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「おさめ字」

 父がいて祖父がいて、その先にも書の道に仕える人たちがいた。左利きの僕は、物心つく前に右手で字を書くように変えられた。
 実家の二階が教室だった。畳敷きの広い部屋に専用の長机が並ぶ。大人は平日の夜、子供は土日の午後、習いに来る。僕も祖父から指導を受ける。順調なのははじめだけだった。級の数が減っていき、初段に到達する。それからずっと足踏みが続いた。ほかの子供たちはどんどん進んでいく。
二年以上かかって三段になったところで悟った。祖父や父と違って僕には書の才能がない。そもそも左利きだったのだから仕方がない。自分を慰めるようにそう思いこんできた。
 
 父は高校で書道を教えていた。祖父も元々は教師だった。僕は先生になりたくなかったし、書道も止めたかった。小学校卒業後、その思いはますます募っていった。祖父も父も僕の字を褒めてくれなかった。
 十四歳の誕生日、高らかに宣言した。もう書道を止めます。父は僕を殴った。家族の誰も止めなかった。そのころから祖父は心臓の病気で弱り始めていた。僕はすぐにでも家を出たかった。町のあらゆるものから離れたかった。
 
 盆地特有の蒸し暑さは九月に入ってもその余韻を漂わせている。数日もすれば、町中の人たちがおさめ字を受け取りにわが家までやって来る。半紙をさらに半分にカットしたサイズのものだ。近隣の住人たちは持ち帰り、玄関の扉に貼っておく。
 四週目のどこかで「  」がやって来る。おさめ字を貼っていない家から誰かが連れ去られる。姿が消えたら二度と戻ってくることはない。それを防ぐお守りのようなものらしい。
 父や祖父、その遥か先の代から書に携わってきたのはこのためだ。こうやって町を守ってきた。だから僕にもそれを求められる。血統がどこまで関係あるのか、詳しいことはわからない。祖父は二十歳そこそこで婿養子としてこの家へやって来た。祖母や母が書いたものはおさめ字として効果がなかった。性別に問題があるわけでもない。祖父の前には高祖母が書き手だった。
 今では僕もおさめ字を書いている。もちろん、右手で筆を持つ。
 
 役所にはおさめ字専門の人もいる。市民生活部と聞いているけれど、担当する課の名称までは知らない。職員のヨシナさんは定期的にわが家を訪れ、「  」対策の話を聞かせてくれる。九月半ばになると、おさめ字を受け取りに来る。
 それは公的な施設でももらうことができる。今では住民の多く、特に新興住宅地の人たちはそこで入手する。年度末には保全協力費という名目でわが家に補助金が出る。
 町に住むにあたり、職員がおさめ字に関する説明をする。注意喚起も頻繁に行う。担当者たちは皆、夏から秋にかけては特に忙しくなる。
 大きな町ではないから、おさめ字を行き渡らせることは困難ではない。それでも貼る場所を間違えたり、何かのはずみで剥がれたり、アクシデントは起こる。毎年、誰かしらはいなくなる。もちろん、自らの意志でこっそり町を出ていく人もいるだろう。それでも九月の終わりに姿が消えると、原因は一つのように思えてしまう。役所はこの件に関連する資料を作り、詳細を把握しているのかもしれない。ヨシナさんに探りを入れても、そのあたりのことははぐらかされる。
 
 町は盆地で区域自体は狭い。周囲の山は決して高くはないけれど、交通の便が悪く、ほかの地域とつながるのは大きな一本道だけだった。
 数年前、三方のうち北側の山を削り、新しい集団住宅を作る話が持ち上がった。おさめ字と「  」の関係、この古くからの習わしについて職員は丁寧に説明した。開発運営会社が本気で町の言い分を聞き入れたかどうかはわからないけれど、無事に契約は結ばれた。
 工事自体が進む間にもおさめ字の季節が訪れた。急ピッチで建物が造られているさなかだった。
 昨年の春には町に新しい人たちがやって来た。それぞれが事前に説明を受け、おさめ字を貼っている。とは言え、新興住宅は出入りが激しい。だから実際のところ、なじみのない人が姿を見せなくなっても、昔からの住民にとっては他人ごとのように思えてしまう。新旧世帯の間で距離ができるのも仕方がない。その溝を埋めるべく、役所の職員が奔走する。ヨシナさんも青いスクーターに乗っていつも走り回っている。
 巨大でモダンな建物が造られている間、そして入居者たちの生活が始まってからはじめての九月末、その二年は特に大きな問題がなかった。変な噂も僕のところには届かなかった。
 
