ゲンロンSF創作講座 便乗小説#2 「ダークフォトンの水底で」(5)

5 恋は盲目

 雨が降っていた。こんなことは、惑星ユクスでは初めてのことだった。「空が泣いているよ」「いよいよおしまいだね」ちょっとロマンチックにつぶやいたのは、どこかの山奥で暮らしていた仲良し五人組。おれたちを除けばユクス唯一の生き残りだ。町から離れてたから大勢の嘆きに触れずにすんでたんだな。でももうおしまい。さよならおやすみ、と最期も仲良く睡眠薬の一気飲み。どうかよい夢を。
「きゅきゅーーーーーう! きゅーーーーい!」
 ああ、うるさい。ひっきりなしに聞こえる悲鳴の中を走るのは、おれ、ロケット、千里耳。最初は沢山、一気に減って5人、おれが増えて6人になったけど、船長と魔術師と天使をマイナス、結局3人しか残らなかった。ミイラ取りがミイラってわけで笑えない。
「でも、ダイジは助けられたんだから、僕はそれで良かったって思うんだ」
 と、ロケット。泣かせてくれるね。いやそんな場合じゃないでしょう、とばかりに千里耳がおれの腕を引く。どしゃん。大きな水の塊が元いた場所に落下する。あっぶね。宇宙クジラの死骸が落ちてきたら危ないんじゃないかって? そんなことにはならないんだ。密度スカスカの空のミズん中を泳げるように、宇宙クジラってのはものすごく軽い体を持った生物らしい。そんなわけで、死んだあとも、地上に降ってくる前にバラバラのぼろぼろにほどけちゃって、宇宙スノーのご誕生、となる。
 ここまでのあらすじ。おれたちは、ロケットくんの作ったロケット(ややこしいぞ)に乗り込もうと、いよいよ彼らの故郷の町までやってきた。ところがどうしたことか、ロケット・シティには得体のしれない生物が徘徊してる。どしん、どしんと歩き回るその輪郭は、聞くからに恐竜!? ほかにも三つ首の犬とか、ミノタウロスみたいなのも聞こえる。おいおい、ファンタジーになってない? カテゴリーエラーじゃないのこれ。どうなってんだよ!
「僕だって分からないよ。こんな生き物なんて聞いたことないし、ユクスのどこかにいたって話も知らない」
 解説もなしかよ。心当たりがあるとすれば、あの天使のダンス。その最高潮で、病人たちは全く異なる姿へとメタモルフォーゼしてみせた……と思う。たぶん。少なくともおれにはそう聞こえた。じゃあ、これも人間のなれの果てなのか? それが分かったところで助かるわけじゃない。怪物が追っかけて来るのなら、考えるより先に逃走だろ! そんなわけで、おれたちは町中を逃げ回っているのだ。まずいことに、ユクスの町は非常にシンプルに作られている。逃げ込める小道はほとんどなくて、おれたちはあっという間に四方を囲まれてしまうのだった。え? これバッドエンドの流れじゃないの?
 町の中心に続く大通り。マリンスノーを含んだ大粒の雨が降り注ぎ、辺りの輪郭がうまく聞き取れない。怪物たちの動きは、むしろ足元から振動で伝わってくる。騒ぎを聞きつけたのか、続々とと得体のしれないフォルムをした生き物が登場してくる。6枚の翼を持つ悪魔、角を持つ8本脚の馬、牙を打ち鳴らす獣の上半身に這いずる大蛇の下半身、エトセトラ、エトセトラ。えっとすいませーん、ハロウィーンはまだ先だとおもうんですけどねー! 返事の代わりに唸り声、舌なめずりにカギづめをこすり合わせる音。いまヨダレが石畳に落ちた音がしたぞ? どうやら友好的な連中じゃなさそうだ。十字路の真ん中、四方からおれたちを囲む輪は次第に、次第に狭まっていき、やつらの鼻息が肌で感じられる距離にまで近づく。ロケットはおれたちの手を力いっぱい握りしめた。
「うきゅーーーーーきゅーーーー!」
 ひときわ大きく宇宙クジラが鳴いた。化け物たちはそれを気にする様子もない。やっぱ人間じゃないな、こいつら。
「ダイジ、教えて。この世界に、悪魔はいる?」
 耳元でそうささやかれたとき、おれは一足飛びに天国に来ちまったのかと錯覚した。ずっとその声だけを待っていたんだから。
 そんなものは存在しない。
