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「地球危うし」

 扉の先には避暑地があった。
 草原はどこまでも青く萌える。空を翔る鳥たちがそこに影を落とす。湿り気を含んだ風が吹き抜け、若い葉を揺らす。その先になだらかな丘が続く。ふもとの湖は静けさに満ちている。深い森の入り口には低い木々が植生する。小ぶりで赤い果実は香気を放つ。四方を囲む山から清冷な水が注ぐ。銀に煌めく魚の姿が川面に映る。やわらかい日差しが一帯を照らす。
 今やこのような景色はほかのどこにも存在しない。ここにぽつりぽつりと人がやって来た。

 Aは大阪府寝屋川市のアパートで一人暮らしをしていた。在宅勤務促進の余波は役所にも及び、自宅で過ごす時間が増えた。公的サービスは急速にオンライン化へ移行する。それに関する法も近年稀に見る速さで整備された。サマータイムの施行も同様だが、昼夜を問わず暑いことに変わりはない。
 市政においても公舎での手続きにはかなりの料金が上乗せされる。年配者には職員が出張で対応する。それにも手数料はかかるが、暫時的に補助金が充てられている。
 消費電力を減らすように各企業は国からの要請を受ける。従わないところには厳しい罰則が科される。電気税は議会の審議ごとに上昇していく。
 企業向けの送電だけでなく、各家庭の供給にも制限がかかる。節電アワーは恒常的に設けられている。電気代の高騰が続く。値上げされた料金は二度と戻らない。この時代、可塑性は徹底的に排除される。
 節電なんて糞くらえ。Aは不安定な声量で毒づく。だが、高い電気代も呪わしい。クーラーはまともに冷気を送ってこない。節電機能搭載の製品は増えているものの、買い替える余裕がない世帯も多い。
 世界では金融商品の価値が実態を伴わずに膨れ上がる。以前よりもその傾向はますます強まった。私財を増やせるのは資本力を持つものだけだ。彼らだけが無遠慮に涼しく快適な生活を送る。剣呑な当世こそ、極めて限定された層だけに多くの富が舞い込んでくる。
 Aは冷蔵庫を開ける。そこに両手を伸ばす。少しでも身体を冷やそうと顔を突っ込む。効きが悪いがこれもまた供給制限のせいなのか、暑すぎる外気のせいなのか。コンプレッサーが振動する低い音が響く。
 立体的な暗闇が襲いかかる。狭い空間に引き込まれたことがわかる。緩やかな風の流れを感じた。何も見えない。冷蔵庫の内側にいるのだろうか。頭が混乱している。両手を広げると左右どちらにも壁のような感触がある。それを頼りに奥へ奥へと進む。時間の感覚を失いながらも風が吹いてくる方へ向かう。
 仄かに白く光る長方形が見える。距離感がうまくつかめないが、淡い明かりに導かれるように足を動かす。やがてそれが扉だとわかる。体重をかけて押し開く。目の前に草原が広がる。
 ワオ。口にしたこともない言葉が漏れた。Aは最初の移住者として第一歩を踏み出す。汗が一気にあふれる。大きな粒が一つ、足元に落ちる。空気の性質がまるで違う。風が心地よかった。草のやわらかさを素足の裏で感じる。しばらく味わうように歩き回る。肺が気持ちいい。生まれてはじめての実感が湧き、ゆっくりと噛み締める。うららかな陽光が全身に注ぐ。その場に腰を下ろし、Aは放心する。

 小林市で製造されたT社の冷蔵庫が避暑地に通じる。それも冷凍室つきの2ドアタイプ、右開きの型だけだ。両開きや6ドアでは辿り着くことができない。工場は宮崎自動車道のすぐ近くにあった。楕円形の広い池を関連施設が囲む。従業員も多く働いていた。それが数年前に閉鎖された。
 現在、T社の製品はすべて中国の広州で造られる。方針を切り替えたのは当世の電力制限と大いに関係がある。今や中国は電力天国と化した。世界の潮流に逆らい、各地に工業特区が設けられた。政府は海外企業に向けて生産拠点の移転を熱心に働きかけている。
 広州工場の近隣にはアヘン戦争に関する遺物を集めた記念館がある。現地人は課外授業で訪れたきり、二度と近寄らない。閑散としていて、新しい展示物は久しく増えていない。赴任中の日本人社員が暮らすマンションからは本館の広場前に設えた銅像が見える。像はアヘンを吸って横たわる老夫を模している。

