?「お前、なんて言うのはやめてよ。ぼくにはロケットって名前があるんだから。ユクスではね、耳の前にいる相手の名前をちゃんと呼ばないのは、とっても失礼なんだよ」
 なんだよ、怒りポイントそこかよ。頼むからビビらせないで、この善良な宇宙の迷い子を。はいはい、ロケットロケットロケットロケット、これでいいでしょ、で、なんで?
「それはたぶん、僕が純粋なユクス人じゃないからだよ。ぼく、地球人とのハーフなんだ」
 うええー、驚愕の事実。うん? 待てよ。待てよ待てよ。うーん、ロジカル・ダイジ起動。初歩的な論理学の問題だ。純粋なユクス人はいなくなる。ロケットは地球人とのハーフ。千里耳はロケットの母親でいなくなってない。ここから導き出される結論はつまり。
「そっか、まだ言ってなかったね。千里耳も、ダイジと同じ、地球人だよ」

 今度はおれが口をつぐんだ。さあ、読者もとい聴き手のみなさま、伏線をたどりなおそうじゃないか。思い出して見れば、最初に会ったときから千里耳の様子はおかしかった。おれが名乗ったとき、何か戸惑いのようなものを感じとったのを覚えているが、あれは彼女の緊張だったに違いない。その後は「事情があって、話したくない」ときた。指摘するまでもなく怪しすぎるでしょ。そして千里耳は地球人。たとえばこんな可能性はどうか、彼女は、過去におれと地球で会っている。それを知られたくなくて、声を出さない。なあ、ロケット、千里耳はいつユクスに来たか、お前、知ってる? あ、ごめんまた「お前」って言っちゃった。
「気をつけてよね! えっと、良くは知らないんだ。でも、僕が産まれるより少し前だって」
 ユクスに来てから、お前のお父さんと知り合ったの?
「うん、そう」
 その後で千里耳が地球に戻ったってことは?
「ないよ」
 絶対?
「うん。地球って早くても往復一ヶ月はかかるんでしょ? 千里耳がそんなに長い間いなくなったことはない」
 ということは、ロケットが産まれる12年前……いや、妊娠出産を考えれば最低13年は前か。まだユクスとの交流は珍しい時期だ。恋人がユクス人だったこともあって、おれはその頃ユクス関連のニュースにアンテナを張ってた。少なくとも、身近な知り合いがユクスに行く、なんてことになれば気づかないはずがない。この線はないな。でも油断できねぇ、この星じゃなんにも見えないんだから、叙述トリック語り放題じゃんかね。あれ、これSFだと思ってたんだけど、まさかミステリ? ユクス人じゃないけど、こんな考えは声に出すのはやめとこう、現実になったらたまらない。なあロケット、今した質問の内容とか、千里耳には黙っててくれよな。
「いや、もう聞こえてると思うよ。今のダイジの音葉も含めて」
 うかつー! こうして、おれはユクス文化というやつを1つ学んだのである。壁どころか、あらゆるところに耳があると思うべきだ。日和っちまったおれは、当たり障りのない質問を重ねて千里耳を待った。
 戻ってきた彼女は、おれたちの会話について特に何も言わなかった。いや、もしかしたら超音波でロケットと何か話していたのかもしれない。おれは、センサーが付いているという靴に履き替え、頭には奇妙な装置を取り付けてもらった。顔の前に張り出した流線形のサンバイザーと、耳の後ろに広がるパラボラアンテナが、集音を高めると共に、音の定位をより厳密に捉える。にゅるり、と耳の中に入り込む細いファイバーは鼓膜に触れ、超音波振動を捉え、内耳と三半機関に満たされたリンパ液に干渉して、空間を把握する能力を向上させる。らしい。つけて見たけど、実際良くわからん。ていうか、むしろ聞こえなくなってないこれ?
「そりゃ、最初からうまくはいかないよ。それに、ダイジは、えっと、失明だっけ? その、視覚とかいうのが、四感の邪魔をしてるのをやめてから、そんなに経ってないんでしょ?」
 ユクス人らしいご意見で。視覚は邪魔者。なるほど。そういえば、千里耳も地球人なんでしょ?(と、何気なく本人に確認しておくぞ)やっぱり同じような装置つけてるの? 