 古くから、三つの山は信仰の対象になっていた。かつてはそれぞれに名前があった。今では誰もそれを口にしない。北、西、東の山と呼ぶだけだ。そして北の山は人工的に削られ、均されてしまった。そこに人が住むようになり、大通りはさらに北へと伸びて、また違う区域とつながろうとしている。
 二百年以上も前、地震と噴火、その両方が起こった。その際、山が崩れてこの地域全体が下敷きになった。どこまで本当かわからないし、それならどうして再び、盆地になったのかも説明がつかない。
 けれど、町の一画が土砂で埋まったことは確かだ。その際の死者なのか、崩壊した山の一部なのか、神霊的なものなのか、あるいはそれらすべてなのか、災害が起きた九月の終わりになると町にやって来る、と言い伝えられてきた。
 町中を「  」が巡回する。家屋に入り、そこで暮らすものを連れ去っていく。犬小屋や鶏舎、牛や豚を飼う施設も同様だ。鍵をかけても、ドアを分厚くしても侵入を防ぐことはできない。どうやっても「  」は入ってくる。けれど、入り口におさめ字を貼っておけば、何ものも捕らえられず、その姿が消えなくて済む。
 
 宣言後もいやいやながら書道を続けていた。祖父も父も決して褒めてくれず、上達の実感を得ることは一度もなかった。おさめ字に関して、受け渡しの手伝いをするくらいだった。
 十八歳になった僕は大学に通うため、町を脱出することに成功した。卒業後、戻ってくることを条件に進学を認めてもらったけれど、約束を守る気なんてさらさらなかった。
 ますます弱りつつも、祖父は少数の弟子を相手に教室で書を教えていた。父はまだ教師を続けていた。出世して管理職になろうという意欲は微塵も持っていなかった。書を教えられさえすればそれでよかった。高校を辞めるのは先の話で、いずれ二階の教室で弟子を取るつもりだった。
 町を離れて心から清々していた。九月になっても実家に戻らなかった。外に出ると、おさめ字とか「  」とか、そんな習慣は作り物みたいに思えた。ニュースを見ても町で暮らしているときとは感じ方が違った。どこにいても人はさまざまな形で死ぬ。どれも理不尽で、その差は程度の問題でしかない。死の準備はもちろん、その予防策なんて誰もしていない。そしてどのような死も忘れられていく。
 町で当たり前にされている類のこと、その呪術めいた因習は将来どうなっていくのだろう。そんな疑問もときに浮かび、すぐさま消えた。
 
 子供のころから、九月第四週には、びたびたびた、という足音をよく聞いた。怖くはなかった。母に話すと驚いた顔をした。あんたには聞こえるんだね、と小さくつぶやいたあと無表情に変わった。以前は祖父にも聞こえていたらしい。それがいつからか感じられなくなった。今や家族でそれを聞けるのは僕だけだった。
 その音は「  」と関連がありそうだし、あるいはそのものなのかもしれないけれど、何しろ姿が見えないわけだから放っておくしかない。毎年、おさめ字を貼る時期にだけ聞こえる。それは日に何度かやって来た。家の中を歩き回っているみたいだった。僕の部屋に入ってきて、しばらくうろつくように、びたびたびた、と響かせる。やがて部屋から出て、廊下を歩くように遠ざかる。ときにはまたすぐに近づいてくる。
 わが家はおさめ字に関しては問題ないはずだった。そうでなければ、父や祖父が書いたものが効かないことになり、町全体の住人が「  」によって消し去られてしまう。僕はこの時期、足音を感じながら過ごしていた。恐ろしいと思ったことは一度もなかった。けれどもちろん、その音を鳴らしている存在を見たくはなかった。
 