 日本国内でも新たな居住地を求め北上する人々が現れた。北海道は再び開拓時代に入った。それでも比較的涼しいという程度で熱波からは逃れられない。真夏の猛威は日本全体に及ぶ。
 夏と冬、二つの季節が存在感を増していく。もはや春秋の気配は感じられない。冬の期間そのものは短いが、集中的に大量の雪を降らす。各種インフラに激しいダメージを与える。同時に交通網の麻痺も生じる。
 劇的な変化は起こらなかった。破滅の瞬間がいつ訪れるのか誰にもわからず、あらゆる対策を引き延ばしてきた。過ぎ去ってしまえば自然災害の悲劇もすぐに忘れてしまう。無感覚に日常生活らしきものを続けることはできた。
 それでも魚や虫、野生動物の生態系が少しずつ変わる。花の季節はあまりにも短く、植物史から零れ落ちてしまう種類もいる。ゲリラ豪雨と台風被害が頻発し、記憶を忘却する時間的余裕はなくなった。
 楽観的、あるいは近視眼的な「わたしたち」はいよいよ危機感を抱く。遅きに失するとしても遂に重たい腰を上げるときがきた。
 改めて二酸化炭素が目の敵にされた。なし崩し的に原子力発電が復権し、あちこちで再びタービンが回り始めた。ネガティブなイメージを拭うこともできないまま、「クリーン」なエネルギーが電力の大方を担う。

 Eは山形県庄内市で父と暮らしていた。母は一年前に亡くなった。癌に身体を蝕まれ、除去手術や放射線治療で対処してきた。そのたびに新たな転移が見つかる。いつまでも続く夏の暑さも生命力を奪っていく。それを病魔との戦いと呼ぶのなら、結局のところ、母は敗れた。だが粘り強く、最後の最後まで耐え続けた。
 母は火葬された。昨今では土葬の可能性を探る議論も重ねられている。土に母が埋められるところを想像するだけでEは吐き気を催した。その点においてのみ、早いうちに亡くなってよかった、と思った。
 大学はオンライン上でも休講が続く。アルバイトの時間が迫っている。仕事先まで炎天下を歩かなくてはならない。倉庫はひと気もなく、充満する熱気は耐え難い。どんどん気が滅入ってくる。シャワーを浴びたそばからもう汗をかいている。
 父は仕事で不在だ。異様なのめり込み具合で節電に取り組み、電気代にはうるさい。職務上、社屋で待機しなくてはならないという罪悪感のせいかもしれない。酷暑の中、自転車通勤を敢行して、汗に濡れた状態で帰宅する。それなのにシャワーの時間も短い。一人娘のためなのか、いつもチキンケバブラップをテイクアウトしてくる。飲食店の多くは町から消えた。残っているのはドネルケバブやタコス、それにジーパイとホットクのスタンドばかりだ。
 母が亡くなり、父は目に見えて落ち込んだ。自分がいなかったらあとを追っていたのではないか、とEは思う。
「地球危うし」
 冷蔵庫を覗くと中から甲高く溌剌とした声が響く。クライシくんという異世界アニメのキャラクターがドアの開けっ放しを注意する。もはや無意味とも言える節電用のグッズだが、電池はまだ切れていない。
 麦茶を取り出す。水出ししたものだが、味は薄い。たいして冷えてもいない。それでもわずかな涼気を感じて心が落ち着く。もう一杯飲み、容器を戻す。冷蔵庫のドアを開ける。「地球危うし」
 再度、弾んだ声が聞こえ、その瞬間、Eは漆黒の世界に引き込まれる。すうっと全身のあらゆる細胞が引き延ばされたような感覚に恍惚となる。