「ダイジのより、ずっと小さいやつをね。でも、千里耳はすごいんだよ。その辺のユクス人よりもよっぽど耳が良いんだ」
 二つ名は伊達じゃないってことね。え? おれが宇宙港で叫んでたのを聞き分けたのも彼女だった? うわぁ、そりゃ感謝しなくっちゃいかんなあ。ほんと、助かりました。命の恩人ってやつね。ありがと。え? 照れてるって? いや、分かんないから。
「じゃあ、ダイジ。レッスンその1だよ。ここに立ってみて」
 ほほぅ。なるほど。足の裏に伝わってくる不思議な感覚。ユクスの道には色んな工夫がしてあって、表面のデコボコとか素材なんかで自分がどこを歩いているか、ある程度分かるようになってるらしい。おれが今はいてるセンサーつきブーツは、そうした地面の情報を増幅して、地球人の鈍感な足にも分かるよう伝えてくれる。なんかこう、矢印みたいなのを踏んでるような感じで、道からそれるとその矢印も斜めになる。慣れれば真っ直ぐ歩く助けにはなりそうだ。
「じゃあ、次は耳を澄ませて。聴くことに意識を集中するんだ」
 なんかロケット、慣れてない?
「僕じゃなくて、千里耳が教えてくれてるんだよ。千里耳は、ユクスに来た地球人のトレーナーなんだ」
 なるほどね。それでは、集中、集中っと。
 最初は、水の音だった。そんなに遠くない。小さな水滴がより大きな水の塊に当たって吸い込まれる。ずっと昔、あいつと一緒に紙の上になぞった奇妙な樹々。枝はお椀のような形をしていて、地面から空へと立ち昇る雨を溜めとけるようになってる。捕まえた、と思ったら音はもう洪水のように押し寄せてきた。やばっ気持ちわる、と耳を抑えようとした手は押しとどめられ、代わりに補聴器を動かしたり、ボタンを押したり、と調整してる様子が伝わってくる。不意に、パッと視界が開けるみたいに(って例えを全盲のおれがするのはおかしいけどな)音の世界がクリアになった。オーケストラのコンサートなんかにいって、目を閉じてじっと集中してると、段々と全部の楽器が別々に聞こえるようになる。ピアニッシモでそっと和音を付け加える第二ホルン、主旋律をなぞりながら、リズムを刻むマリンバ。デジカメの画素数がどんどん上がるように、音の分解能が上がっていき、頭の中に楽器の地図を作ることが出来るようになる。マエストロと呼ばれる偉大な指揮者は、100人編成のオーケストラの中で、たった一人の音程の乱れも聞き分ける。いわばそうした能力が、今のおれには可能になっていた。
 枝と葉に当たる沢山の水滴、その細かな音質と反響の違いから、一本の木が立ち上がる。高さは6-7メートルほどだろう。キノコみたいな変な形の傘構造。地面に近い辺りの枝はたぶん刈り込まれている? 可視光線は届かなくても、恒星の熱を求めてねじくれながら空へと伸びている。
「次、レッスン2だ」
 レッスン2だ、レッスン2だ、レッスン2だ、すぐそばにいるはずのロケットの声が、数十メートル先からこだまを伴って聞こえる。かちり、補聴器のボタンが押されると、再び世界が一変した。さっき「聴いて」いた一本の木、それが無数に並んでいるのが分かる。桁違いに増えた情報にめまい、音に酔う――
 反射みたいに、まぶたをぎゅっと閉じようとする。視覚は関係ないはずなのに、変化があった。音が絞り込まれ、刈り込まれて、平坦化、情報量が落ちる。耳の奥に入り込んだファイバーが疑似的に「耳蓋」になっていたのだ。一つ一つの木の輪郭はぼやける。その代わりにより広い空間が見え――いや、「聞こえて」きた。さっきまでただの暗黒だったこの場所が、今は傘ツリーの並木道と分かる。試しに足を踏み出して、一番近くの木に触れてみる。位置がずれていて少し戸惑ったが、おれの手は地球のものよりずっと柔らかな樹皮に触れる。ざらざらした表面には薄い毛のような構造があって、これも水を溜めていることが分かる。足元から昇る雨が弱まりはじめた。さっきおれが立っていたのは、ホテルの入り口の軒先だった。まだぼんやりしているが、音の反響から、建物の壁もうっすらと感じとれる。道路の幅は広く、15メートルほどだろうか。逆側にも直線上の並木、その向こうに少なくとも3階建てくらいの高い壁が「聞こえ」る。