 四年間、実家に一度も帰らなかった。大学生最後の夏が過ぎ、九月になった。町の外で就職して、そのまま暮らしていきたかった。戻って来い、という催促は何度もあった。父や祖父から送られてくる手紙は達筆だった。僕は利き手を直されたことを改めてうらめしく思った。ただ、町を出てから好きなことが見つかった。左手で思うまま絵を描くようになった。
 家族の誰も直接僕の前に現れなかった。訴えは声か文字によるものだけだった。僕は適当に返事をした。そうでなければ無視した。のらりくらりとかわしていれば、町へ戻らなくて済むと思っていた。
 けれど、就職はどうにもうまくいかなかった。望みが高すぎるのかと思って、デザイン事務所以外の職種も受けた。やはり結果が伴わない。特に面接となるととことんだめだった。正直に答えていることでも、嘘をついているような気持ちになってしまう。それで余計に動揺する。ならば、はじめからでたらめで乗り切ろうとしても、途中でしどろもどろになった。こんなことなら書道以外で教職を取っておけばよかった、とすら思った。
 
 四年生の夏が無為に過ぎる。九月の中旬くらいに、びたびたびた、という音が聞こえた。一人暮らしの部屋に入ってきて、それは僕を眠りから呼び覚ました。意味がわからなかった。聞き違いだと思った。町の外で聞くと、とても怖かった。いつもと時期も違う。薄目で室内を探っても何も目に入らない。姿が見えないことでここまで動揺するなんて、その事実にもショックを受けた。すぐそばで音を鳴らす正体が歩き回っているかと思うと、今にも声が出そうだった。もはや改めて眠れそうにはなかった。
 いくら町から離れたって同じことはまた起きる。そして僕は町の外で、おさめ字もなく、自分で書くこともできず、いつか「  」に捕らわれるかもしれない。
 この予感が正しいのかどうかはわからない。けれど、町へ戻ることを考え始めていた。
 九月が終わり、音は消えた。僕は姿の見えないものに連れ去られることはなかった。それでもおさめ字を書けるようになろう、と思った。
 
 試し字は犬小屋に貼って実施した。二階の教室でひさしぶりに筆を持った。わが家で飼う生き物には名前をつけない決まりがある。それでも、なついた犬が消えてしまうのが不安でならなかった。できる限り、窓から庭の犬小屋を観察した。そんなことをしても意味がないのはわかっていたけれど、目を離せなかった。
 九月が終わっても犬は変わらない姿を見せた。自分のおさめ字に効果があったこと以上にうれしかった。けれど、次の年、夏が来る前にその犬は死んだ。「  」とは関係ないタイミングであっけなく寿命を終えた。
 昔はインコや文鳥、それ以外に鶏も飼っていた。わが家の動物はすべて試し字の対象となった。過去には何度となく連れ去られてしまうこともあったらしい。
 