 扉が白い光に包まれ、ゆっくりと開く。Eが避暑地に足を踏み入れる。まぶしそうに目を細める。意識的に深く息を吸い込む。胸に手を当て、慎重に周囲を確認する。大きな汗の粒が続けざまにこぼれる。頬を撫でる風が涼しかった。
 ぼんやりとした表情のまま、Aは立ち上がる。自然と手を振っていた。軽く頭を下げたあと、Eも同じように応える。それから一歩ずつ、見知らぬ男との距離を縮める。混乱しつつも不意に現れた爽快な空間にどこかほっとする。夕暮れを迎えても温かい空気はこの辺りを薄膜のように覆っていた。
「冷蔵庫?」
「あ、はい、冷蔵庫」
 ずれたタイミングで二人はうなずく。熱波に侵された自宅の様子が頭に浮かぶ。不快な環境から逃れているこの状況をうまく飲み込めない。ぎこちないながらも会話が続く。
 このまま時間が長く過ぎていたならば、あるいは二人の間に愛が生まれたのかもしれない。だが、三番目の移住者が辿り着く。Kは東京都北区在住だった。彼もまたT社製冷蔵庫から暗闇に飲み込まれた。
 そのあとでHが訪れる。山口県下関市に住む、公立高校の生徒会長だった。

 強制的であるばかりか、その移住は一方通行で元の場所には戻れない。それでも後悔の念を抱くものは少ない。何しろ完璧なまでに穏やかな気候だ。空気も澄んでいる。心安らかに過ごし、精神的な余裕を取り戻すこともできた。
 住民はここでの暮らしに魅了されている。暑さだけでなく寒さに怯えることもない。丘陵地周辺にはいくつかの無人の小屋があった。簡便な道具も備わっていた。森も近く、資源となる木々には困らない。動物や植物などの食料も豊富だ。ある移住者はクラフトゲームの世界に入り込んだような感慨を抱く。身体を使う実際の生活は面倒でもあるが、過ごしやすいことには間違いない。争いはない。皆一様に温厚だ。自分は運よく避暑地に行き着いた。選民的な思いを抱くものもいる。
 家庭ができる。素朴な形で挙式も行われる。じわりじわりと移住者が増えていく。小屋は埋まる。新しい建物が作られる。
 草原の真ん中に白い扉がある。避暑地を訪れるための唯一の入り口だ。開く寸前、強烈な光を放つ。周囲はホワイトアウトする。その間、扉には誰も近づくことができない。新しい移住者が足を踏み入れ、それは再び閉ざされる。
 全国各地から人々が集まった。人口比によるものか、大都市出身が多数を占める。職業もさまざまだ。未成年もいるが、十五歳以下の子供はまだ存在しない。
 シンプルな冷蔵庫を経由するため、巨大でデラックスな種類を持つような富裕層はほとんどいない。それでも二台目の冷蔵庫という、この時代にあって背徳的な状況から辿り着いた人々もいる。ITコンサルタント企業の社長Yは愛人の部屋を通じて移って来た。テレビ局のプロデューサーFは港区にあるワンルームの仕事部屋から繋がった。

 日本国内で避暑地について噂が広がり始める。生活の痕跡を残したまま、人が消失している。演繹的な推測が線となり、いくつかの仮説が立てられる。その多くは真実とは異なる。しかし、冷蔵庫と関係がある、その扉の奥がどこかに通じている、という都市伝説的な話もネット空間で流布していく。そしてさらなる仮説が生まれる。
 悲劇的な死亡事故も起きた。P社製のチルド室つき冷蔵庫から四十四歳の男が出られなくなる。噂を信じてなのか、あるいは暑すぎる世界から逃れようとしただけなのか。真意は本人以外にわからないが、このような事例が続く。
 夏は終わらない。地球が冷める時間さえ与えない。抵抗しようにも取れる手段は限られている。そもそも有効なのかどうかもわからない。
 ここまで来ても意識は変わり切らない。いくら節電が促されても、結果的に抑制できる量は微々たるものだ。地球のために。世界中の人たちのために。公共心はエゴや自身の健康状態とせめぎ合う。わたしたちの精神において、恒常性は象徴的に宿る。
 クーラーや冷蔵庫は家庭からなくならない。EV化の夢は果たされなかった。ほとんどの車はガソリンで動く。国や企業の足並みがそろわず、醜い足の引っ張り合いによって、志は半ばで潰えた。再生可能エネルギーの業界も似たようなものだった。生活基盤を根底から覆す決定的な流れは生まれない。この時代に革命は起こらない。
 北極が丸ごと溶けていく。海の水位は上昇を続ける。国有の小島が沈まないように埋め立てが断続的に行われ、怪物じみた形になる。領土は海面の高度に大きく左右される時代を迎えた。人々は諦めながらも日常を送る。もしくは極地へ向かうべく、ひたすら南下、あるいは北上する。
 一部のものだけがT社小林工場で製造された冷蔵庫を抜ける。その型はすでに生産を終え、流通も国内に留まる。それでも日本に居を構える台湾や韓国、そして中国出身者たちも避暑地にやって来る。