 途端に、ぱたたた。小さな羽音を立ててコウモリが飛び上がり、代わりに悪魔の巨体はもう聞こえなくなっていた。
「ユニコーンは? キメラは? ケルベロスは? ミノタウロスは?」
 それらは全て、人間の想像力の産物だ。内面的な恐れや自然の形象、自分たちがコントロールできなかったものを象徴して、把握可能なものにしようとするブリコラージュ的操作だ。暗闇の中で聞いた物音を恐怖が増幅し歪めた心象風景だ。そんなものは、実際に触れてしまえば……
 おれは、震える手を伸ばし、2メートルはありそうな巨大な3ッ首の犬に触れる。聞こえていた輪郭を指がすり抜け、指が到達したのはアイリッシュ・セッター犬のふわっふわの垂れ耳だった。
「ゥワン! ワン!」「ワォン!」「ワウ!」
 とまあ、現れた三匹は元気に吠えて、戸惑う怪物どもの足の間をすり抜けていくと、雨宿りがてら近くのカフェの軒先にうずくまった。おれはもうすっかり落ち着いてしまい、いないいない、怪物なんていない、おばけなんてないさ、おばけなんてうそさ、と歌いだす余裕もあって、怪鳥ガルーダをちっちゃなツバメに。スレイプニルをポニーに、ヤマタノオロチをマダラヘビに、幽霊を枯れ尾花に、モスラをシャク蛾に、恐竜をイモリに、次々と解体していった。
「一体、なんだったの?」
 おれに聞くなよ、ロケット。ただ、怪物どもの輪郭をすり抜けたとき、宇宙マリンスノーの塊が散ったのが聞こえた。この動物どもは、もう黙ったユクス人の遺したイメージと反応したとか、まあそんなところだろう。だが、そんなことより。
 さっき至近距離でささやかれた千里耳の声が、おれの耳の中でうわんうわん、何度もリピート再生されていた。ユクスの超聴覚を手に入れたおれには完璧に分かってしまう。この声はあいつ以外でありえないのだと。でも、そんなはずはないんだ。悪魔がいないように、幽霊もいない。そしてあいつは、確かに。「死んだはず」というその音葉をすんでのところで飲み込んだ。もし口にしてしまえば、目の前のこの身体も崩れてしまいそうだったから。
「ばれちゃったかー」
 何も言わなくても、押し黙ったおれの様子で気付いちまったらしい。あいつはやっぱり明るいあいつの声で話す。おれは早くもめちゃくちゃに泣いてる。
「ダイジ、ひどいよね。私はダイジが宇宙港で叫んでるのを聞いて、一耳でそうだってわかったのにさ」
 そりゃお前がしゃべらないようにしてたからだろ。おれはそう言いたいのだが、涙と鼻水でぐっちゃぐちゃ、意味のある音にならない。
「うそだよ。ごめんね。でも、もし気付かれちゃったら、私も分析されちゃったかもしれないから」
 雨が勢いを増してきた。おれたちは、ロケットと千里耳の家に向かう。町の中央の広場を横切り、二つ目の角を左へ。その家は、無個性なユクスの建物とは少しだけ違い、空に伸びた庭の木々、ゆるくカーブした壁、アーチ形の出窓、どれも地球を思い出させた。部屋の中は、あいつの好きだった音や香りにあふれていた。貝殻のドアチャイムを聞いて、おれはまた息ができないほどに泣きじゃくる。
 アカリ、なあ、もしかしてここは、死後の世界なのか? おれは黄泉から、お前を取り戻すために来たんじゃないのか。オルフェウス伝説、イザナギ伝説。いつか聞いたオカルト宇宙論を思い出す。観測不可能なダークマターやダークエネルギーのヴェールが隠しているのは、死者の魂やすらぐ場所である。アカリは笑う。おれの愛するアカリの声で。
「幽霊って意味じゃ、そうかもね。観測と存在がイコールになってるんだから。でもね、ダイジ。先に謝っておくけど、私はあなたの知ってる私じゃないの。ダイジが私の知ってるダイジじゃないようにね。ユクスは、地球の双子星。そう認識されたとき、もう一組の私たちが生まれた……いいえ、はじめから生まれていたことになった。そして、私は――地球人の朱里1はユクスへ行き、ユクス人のアカリ2は地球へと飛んだ」
 そうして、二人はそれぞれ、大事1とダイジ2に出会った。
「私と結ばれたダイジは、ユクス人で、12年前に黙ってしまったの」