 雨が止んで、水音は途絶えたはずなのに、おれにはまだ並木が聞こえている。なぜだ? まぶたの筋肉を緩めると、耳蓋も開いて、音の分解能が上がる。ぽーん、ぽーん、と丸みのある音が定期的に鳴らされて、それが辺りに跳ね返り、風景を聞こえさせている。地上3メートルほどの位置に浮かんで……いや、これは柱の上にスピーカーが取り付けられているんだな。地球の街灯みたいなものらしい。耳蓋を緩めたり締めたり、ちょうどいい場所を見つけて、ゆっくりと辺りを「聞き回す」と、風景は一変していた。
「どう? ダイジ。一人で歩けそう?」
 返事をする代わりに、おれは並木道を少し歩いてみる。足のセンサーは、このスーパー聴覚と一緒になることで精度を増す。いままで気づかなかったけど、靴のつま先には小さな金属板が埋まってて、歩くたびに反響で空間の把握を助けてくれる。並木に沿って少し歩き、くるりとターンをして戻る途中、おれは息をのむ。ロケットと千里耳、二人の輪郭がはっきり見えている! 驚きと感動、二人の姿に集中しすぎたせいで、最後にちょっとつまづいちまって恰好がつかない。ロケットは12歳にしては背が高い。千里耳とそんなに変わらないみたいだ。
「すごいねえ、ダイジ。ダイジには聞く才能があるみたいだ。最初からこんなに歩ける人は珍しいって千里耳も言ってるよ」
 うんうん、と彼女が頷くのが聞こえた。そうか、おれ、意外な才能。そういえば、とまた既聴感。あの静かな哲学研究室で、いつかあいつ―ユクス人のおれの元恋人―と、聞く練習をしたのだった。
(レッスンその1だよ、ダイジ)
 記憶の奥底から、あいつの声が聞こえた気がした。いや、待て、これはマジで聞こえてないか? 分解能を最大まで上げれば、どれだけ遠くまでも聞こえる気がする。おれは自分を起点に、ゆっくり放射状に音をとらえながら、外側へ、外側へと意識を飛ばす。街路の一角から町全体へ。ロケットが言った通り、人が動く音はしない。町の外側、少し行った場所に数人の人間が聞こえる。でも、あいつの声は無い。町に隣接する宇宙港は今朝までおれのいた場所。《ようこそ惑星ユクスへ! 入星手続きは……》既になつかしいあのテキトーなアナウンスも捉えた。もっと遠く。どこだ、確かにあいつの声だった。いや、あいつは死んだんだ。でも、聞こえたんだ! どこだ、もっと遠く、もっと集中して、この星の全部を聴けば、どこかに! あいつが!
「うきゅいーーーー!!! きゅぅぅいーーーー!」
 その哀しい声に、おれの胸が張り裂けた。おれはようやく気付いた。まじラブリーだね、なんて思ってた宇宙クジラの鳴き声、その一つ一つが、絶望の、断末魔の、叫び声だったのだ。
「ダイジ、どうしたの!? 心拍数がいきなり……」
 大丈夫だ。息を整えて答える。おれは全然大丈夫だ。な、ほら、ぴょんぴょん。元気でしょ? なに心配してるんだよ。さあ、行こうぜ。急いでたんだろ? あれ、そういえばどこ行くんだっけ? ロケットは人探してるって言ってたっけ? さっき聞いたけどさ、もうこの町には誰もいないよ。あ、もう知ってた?
「町の外に、僕たちの仲間がいるんだ」
 ああ、それならさっきちょっと「聞いた」気がする。それで、そいつらと合流して、それから?
「ユクスを脱出して、地球に行く。星が完全に黙ってしまう前に。僕のロケットで」
 へぇー、なるほど。ロケットくんのロケットで。へー。え?