 冷蔵庫。扉。ワープ。転生。これらのキーワードが組み合わさった噂は各地に広がる。クライシくんの名前もときどきそこに交じる。多くの失敗例が積み上げられ、何人か避暑地に到達する。移住者が少しずつ増えていく。
 暮らしも徐々に変化する。居住地の確保が何よりも優先される。先住民は自らの権利を脅かされることを恐れる。対立が起こり、口論から暴力も生じる。しかし統治機構は存在しなかった。急ごしらえでルールを明文化しようとして、誰が取り仕切るのか、そこでまた揉める。初期に集まったもの中心で作るグループが主導権を持つ。反発とそれに対する抑圧が生じる。
 自給自足を基本としながらも供給的精神によって生活は成り立っていた。それが機能しなくなる。住居と食料。パイの配分が常に火種としてくすぶり続けている。最初から存在していた小屋、移住者たちによって建てられた簡素な住居。テント風のスペース。これらも順々に埋まっていった。
 空間には限りがある。青い草原を失うことは許されない。原風景の象徴として、手つかずの状態で残すことになっている。新しく何かを作る余裕がなくなる。遅れたものたちは狭い場所に詰め込まれて暮らす。それでも身体的な負荷はかからない。この環境下では屋根がなくても生きていける。

 見張り役が草原で待機する。扉が開くときの干渉を受けないように、少し離れたところに座り込む。
 Sは早い段階で移住してきた。山中湖でペンションを営んでいた。ここに来てからはDIY精神を発揮してさまざまなものを作る。監視用に座るための椅子もその一つだ。
 つららのような氷が空から降ってきて、頭や目や喉に突き刺さるのではないか。Sはそんなオブセッションに囚われていた。避暑地に移る前のことだ。どんな小さな氷でも恐怖心は掻き立てられる。そのためペンションの冷凍庫も常に空のままだった。氷なんてものは超贅沢品だ。口癖のように嘯いた。
 扉が光を帯び始めると、Sは立ち上がる。間もなく新たな移転者が姿を現す。これまで何度もそのまま引き返させようとしたが、それは不可能だった。Sは手製の鍬を抱えたまま新人に近づく。この地で生活するにあたり、決して他人に、何よりも先に移って来た人々に対して迷惑をかけないように注意を促す。それが聞き入れられないのならば、居住地から離れた森か山の中で暮らしてほしい。強い口調で訴える。
「ここは何なんですか?」
 暗い空間を抜けてきたばかりの新参者には状況がまるで飲み込めない。突然、意味がわからない内容を高圧的に話されて、怯え、混乱もしている。胸が詰まり、息を吸うこともできなくなる。
「ここは避暑地だよ」
 吐き捨てるようにSが答える。視線の先には「わたしたちの避暑地 SINCE 20XX」と記された立札がある。その赤い文字は少し垂れた状態で固まっていた。
 避暑地という言葉の響きと口調のちぐはぐさ、そして立札の存在そのものに移転者はますます困惑する。扉の向こう側へ戻ろうと思うが、もはや手遅れだ。

 やがて避暑地に足を踏み入れたその瞬間から、移転者は森へ追いやられる。彼らは住民とは認定されない。草原や公共のスペースを自警団が徘徊している。扉の前には見張り役が常駐する。Sがそのリーダー役を担う。交代で椅子に座り、白い光が放たれる瞬間を待ち構える。彼らには武器の携帯が許可される。
 ぎりぎり移住を許された人々にとって、先住者たちとの地位の差に不満はあるものの、過ごしやすい場所には変わりない。何しろ、新しい訪問者は居住地を追われているのだから文句は言えない。