 おれの知るアカリが死んだのも、12年前だった。
「彼はたぶん、ユクス人で初めて、宇宙クジラの鳴き声を聞いて自殺した人。今のこの状況を、ずっと前から予測してたんだよね。あまりに人を愛しすぎて、愛されすぎて、その愛が未来にまで飛んでったから、彼のコップはすぐに溢れちゃったんだ」
 アカリが死んだ本当の理由は、紫外線に弱くてかかった皮膚がんのせいなんかじゃない。地球に悪意が満ち溢れてたせいだ。いくら耳を閉じていても、罵り合う声は絶えなかった。あいつは空気中を飛び交う電波のメッセージを、通話記録をキャッチした。テロとヘイトと貧困と、無関心と無知と無価値で、地球はもう悪意の塊みたいな星になっていた。誰もが誰もを憎んでいた。
「ユクスはその間、愛の星になっていった。誰もがお互いを理解し、愛し、慈しみ、尊敬しようとした。他者は自分の延長であるみたいに感じられるようになった。だから、愛する心が強くなりすぎてしまったの」
 でも、アカリ。お前はアカリなんだ。おれがそう信じるだけで、そう呼ぶだけで、十分じゃないか。そこに分析なんて関係ないだろう。水1=H2Oと、ミズ2=XYZ。パットナムは意味が世界の外側にあると論じた。けれど、その外在的な世界が崩れてしまったとしたら、二つの違いは意味をなくす。ここにいるのは、もうおれたちだけだ。ミズ2を分析するように……
「私の名前を呼んで、私を分析して、あなたのアカリに変えてしまう?」
 おれはひるんだ。おれは迷った。だがおれはもう知っていた。おれはもうこの朱里1がおれのアカリ2ではないことを、納得してしまっていた。それでも、アカリ、あいつでいてほしい。少しくらいは、半分くらいは。そうでなければ、おれはお前に、謝ることが出来ない。
「謝る?」
 そうだ! おれはヒトミを、お前とおれの娘を守ってやれなかった。ごめん、アカリ。おれはあの子を、幸せにしてやれなかった。おれは、あの子を救ってやれなかった。お前と約束したのに、誓ったのに、おれはそれを果たせなかった。あいつが命と引き換えに産んでくれたのに。あの子の耳は母親のように聞こえすぎたし、見えすぎる眼まで持っていた。ヒトミは生まれたときから、ずっと悪意の言葉を浴び続けていた! おれが愛そうとすればするほどに、あの子は悲しみであふれる世界とのギャップに余計に苦しんだ。目を開けば絶望だった。耳を澄ませば虐殺だった。もっと早くユクスに連れていけば良かった。気づいたときにはもう遅くて、電波も音も遮断する部屋から一歩も出られなくなってた。12歳の誕生日、おれがプレゼントを買いに出かけている間に、あの子は自分の家に火をつけた。あの子はどんな気持ちでそうしたのか。あの子はいつもどんな気持ちでいたのか。おれを愛しすぎるほどに愛していたのか、世界を憎みすぎるほどに憎んでいたのか、おれには分からなかった。おれには分析することしか出来ないんだから。おれは言葉に出来ることでしかあの子に触れられないのだから。「愛している」という言葉も概念も、おれは分析しつくしてしまうのだから。おれは火の中に飛び込んだ。手から落ちた誕生日プレゼントのレインスティックが地面に当たって砕ける悲しい音がした。それもあの子は聞いていたのだろうか。玄関を開けて階段をのぼりながら、おれはおれが焼ける音を聞いていた。あの子もそれを聞いただろうか! 奥の部屋をこじ開けたとき、猛烈な炎が噴き出してきて、おれは光を失った。
 とめどなく流れる涙。右目をアカリが、左目をロケットがぬぐおうとしてくれた。ロケットはおれの顔に触れるとき、びくり、一度手を止めた。おれの顔は焼けただれ、ドロドロに溶けて歪んだ飴細工のようになっていたから。
 手探りで見つけ出した小さな身体を抱いて、おれはそこで、ヒトミと一緒に死ぬんだと思った。覚悟が決まったら不思議と心は落ち着いていた。けれど、おれは叫ばずにはいられなかった。おれは声の限りに叫んだ。口の中に火の粉が舞い込んで、酸素が薄くて、意識は朦朧としながら、それでも叫び続けたんだ!