 役所の職員は町で生まれ育った人が多い。ヨシナさんも同様だ。それどころか僕と同じ大学へ通っていた。
 卒業後、ヨシナさんは役所で働くために戻ってきた。それが十五年以上も前なのだから、ちょっと信じられない。見た目や雰囲気から、僕と同年代だと思われてもおかしくないくらいだ。
 ヨシナさんは大学時代、文化人類学を勉強していた。それが今の仕事と関係あるのかはわからない。四年間だらだら遊んでいただけ、と本人は言うけれど、現在の生真面目さを目の当たりにしている僕からすれば、当時も何かしらの目的意識を持っていたとしか思えない。
 ヨシナさんは多くのことを話さない。親しみある職員、という基本的なラインを保ちながら、それをぎりぎり踏み出すか踏み出さないかの絶妙な距離感で、僕たちと接している。
 それでも例外的に、弟と妹について話してくれたことがある。二人は双子で、ある朝、町からいなくなった。十歳を過ぎたばかりだった。「  」とどこまで関係あるのか、ヨシナさんは話してくれない。けれど、町へ戻って来たことや今の職務は、きっと過去とつながっているはずだ。
 僕がおさめ字を書き始めたことをヨシナさんは喜んでくれた。とりあえず、父以降の後継者が確立している。役所としてもしばらく先までは対策の目処が立った。自分が仕組みの一部として勘定されることにいい気はしないけれど、おさめ字だけは書いていくつもりだ。上達したいという書への熱い思いは今もまるで沸かない。わざわざそれを断言しないし、父からはもう何も言われない。
 
 試し字がうまくいったあと、その年の暮れに祖父が亡くなった。心臓ではなく腎臓の病気が急速に悪化して、小康状態すら一度も見せないまま死んでしまった。
 父は高校に通い続けている。まだ教室を引き継いでいない。祖父の弟子が数人、たまに訪れる程度だ。そういう人たちに向けて手本を書いて渡す。九月には僕と二人で手分けして、おさめ字を書く。
 僕は普段、教室の片隅、生徒用の長机でイラストを描く。紙ではなく、ほとんどペンタブを使う。極度に抽象的なものしか僕には描けない。スタイラスペンは左手で持つ。それはときどき仕事になる。依頼のほとんどは町の外から届く。一度、近所の喫茶店の看板をデザインしたのだけれど、すぐに潰れてしまった。ヨシナさんが双子のことを話してくれた店だった。
 
 七月のはじめに豪雨が続いて東の山の一部が崩れた。被害者は出なかったし、北側の住宅地にも影響はなかった。
 けれど、今年は「  」に対してより慎重に対策を取るべきだ、という話が役所側から伝えられた。ヨシナさんが強く主張しているらしい。八月はじめの時点で、連日、わが家を訪れ、おさめ字の配布、各家庭での貼りつけの徹底を図るつもりだと話してくれた。例年以上に念入りな準備になるため、負担をかけてしまうことを何度も謝った。父はのんびりとした様子で、早めに取りかかるから大丈夫、と答えた。僕もうなずく。ヨシナさんが胸の高さで手を合わせ、静かに頭を下げた。まるで僕たち以外の何かに向けて祈るような仕草だった。
 
 ヨシナさんの直感は当たっているのかもしれない。九月に入った途端、びたびたびた、という音が聞こえてきた。大学生のときと同様に時期が少しずれている。けれど、周囲を歩き回るような、あの不快で不気味な音だ。遠ざかったり、近づいたり、距離の変化を感じさせながらも、同時に耳のすぐ裏で鳴っているようにも響く。数日経っても状況は変わらなかった。
 その日は朝から、僕の周りでずっと音が鳴っていた。夜になっても止む様子はない。いよいよ心配になって、ヨシナさんに連絡する。
 以前、びたびたびた、という音が聞こえる件について話していた。そのときにヨシナさんもまた同類だと教えられた。町の外で暮らしていたときにそれを聞いた経験があることまで一緒だった。ただ、僕と違って、にゃむにゃむにゃむ、という音らしい。
 電話はつながり、ヨシナさんが応答する。例の音がすでに聞こえていることを伝えた。もう町の中を回っているのかもしれない。どちらともなくそう口にした。用事が済んだら家に寄ると告げて、電話が切れた。すでにヨシナさんにも聞こえているのか、それはやはり、にゃむにゃむにゃむ、という音なのか、ちゃんと尋ねればよかった、とあとから思った。
 
 ヨシナさんは来なかった。何度か連絡してもつながらない。いやな予感と重苦しい不安が広がってくる。待つことを諦めて眠ろうとする。けれど無駄だった。びたびたびた、という音は絶えず聞こえていた。すぐそばで鳴り響き、僕の心をかき乱した。
 朝一番で役所に連絡してもヨシナさんの行方はわからない。電話をかけても反応はない。メッセージは既読にもならなかった。
 