 Aは特に望んだわけではないが、最初の入植者として周りからの敬意を集める。Eも同様だ。初期の何人かが住む小屋、そのドアには白と黄色の花で編んだリースが飾られている。
 Aは屋内にこもった切り、あまり外へ出てこない。Eはのちに移住してきた金沢市出身のWと一緒に暮らし始めた。それによって貴重な住居が一つ空いた。
 移住者を懸命にまとめようとする人たちが強権的に振舞う。もちろん彼らは早い世代だ。後からやって来たものが、かつていくら財産を持っていたとしても、ここでは意味をなさない。問われるのは先か後か、その一点のみだ。
 遅れてきた世代にとっても、この環境を壊したくない思いは強い。地球の状況を鑑みれば、同じ轍を踏むわけにはいかない。ここでの暮らしは原初的だ。誰もが現代の文明について、それが何たるかを知っている。スマートフォンは役に立たず、そもそも電気を生み出す術はまだ得られていない。そこへの一歩は慎重に進みたい。温かい気候は維持される。火を熾すことはできる。水や食べ物は確保できている。これ以上、人が増えないように見張り、共同の空間から追いやる。それによって自然主義的で快適な生活を送ることができる。
 高温の地球と大きく離れたところにわたしたちはいるのだ。誰にもその自覚はある。だが、ありがたみを感じれば感じるほど、より閉鎖的なほうへ志向していく。

 避暑地で最初の死者が出る。Nは五十代で滋賀の東近江市から夫の留守中に移って来た。こまめに黒く染めていた髪は、冷蔵庫の奥を進む過程で、真っ白な状態に戻ってしまった。本人がそのことに気づいたのは数日もあとだった。
 病気がちだったが、温暖な気候の下、みるみる元気になった。居住区の裏にある畑を切々と管理する。何種類かの青菜を育て、住民に配る。残した夫のことも孫娘の行く末も気にかかるものの、いずれ彼らも呼び寄せることができるはずだと信じていた。そのためには何よりも健康が肝要だ。
 だが、ある晩から熱が下がらなくなった。医者はまだ避暑地に現れていなかった。具体的な原因はわからず、Nは痩せていく。白髪は絶えず汗に濡れたままだ。住民たちは感染症でないことを強く願う。彼女の住居を壁で覆う案も出たが、実践されなかった。数日経ったあとも同様の症例が現れないことに誰もが安堵する。
 最後まで家族との再会を夢見つつ、Nは亡くなった。有志たちで土を掘り、遺体をそのまま埋める。そこは青菜が茂る畑の脇だ。人を弔うこともはじめてだった。それぞれの宗派の言葉で祈る。無言で頭を下げるものもいる。Eもそこに立ち会う。母親の葬儀のとき以上に涙があふれてくるが、その理由がよくわからない。
 木の棒を立て、先端に火をつける。煙がたなびく。濃い灰色の筋が揺らめき、しばらくして消える。
 弔いの様子をJは遠く離れたところから眺めていた。彼女もまた住民と認められず、早々に森へ追われた。

 冷蔵庫のドアを抜ける以前、Jはギタリストであり、ボーカリストだった。電気で音を鳴らすなんて。しかも男でもないくせに。そんな旧態依然とした批判やバックラッシュ、冷笑じみた視線に抵抗することこそ、当代のパンク的アティテュードだと信じてギターを鳴らしてきた。ライブハウス内のあらゆるものが熱を吸い込む。酸欠でプレイヤーも倒れてしまう。観客は少ないが、それでも音楽を続けた。先人に敬意を表して自らのバンドを「放たれし野獣」と名づけた。
 その日も二時間の練習を終えた。今や希少なスタジオはあまりにも狭く、メンバーと密着するように演奏をくり返すうち、汗が止まらなくなる。服や肌、どこもかしこも濡れていく。普段は下ろしている髪の先から滴が垂れる。
 帰宅して、すぐにビールを飲みたかった。だが、贅沢はできない。どうせすべて汗に変わってしまうのだ。ギターを爪弾き、気を紛らわせているうち、喉の渇きもいよいよ極まる。まともに冷えているとは思えないが、牛乳でも飲むつもりだった。
 Jは両腕から引っ張り込まれるように冷蔵庫の奥へ移った。混乱しながらも暗闇を進み、避暑地に辿り着く。そこではまともな扱いを受けず、すでに力と武器を持つものによって、「わたしたち」の居住空間から追いやられた。