「聞こえたよ」
 アカリが、唐突に口を開いた。
「半年前、ユクスの空に悲鳴が響き渡った。あれはダイジの声だった。その日、最初の宇宙クジラが死んだの」

愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。
 ―中原中也「春日狂想」

 詩人中原中也は、息子、文也の死後まもなくこの詩を書き、自分自身も一年を待たずに病死する。もしも、悲しみで死ぬことが出来るのならば! 心の痛みがダイレクトに身体に対し致命傷をもたらす、そのような機関が人間に組み込まれていないことは、愛を説く全ての神の誤謬であると思える。いや、それが組み込まれた種はかつて存在したが、この物語のユクス人のように絶滅したのだろうか。オイディプス王はその意志によって針を目に突き刺したのではなく、運命によって既に盲目となっていたのを、身体がただ後を追っただけなのではないか。ジュリエットは毒薬を「命の妙薬」と呼び、そして剣を突き立てる自らの胸を「鞘」であると論じた。あるいは「明治の精神」に殉死した夏目漱石の『こころ』に登場する「先生」はどうだろうか。これらの行為を「自殺」と呼ぶことにためらいを感じるのはなぜだろうか。その行為は、彼ら/彼女らの決断や意志を超えた何かが引き起こしているように思えないだろうか。
 現実的な殉死、後追い自殺においては、インドのサティー(寡婦の焼身自殺)をはじめ、文化的・社会的な要素を引き入れなければならないし、それらを排することなど許されないだろう。どれほど純粋な動機であったとしても(例えば、永遠を誓った恋人を喪い、センチメンタルな後追い自殺を試みる)今や精神分析やら、「不適切」なメディアの悪影響とやらが自由意志を解体しにかかる。スターやアイドルの後追い程度では分析を退ける盾には不十分で、聖性や物語性の高い運命が不可欠だ。寺山修司は、自殺を「事物の充足や価値の代替では避けられない不条理な死」と定義し、その実行にはライセンスを与えるべし、とした。
 このことを体感するため、あなたが文化人類学者として、この奇妙な惑星ユクスに降り立ったと仮定してみよう。あなたはある町を見て(あるいは聴いて)戦慄する。並木の一つ一つに首吊り死体がぶらさがり、家の中には服毒、ピストル、焼身、切腹と自殺ののオンパレード。あなたは隣り町へと逃げ出し、そこでのインタビューの結果、大量自殺の原因が一人の赤ん坊の可哀想な事故死だったことを知る。(それほど訓練を受けておらず、まだ自文化を他者へ押し付けがちな人類学者である)あなたはこう言うだろう。
「あなた方はおかしい、狂っている。いくら愛するものが死んだところで、自分が死ねば、さらに多くの人々の苦しみを増すだけではないか。そんなことは人間のすることではない。自殺を法律で禁止すべきだ」
 彼らはむしろ、怯えと嫌悪の視線を向けるだろう
「何を言っているんですか。愛するものが死んだというのに、それでもまだ生き続けていられるなんて、それではまるで心をもたないゾンビのようではありませんか。あなたがたは自分を人間であると言う。しかし―失礼ですが―あなたがたには本当に意志というものがおありなのですか?」
 ルソーは自然状態における人類の本質を、「自己保存」と「憐れみ」の2つにあると論じた。レヴィ=ストロースは、アマゾン深くで出会ったある人々の中に、実際にそれを見出したと書いている。当然ながら、自己保存欲求は他者への憐れみに優越する。他者の生を自己のそれより必ず優先する人格など、フィクションの世界であれば「正義の味方」あるいは「英雄」としてもてはやされるかもしれないが、現実においては狂人に他ならないだろう。ただ、このルソーの「憐れみ」を説明するような「融即」という社会理論もある。人類学者レヴィ=ブリュルが提示したこの理論において、人間は自分自身をトーテム動物と同一化し、存在が融け合っているような認識を持つ。タンバイアはこの理論を拡張し、融即が現代社会の人間にも当てはまると論じた。例えばヒッピー・ムーブメントや、ラディカルな環境保護運動の心情にも、自分以外のものと自身が融合する感覚が基盤にあると説明してみせた。現在であれば、ストーカー犯罪もそこに加わるだろう。
 ユクスの人々とは、洗練されきった「融即」の思考様式を持つ人々なのだ。他者の行動の模倣を促すミラー・ニューロンは視覚に多くを負う。生まれつき光を知らないユクス人たちは、ミラー・ニューロンの未発達と引き換えに、他者の感情の模倣を促す、いわばピティ・ニューロンを発達させた。発達した聴覚は、他者の身体の微細な変化までを鋭敏に聴き取り、その痛み、悲しみを自身へとフィードバックする。結果、万人が万人に対してロミオージュリエット的共感を得ることとなった。