 個人の失踪に構うことなく、役所としては別の担当を寄こさなくてはならない。午後遅くに現れた太い眉毛のおじさんにはまるでなじみがなかった。淡々と慣れた様子でおさめ字について話してくる。念のため、今年はかなり多めに用意しておくほうがいい、という見解は変わらない。
 青いスクーターが西の山のふもとで見つかったらしい。おじさんが教えてくれた。ヨシナさんの行方についてはそれ以上何も情報が出てこない。
 僕と父はおさめ字を書き始めた。一応、出来上がったものを見せる。なるほど、とおじさんはつぶやき、うなずいた。紙を何枚か渡す。特に北の住宅地の新しい入居者たちに改めて説明しないといけないから、それに使ってもらう。
 父とそのまま教室に残り、配布の時期を早めても十分な量が足りるように書く。あるいは、すでに手遅れなのかもしれない。それでもひたすら書くしかない。ヨシナさんと会わないまま、おさめ字を書いているのは不思議な感覚だった。落ち着かなかったし、さみしかった。
 口には出さなかったけれど、おじさんがいる間も足音は鳴り続けていた。それは教室の中まで入ってこなかった。
 
 九月の四週目になってもヨシナさんは姿を現さなかった。そのころはまとわりつかれるような感覚はなくなったけれど、例の音は尚も聞こえていた。事前に何度もおじさんが訪れ、おさめ字を持ち帰った。町の人たちも例年通り、受け取りにやって来た。それは母が対応した。家族は皆、くたくたに疲れ切っていた。僕たちは玄関のおさめ字の状態を一日に何度も確認した。
 
 一方で僕は寝室のドアに別のおさめ字を貼っていた。イレギュラーなタイミングでの音やヨシナさんの失踪に対する、僕なりの試し字のつもりだ。ただ、これは左手で書いた。右手を使うよりも簡単だった。やはり利き腕はこっちなのだ、と実感する。夜中、一人きりの教室で筆を動かした。その間だけ周囲は静かだった。
 ヨシナさんの無事を願いながら、時間をかけておさめ字を完成させた。それは「山」という文字を少しずつずらしてなぞり、太く重ねていく。デコもボコも埋まる。重ねるうちにいびつな黒いものが浮かび上がる。最後には何の字なのか、元が何なのか、もはや判別することができなくなる。いくら左手でうまく書けたような気がしても、それはいつもと同じ見た目だった。
ヨシナさんのことが好きだったのだ、と強く思った。ずっと明確にさせてこなかった気持ちを認め、それを過去形で考えてしまった。僕は胸が苦しくなった。指の先から墨特有の白檀の香りがした。薬指のはらに小さな黒い染みがついていた。
 
 朝方のまだ暗いころ、びたびたびた、と足音が近づいてくる。だいぶ前からまともに眠れていない。音は扉を超えて部屋に入ってくる。九月最後の日を迎えたばかりだった。このときまで、それはここにはやって来なかった。
 僕はその姿を見た。死んだ祖父や祖母、生きた父、母、死んだ犬、ヨシナさんが重なったものだった。僕の知らない人たちの姿、人間以外の生き物も見えた。さまざまなものが浮かんでは消えていく。僕が見たいと願う姿は一瞬しか捉えられない。
 それは揺らぎながら一つになり、同時にぶれてもいた。その塊は僕を連れ去りはしなかった。ただ、目の前で足踏みのような動きを続けた。びたびたびた、という音は遅れて響いた。
 怖くはなかった。けれど、生きるものも死んだものも、記憶からいつか無くなってしまうことがたまらなく辛かった。それを消し去ろうとするものが憎かった。もしも僕の心に形があるとしたら、それがある種の器だとしたら、そこにおさめ字を書いてやりたかった。 〈了〉

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