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ヨロイマイクロノベルその32

311.
ミモザの花がこぼれるように咲き誇る。その下で小さな女が口を開けて立っていた。わたしは回り込み、女の背後から父が遺した古いカメラを構えた。黒い髪がさらりと縦に垂れる。強い春の風が吹くたび、女の頭上で黄色いふわふわとした花が揺れる。だがそれは一粒たりとも落ちてこない。

312.
遠くで鐘が鳴る。耳にしたことがない音色なのに鐘だとわかる。どこかで鳥が鳴く。聞いたことがない鳴き声なのに蒼い鳥だとわかる。知らない女がすすり泣く声が聞こえる。知らない女なのにどうして泣いているのかわかる。つられて私も長く泣く。やがて涙は枯れ、音たちが同時に消える。

313.
差出人不明の荷物が届く。「7月の雪」というラベルが貼ってある。小箱のテープをすべて剥がしてから玄関に家族を呼んだ。慎重に上蓋を開ける。ひんやりとした空気が溢れ、外へ広がる。冷気はすぐに消える。箱は空っぽで底には染みができていた。海に沈んだ古代大陸みたいな形だった。

314.
「春が来るよ」。寡黙な優男が口を開く。薄桃色の象が大河を渡る姿が見えたところだ。水面が波打ち、川は荒れる。象の背に小ぶりな梅の花が咲き誇り、鳥たちが群がっている。やがてメジロだとわかる。「来た来た」。男が笑う。象の鼻先から水が噴き出し、春を待つわたしたちを濡らす。

315.
駅まで送ったはずなのに母が家の前に立っている。何の説明もなく、ぼうっとしているだけだ。再び、改札を通っていくところを見届ける。それでも母は先に戻る。何度かくり返すうち、手荷物のお土産が増えていく。やがて持てる限界を迎え、母は戻らない。玄関先に名物だけが降ってくる。

316.
桜の花が咲かないまま春は過ぎた。川沿いの小高い堤を歩いていると大量の花びらが流れてきた。爺が上に座っている。「花筏だよ」。大声で触れ回りつつ下っていく。人々が集まり、爺のことは無視して酒盛りが始まる。やがて婆がより色づいた花びらに乗って流れてくる。春が再生される。

317.
猫から恋文が届く。宛名はなく裏面に肉球の手形が押されていた。不器用なハートと緑のくねくねとした線の下、赤い鳥の羽が貼りつけてある。二軒隣のトラ猫からだろう。放置しているとその後も葉書が届く。徐々にメッセージの意味がわかってくるけれど、やがて春も、猫の恋も終わる。

318.
妻が双眼鏡で赤子を観察する。離れた位置から、私がおむつを替え、ミルクを与える様子を眺める。泣きそうだね、かわいいね、顔が超赤いね、などとつぶやく。自分が母乳を飲ませるときには、私にも双眼鏡で覗くように求める。寝室の外に立ち、双眼鏡を当てた私は目を閉じて何も見ない。

319.
藤の花がきれいだったと姪が手紙を寄こす。姪なんていないはずだけど、確信が持てない。同封の写真には濃淡の紫が枝垂れる藤棚が見える。手前には長い黒髪の姪が両手でハートマークを作る。翌日からも手紙は届く。写真の姪は成長していき、すぐさま亡くなる直前の母そっくりになった。

320.
「やだ、ゲシュタルト崩壊しちゃう」。妻が鏡の前で叫ぶ。新しい夏服は白い襟付きシャツで一面に「の」がプリントされている。「の」は尚も増殖中みたいに見える。どうして選んだんだとも、よく似合っているとも思う。かくいう俺のTシャツはすでに何かしらの文字が崩壊し切っている。

(おまけー不気味な書き出し文藝に出さなかったやつー)
大根を切る音が途中で変わった。ぎあ、ぎあ、ぎあ。冬鳥の鳴き声みたいにまな板上で低く重く響く。
太く長い大根だった。途中で動きを止める。包丁を握る手が濡れている。やはり真夜中に料理なんてするものではない。
ぎあ。
遅れて鳥が鳴く。それはわたしの足元から聞こえる。

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