 町の外、小さな広場に着くまでの短い時間で、おれはロケットくんの計画を教えてもらった。計画つっても、サーチアンドレスキュー、それだけ。おれのように、まだユクスに残ってる人たちを探して集め、ロケットくんが自前で作ったという宇宙ロケットで地球に向かう。大丈夫? ちゃんと飛ぶのそれ? まあ、ほかに宇宙船は無いそうだし、そいつに頼るしかないらしい。オッケー、信じよう。どうせ事故で一度はあきらめた人生だ! ほんの僅かでも無いより希望! 補聴器でユクス流超聴覚を手に入れたせいか、おれの生来の楽観主義が戻ってきた感じ。そいじゃあみなさま、おれの故郷である地球へれっつふらーい! ふぁーらうぇーーーい! ってな具合に仲間たちが集まる広場に登場キメたおれだったけど、そこで聞いたのは集団自殺の地獄絵図、訂正、地獄音声だった。

 まあ、とにかく死体。死体がそこらじゅうに転がってる。補聴器パワーでおれにはそれがはっきりと分かっちゃう。
「うきゅきゅぅーーーー!」
 うるさい。宇宙クジラの声が響くと、それを合図に、まだ生きていたやつが数人、死体畑へと歩いていくのが聞こえる。おれは補聴器の分解能を上げて、そいつらをじっと聞き詰める。たぶんだけど、その額を涙が空へと伝ってる。鼻をすする音も聞こえる。死体をごそごそやって、なにかを拾い上げた。一つはナイフ。もう一つは銃。ほかにも凶器、そんな感じ。止めるヒマなんてなかった。ざっくし。刃の短いナイフが的確に心臓を貫いたのが分かる。ユクス人は、(今のおれでも集中すれば)自分の内臓の位置や肋骨の配置も聞き分けることが出来るんだろう。ばたり、と彼らが倒れて、なるほど、この転がってる沢山の身体は、こんな感じで「黙って」いったんだろうな、とおれはどこか冷めた頭で考えている。なんかもう、現実感ないんだよ。なんなの、これ? まあね、分かりますよ、ロケットくんが言ってた、いや、言うまいとしてた、言ったら現実になっちゃうって怖がってた「この星が黙りかけてる」って、つまりこれのことでしょ。
「きゅきゅーーーい! きゅーーい!」
 再び鳴き声。足音。ナイフと銃。さらなる死体。もう、残っている音影は僅かだった。
「ただいま。『魔術師』、『天使』、それから『船長』。生き残ってる人を聞きつけて来たよ。ダイジって言うんだって。あのね、ダイジは地球人なんだよ……」
 ロケットの音葉は平坦で、目の前で起きていることを完全に無視しているようだった。おれの胸に強い怒りが湧いてきた。
「よろしく、ダイジ。『魔術師』と呼ばれています。別に魔法は使えないですけど」
「よろしくね、ダイジくん。あたしは『天使』。少しなら、飛べるわよ」
「ダイジ、よろしく頼む。私は『船長』だ。君は、グライダーにはもう乗ったことがあるかね」
 おれは首を横に振る。見えていないことを思い出し、慌てて「いいや」と答える。でも、動作だけでもちゃんと通じていたみたいだ。
「残ったのは私たちだけみたいですね。さあ、出発しましょう」
「そうね、早くこの場所を離れたほうがいい」
「ああ。グライダーに乗ってくれ」
「うん。ダイジ、グライダーの場所、分かる? ちょっとバランスとりづらいから、気を付けなきゃだめだよ」
 おいおいおいおい。なに、なんなのこれ。お前たち、こんなのおかしいでしょ。ちょーーーっと待った。おれは感じるままに動く。おれは怒りを抑えられない。おれはそんな奴じゃなかった。なんだって上の空で、言語哲学、分析哲学の思考実験をこねくり回し、世の中のことなんてどうでもよかった。でも、あいつが死んで、少し変わった。それから、光を失って、もっと変わったのかもしれない。おれは直情的なネオダイジだ。直情的に、一番近くにいた魔術師をどつく。それから天使のえりを引っ掴む。検討はずれてむにゅり、おっぱいに触っちゃって、でもそんなんじゃ怒りは収まらなくて、べらべらしゃべる。
 ねえ、おかしいでしょ、この状況。何なのよ。説明しなよ。説明するより前にさ、ほら、嘆き悲しむとか、怒り狂うとか、なんていうの、人間らしく? 目の前で同胞たちがバタバタ倒れて死んでるのに、「さあ行こうか」って何なのよそれ。人間性うっちゃってるの? ねえ、人! どこかに人はいないの? 半分くらいでもいいから、人! ねえ、ここには子どももいるんだよ。12歳の子がさ! 死ぬとか生きるとか、そういうことに関わっちゃいけないんだよ! 大人でしょあんたたち! おれの親父はね、ガンコ野郎だったけど、柔道場をやっててさ! 正義感が強くて、子どもが苦しんでるのをみれば、おせっかいにも関係ねー家庭に首突っ込んで解決してたよ! 厳しい人だったけど、子どもはみんな幸せに生きるべきだって、筋通した人だったよ、ああいうのを人間っていうんだろうが! それともなんだ、ユクス人ってのはみんな、冷たくて、機械みたいな連中なのか!?