 ユクスの例が極端なものだとしても、「愛」という概念にはこのような過剰な他者志向が構造的に備わっている。そう示したのが、大澤真幸の「恋愛の不可能性について」という文章で、愛することのパラドックスを、言語哲学という意外なアプローチ方法を用いて語ったものだ。最初に引用される『オープニング・ナイト』という映画の中で、「私は私ではない」という一つのセリフが、登場人物の愛を回復させる転換点になる。
 「私」という自己は、要素の集合によって還元することが出来ない。「私は14歳だ」「私は中学生だ」「私は病気だ」……と説明を重ねても、それを「私の感じている私」という自己の意識と交換することは出来ない。人間について言えば、全体は部分の総和とイコールにはなることはない。
 愛についても同じ構造が見られる。思考実験として、サンドラとウォルターという一組のカップルを想定しよう。ウォルターがどれだけ彼女に「愛しているよ」と告げたとしても、サンドラは「本当に私を愛してるの?」という不安から解放されない。ウォルターは彼女を愛する理由を次々に挙げ、さらに様々な行動を示すのだが、「愛する」ということはこれらの言明、行動を足し合わせたものに還元することが出来ない。そこで、愛には「唯一性」つまり他と比較できないような性質――「あなたがあなただから愛している」という、分析を超えた理由が必要となる。しかし、それを証明するためには、どうしても代替可能性、すなわち「もしもキャロルを愛そうとしてもだめで、もしもアンジェラを愛そうとしてもだめで、あなた、サンドラでなければ」という仮想が必要になってしまう。愛の対象として「選ばれた」という結果が必要なのに、「選んだ」という原因があってはならない、というパラドックスに陥ってしまう。
 大澤は、議論の途中であのパットナムの「双子の地球の水」の思考実験を引用する。パットナムの議論は、二つの惑星の人間が、同じように「水」と発話したとき、それらの性質がどれだけ似通って見えたとしても、その語の「意味」は、人々を取り巻く世界、社会、知識体系によって変化してしまう、というものだった。大澤の議論は、ここから一段階上、メタの視点に立つ。二つの発話の意味は、その両方を観測する他者がいて、はじめて異なって見える。その他者とは、社会、あるいはこの議論を読む「読者」と言い換えてもよいだろう。パットナムの結論を思い出そう。「要するに、意味は頭の中にない」のであれば、それは外側、他者の中にある。同様に、愛もまた頭の中にはなく、それを観測する他者―愛するあなた―の側にある。愛するという行動、愛されるという体験の中では、愛の信念を持つ「私」ではなく、観測者である相手に意味の決定権が委ねられる。

愛の関係においては、指示の究極的な帰属点は、私(自己)であると同時にあなた(他者)でもある。
愛においては、「私」の中心としての機能が、他者に奪われてしまうのだ。
愛においては、私がまさに私であることの根拠となるような働き――宇宙の究極の中心としての働き――を、異和的な身体、つまり他者(も)が担う。
 ―大澤真幸「恋愛の不可能性について」

 そうして、愛の究極系とは、私とあなたの意識が、分離しながら同時に融合しているような奇妙な状態となる。融合していなければ、愛が真実であるか観測できない。分離していなければ愛の対象を見失う。

≪あなたでもある私があなたとして私を愛している≫
≪と同時に、私でもあるあなたが私としてあなたを愛している≫

 ユクス人にとっては当たり前の、この融合―分離の往復だが、地球においては容易ではない。特に、異なる二つの宇宙の外縁部さながら、浸食され得ない「個人」の観念が発達した近代以降においては。論文のタイトルにある「不可能性」とは、愛は決して完成へはたどり着かず、常に他者―それもまた一個の宇宙のように独立している―の他者性に直面してしまうことを示している。それでも、壮大なSF叙事詩『ハイペリオン』シリーズで「宇宙の主要エネルギー」と呼ばれた愛の力は、人間を無限に前へと進ませる。
 愛を掲げ、不可能な他者へと漸近線を描きながら接近するとき、融即によって相手を見失わないために、逆説的な「あなたは私ではないのですね?」という否定文による確認が必要となる。否定神学ならぬ、この「否定あなた学」によって、愛する他者は、決して要素には還元出来ない、かけがえのない存在として、いつも私たちの前に現れるのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?