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「猿掌編、3つ」

1.「滓」 

 夕方、学校から呼び出しがあった。息子の描いた猿が逃げたらしい。不格好な猿はまともに走れず、のたうつように去った。遺伝のせいか、息子はとびきり絵が下手だ。

 職員室を抜けた奥の部屋に案内される。
「どうして猿なんて描かせたんです?」
 担任にきつく問い詰める。
「数学の時間でした」
 咳払いのあと、簡素な答えが返ってきた。授業中に落書きをする生徒が悪いとでも言いたいのだろう。
 息子はどこ? と周囲を見回しながら尋ねる。
「猿を探しに行っています」
 担任はため息をついた。グラウンドでは部活中の生徒たちが跳ねている。息子が不憫でならなかった。
「あなたたちは何をしてるんですか? 息子一人に猿を捕まえに行かせて、それで構わないんですか?」
 声を荒らげたせいか、女が様子を見に来た。彼女のことさえも憎らしかった。

 夜になってもまだ校舎にいる。息子は戻ってこない。もちろん、猿も。うんざりした表情を崩さないまま、担任がコーヒーを淹れてくれた。インスタントだけど、値が張るやつに違いない。すでにほかの先生たちは帰っていた。

 トイレで用を足し、教室に寄ってみた。明かりをつけると、黒板にいたずら書きが浮かび上がった。おそらく体育教師なのだろう、ジャージ姿の男の似顔絵と悪口が書いてある。
 荷物が置かれたままの机を見つける。わたしは息子の席に座った。ノートは開いた状態で、数式がずらずらと並んでいた。真ん中に大きな空白もある。ここから猿が逃げ出したのだ。ページを捲ると、何ものにも見えない黒い生き物がいた。無様でグロテスクではあるけれど、完成しているのかどうかもわからない。
 消しゴムでこすり、正体不明のそれを消した。途中で思わず涙ぐんでしまった。ノート上に消しくずが溢れる。圧倒的な静寂が校内を覆い尽くす。いつからか、照明がちかちか点滅している。グラウンドは真っ暗で、もう何も見えない。


2.「境界」 

 一年間、隣り合う町の境界線が五メートル移動する。それによって夫婦杉がどちらに所属するかも変わる。
 経緯は不明だが、この取り決めによって所有権が二つの町の間で行ったり来たりしていた。
 
 決着方法は綱引きだ。夫婦杉を前に力自慢たちがチームを組み、一発勝負を行う。どちらの町にとっても祭りとしての側面も強い。
 観客も集まり、出店が並ぶ。決戦が始まる前までは、緊張感とのんびりした雰囲気が入り交じる。酒と焼き物が夫婦杉を取り囲む人々の胃に収まる。
 
 残された記録によれば今年で五十三回目となる。曇り空の下、二つの町の精鋭が向かい合う。チーム編成にも決まりがある。何歳以上が何人という風に、細かく区切られている。十歳以下の子供も一人入れなくてはいけない。男女比に関しては来年以降、新たな話し合いの場が設けられる予定だ。

 審判が笛を鳴らし、抑えていた足をのけた。かけ声と共に、一気に綱は引き延ばされ、ぴんと張りつめた。

  チーム編成で奇跡的なバランスがとられたのか、どちらもまるで動かなかった。五分経っても決着がつかない。
 観客の声援も徐々にしぼみ、興味を失う者も出てきた。心無いヤジも飛んだ。それでも綱を引く面々は力を抜くわけにはいかない。
 灰色の空から雨粒も落ちてくる。半分近くの観客は帰った。審判役は、さあさあと声をかけ続けるが、心底困り果ててもいる。
 
 やがて夫婦杉、そのどちらの幹かは定かではないが、上方から一匹の猿が降り立った。残っている客たちがざわつく。猿はしばらく綱を引く二つの町民たちを見比べた。
 片方の最後尾につき、綱を持とうするが、途中で止める。反対側の後ろへ回る。そしてまた手を添える。だが、そちらも積極的に引かない。
 猿は中央に戻り、左右を見比べる。綱は依然としてぴんと張りつめている。猿はどんどん狼狽していく。そして座り込み、夫婦杉の前で奇矯な声をあげて泣きだす。


3.「朝練」

 全身の毛がびしょ濡れでもよだれを垂らしているのはわかるものだ。猿はごみ捨て場の脇に立ち、ぼうっと何かを見ていた。
 
 朝の素振りを終えて帰るところだった。シャワーを浴びて仕事に行かなくてはならない。
「何年生?」
 声をかけられた。猿と目が合う。よだれが地面に落ちた。また新たに湧き出てくる。唇を超えてつうっと垂れる。
「朝練だよね、ご苦労さん」
 猿の声は低くて、耳心地のよい揺らぎさえあった。
 けれど、無視して早足で通り過ぎる。離れたところで振り向くとなぜか猿は揺れていた。蝉の声がやけに声量を増す。
 俺は猿と同じくらいびしょびしょだった。シャワーで汗を流す。クリーニングしたばかりのシャツを着て家を出た。
 
 翌朝も猿がいた。やはり全身ぐっしょり濡れていた。よだれが、ぼた、ぼた、と垂れる。
「朝練ごくろうさん」
 やはり猿が声をかけてきた。耳の奥がぞくぞくしながら、俺は小さく会釈をした。
 
 会社から帰るのはいつも夜遅い。ネットで野球の試合を眠くなるまで見る。結果が分かっていてもぼんやり眺めているのが好きだ。
 ドーム球場の試合を流す。コンビニで買ったノンアルコールビールと7%のレモンチューハイを交互に飲む。早くに片方のチームの投手が炎上して、気の抜けた試合展開になっていた。
 七回裏が始まる前、ライトスタンドの観客席が映る。猿がいた。びっしょり濡れて、よだれを垂らし、天井のあたりを見上げている。歯ぐきがむき出しの状態だった。
 両脇の観客は半ば義務的に、応援歌に合わせてメガホンを叩く。
 
 翌朝、公園に猿がいた。すでに素振りをしている。一丁前にプロモデルのバッドだ。俺は少し離れたところでバットを振った。猿のフォームはでたらめで、一振りごとによたよた揺れた。途中で飽きたのか、何も言わずに帰った。
 猿が去ったあとには汗かよだれの小さな溜まりができていた。

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