 住民として認められない移転者の中には避暑地からの脱出を試みるものもいた。だが、強行軍も虚しく、大いなる自然を前に途中で断念する。森を抜けたとしても山から戻ることもできない。運が悪ければ死ぬまで彷徨い続ける。この地がどれだけ広いのか、どこにどのように通じているのか。誰もそれを知らない。そんな状態でまともな装備もなく探索すること自体、無謀極まりない。
 ここの気候は安定している。さわやかな風を全身で感じる喜びを改めて知った。依然として川の冷たさに新鮮な驚きを感じる。森の中でも暮らすことはできる。それでも先住者がのさばる状況に何の救いもない。
 Jは是が非でも山を越えるつもりだった。その先に広がる新しい景色を眺めてみたい。そして必ず元のところへ戻る。
 決意が固まったとき、短い間、世界から音が消えた気がした。

 森を抜けることができたのは僥倖だった。ただ、ここから先、山を越えるには自らルートを開拓していくしかない。短い距離を動くのにも時間がかかる。少しずつ、上へ上へと向かう。酸素が薄くなり、快適だったはずの温度はどんどん下がっていく。意識が朦朧とする。冷えによる手先の痛み、肺や気道が寒さに震える感覚、それらがなつかしく感じられた。唇から白い息が漏れ、それもまたすぐに冷たくなる。
 何度も夕陽が沈むのを見送った。夜遅く、ついに山の頂上付近まで到達する。忌々しい先住民の居住地を見下ろしてやろうと夜明けを待つ。Jは短く眠る。そこで断片的な夢を見る。
 東京に雪が降る。信号は消え、車も動かない。重く厚みのある雪に覆われた都市は静けさに包まれる。シャベルを持って外に出たものの使い方がわからない。Jは手で白い山を崩す。雪は少しも冷たくない。だが硬くて時間がかかる。ひたすら腕を動かし続ける。ざくざく、という音が耳の裏で響く。時の流れが前後する。何の感触もないまま手を動かしていた。いつの間にか雪は均され、真っ白で平らな世界がどこまでも続く。
 太陽が山の背後から照り始める。背中に光の温かみを感じて目を覚ます。夢うつつの状態で立ち上がる。眼下に広がる避暑地の全貌は古びた紙芝居の絵みたいだ。
 Jはふらつきながら頂に立つ。刹那、ぶーん、と音が鳴る。意識がブラックアウトする。
 
 東京の高円寺、その狭いアパートにJは戻る。これも夢なのか。室内は熱がこもっている。窓を開けても冬の匂いはしない。雪をかくときの固い感触だけが指先に残る。
 避暑地の牧歌的な光景も、森の中に漂う土や葉の匂い、糞尿の臭みも感じない。ベッドにはエレキギターが裏返しに置いてあった。どれだけ時間が過ぎたのかはわからないが、練習をさぼっていたことが恥ずかしかった。
 帰ってきたのだ。Jは確信する。テレビはつかない。クーラーも効かない。気温は何度まで上がっているのだろう。やはり地球はクールダウンしていない。空気を吸うたびに肺が燃える。
 Jはギターを手に取った。その重みが恋しく、声が漏れそうになる。ストラップを首にかける。ゆっくりと冷蔵庫の前に立つ。扉は音もなく開いた。冷気は感じない。豆腐もバターもケチャップもとっくに腐っているだろう。
 ため息をつき、濡れた髪をリーゼント風にまとめた。べたついているが、おかげでそれなりに固まった。思い切り両手を伸ばす。ギターが引っかかる。無理やり腕ごと冷蔵庫の奥に入れる。首を曲げて顔も突っ込む。もう一度、このまま避暑地へ向かうつもりだった。そして力を持つやつに反抗する。動乱を起こし、すべてをひっくり返す。
 ギターがマシンガンになればいいのに、と思う。少なくとも、これでひたすらぶん殴ってやる。扉の前の見張り役、自警団のやつら、威張っているやつら全員を殴り倒す。わたしはあの場所で革命を起こす。
 恐れることなんて何もない。わたしだけが戻り方を知っている。わたしは避暑地に放たれた獣なのだ。
 Jは冷蔵庫の奥へ引き込まれた。それもまた音もなく、ただただ静かに。

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