「もうやめてよダイジ!」
 天使から手を離して、最後には船長に突っかかっていたおれ。胴のあたりにロケットがタックルをかましてきた。
の言う通りだよ、ダイジくん」天使の声は透き通ってて、きれいで、おれのかすれたダミ声みたいに震えてはいない。年齢はきっとまだ20代の前半だ。「でも、ユクス人が冷徹なんじゃないよ。ここに残ってる人たちがそうってだけ。自然淘汰ってやつかな」
「ここにいるのは」魔術師が後を引き継ぐ。落ち着いた声。歳はきっと30代半ば、おれと同じくらいだろう。「他の人々とつながってこなかった、孤独な連中。ユクス人というのは、共感能力が非常に高いんです。ダイジの音葉を借りるなら、人間らし過ぎる(ルビ:傍点)んですね。でも、私たちは、そうじゃない。一人が好きで、あちこち旅を続けてきた変わり者。地球人は、むしろ私たちに近いと聞きましたよ。同胞たちが毎日戦争で死んでいるというのに、誰もそんなこと気にせずにいるって。違いましたか?」
 ああ、たぶん、その通りなんだろう。でもな、でも、こんな風に、耳の前で仲間が死んで、どうして平気でいられるんだ!?
「それはね、自分が死なないために、それから他の誰かを殺さないためにだよ!」
 突然、船長が大きな声を上げた。太く、少しかすれたバリトン。きっと50代はこえてる。
「普段は誰も意識なんてしない。でも、気づかないところに境界線があるんだ。コップになみなみと満たされた水のように、壺の中に蓄えられたひし豆のように、それらは溜められている間は何の問題もない。むしろ熟れた果実が籠を満たす様子は喜ばしくさえ感じる」
 なぜか、みんなが息を呑む音が聞こえた。
「船長、あなた……ねえ、私と踊る?」天使が奇妙なことを言い、彼は首を振る。「じゃあ、カヌーに乗るかい?」魔術師が続け、再び首が横に動く。おれには何のことだか分からない。
「いいんだ、続けさせてくれ。ダイジ、この容器がいっぱいになると、どうなる? そうだ、溢れてしまう。恐ろしいのは、一度境界を超えればもうそれは戻らないということだ。たった一滴の水、たった一粒のひし豆、たった一つの果実……あるいはただ一人の人間、ただのひとこと、1ソーンの小さな音。それが境界を越えたとき、その世界は一変する。分かるかい。私たちはね、ただその器が人より少し大きいだけなんだ。それはね、他の人々もきっとそうなんだ。だから」
 船長が自分の胸ポケットに手を伸ばした。何か小さなものがそこにあるのが聞こえる。
「いいかい、これはダイジのせいじゃないよ」
 破裂音。紙風船が割れるときのことを思い出した。どう、っと倒れる船長の身体。触れて確かめるまでもなく、彼の心臓に小さなトンネルが出来て、急激に鼓動が小さくなっていくのが聞こえた。


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