「石褒め」(改)
大事な顧客と飲んだあと、どうも気が重く、そのまま一人で別の店に入る。このまま帰りたくなかった。よく知らない町だったが、ぷらりと立ち寄れそうな飲み屋も多い。
今日の感触はあまりよくなかった。悪い予感がする。まあ、そういうときもある、とは思うが、やはりすっきりしない。何がどうこう、というより、なんだかずっと波長が合わなかった。俺の、いいっすね、すごいっすね、さすがっすね、に対して、先方の眉間の皺がどんどん深くなっていく。最後のほうは、もう鬼じゃん、と思うくらいだった。まあ、そういうときもある。
店のカウンターで隣り合った知らないおっさんとやたらと意気投合して、そこから俺はノリノリになった。おっさんもノリノリになった。
うち来いや。うち来たらええねん。ええねん、ええねん、それでええねん。やいやい。みたいな感じで、俺はおっさんの家に上がりこんだ。
でかい家だった。人を殺したことがありそうな黒い犬が二匹いた。ぺこちゃんとピョートル大帝という名前だと教えてもらった。庭もまたやたらと広く、プールじゃない水を溜めた何かがあった。あれは池というんだよ。酔っぱらった俺の中の何かが教えてくれた。俺は泥酔に近い状態だった。
袖振り合うも他生の縁。
これが俺の信条というか、モットーというか、この仕事を始めたときに、そう信じ込むことにした。そうしないとやっていけないと思った。
俺は元来押しの強い性格でも陽気なタイプでもないが、職種柄、実際、人と会わないことには話が始まらない。数をこなすことはもちろん、あとはタイミングがすべて。何かの機会を逃したら、二度と同じ状況はやって来ない。
そういう心持ちでやってきた。それでも心折れそうになることも多い。麻痺していく中でもやはりひりひり染みるような傷を負うこともあるし、ただただ悲しくなることもある。
この日の飲みはそういう感じだった。だが、そのあとのおっさんとの邂逅は俺を豪邸へと導いてくれた。
とにかく楽しく、テンションも高く、イケイケノリノリだった。また、これだけの屋敷に住むおっさんに営業をかけられるのではないか、という淡い期待を抱きもした。くらくらしながら、好い気持ちになりながら、そんなことも思っていた。何しろ、俺たちはめちゃくちゃ意気投合したのだ。
おっさんは、俺のことをボブと呼んだ。ほら、自分、ボブやんか。ボブっぽいやんか。もうボブ然としとるやん。
Are you kidding me? と答えたらおっさんがさらに機嫌よくなった。俺もすごく楽しくなった。
そんなわけで家にお邪魔する。帰ったにょ、と玄関先でおっさんが言った。酔っぱらっているせいかもしれないが、おい、帰ったぞ、みたいな偉ぶった感じで言わなくてよかった。あ、でも、お手伝いさんとか出てきそうかも、と思ったら、奥さんらしき人が現れた。
この子はボブや。おっさんが俺のことを紹介した。俺はもうおっさんのことを心の社長と勝手にひそかに呼びかけていた。奥さんらしき人は、すみません、と頭を下げた。こちらこそ、すみません、と俺ははっきりとした口調で言った。もちろん、でろでろに酔っぱらっていて、本当にそんなはきはきと言えたのかはあやしいのだが、そんなことを言った。
ものすごく長い廊下に通される。左右には広そうな部屋に繋がるドアがあって、それらを無視して突き当りまで進んだ。
その部屋のドアは自動だった。お店みたい、と俺は思った。実際にそう声に出したかもしれない。
そこは畳敷きの部屋だ。広くはなかったが、足の裏が気持ちいい。どこかのタイミングで俺は靴下を脱いで、そのままだったことに気づいた。親指の爪だけがやけに伸びていることが気になる。
奥には青い石があった。ぬらりと光っている。形は宇宙的というか、どうしてそう思ったのかと言えば、何かで見たロケットみたいな形にも見えたからで、それと、どこか、地球外のものっぽい、とも思ったからだった。
どや、石や。
すごい、っすね。
それは本心なのかどうか、あやしかった。でも俺には褒めるしかなかった。
どや、すごいやろ、どや。石やねん。どう思う?
石すね、と俺は言った。青いかな、とも言った。
そやねん、石やねん。おっさんはにこにこ笑っている。ワオ。俺はおよそボブっぽいことを口にする。
ちょっと、石見とってな。
おっさんは部屋から出て行った。俺は一人取り残された。石を前にして座り、うーん、とうなった。相変わらず酔いは回っていたが、どうしよう、とも思った。
とりあえず、部屋の中を見回す。青い石は高そうな茶色い敷物の上に置いてあった。それ以外に何もない。窓は閉まっている。時計も見当たらない。俺は畳の上に腰を下ろし、石かあ、とつぶやく。自分の声じゃないみたいだった。
おっさんが戻って来た。縦に長いグラスと酒を持ってきてくれた。なんかしらない、赤いおつまみもあった。くにゃくにゃしていた。タコかな、タコだといいな、と思った。でもきっと違うよな、とも。
石、見ながら飲むとうまいんや。どや?
あ、いいっすね。
もはやこれが何次会かわからないが、俺たちはまた飲み始めた。
で、どう思う?
石ですか?
せや。
酒は濃く、冷たかった。うまい酒だった。
うーん、すごいっすね、石だなあ、という感じと、青いなあ、というのと、ちょっとつやつやしてるんじゃないかなあ、というのが、すごい、って思います。
せやねん、石やねん。どう思う?
おっさんはうまそうに酒を飲む。本当にこれを習慣化しているんだ、と思った。たぶんだけど、そうなんだろう。やば、という声か思いを飲み込み、代わりに酒をあおった。つううううと喉が熱くなった。おいしい、とやっぱり思った。俺は赤いおつまみにはまるで手をつけなかった。手を伸ばすつもりもなかった。
石、どう思う?
おっさんが訊く。俺はまだ自分が答えてなかったことに気づく。というか、ある意味では、すでに何回も答えている。答えてないが、答えている。
えーと、これって、舐めたらどんな味するんすかね。
表面がつやつやしているせいか、そんなことを口にした。言った瞬間、あ、やばいかも、と思ったけれど、おっさんはくしゅくしゅと笑った。この日一番の笑顔だった。
ちょっと酸っぱいねん。
おっさんは楽しそうに答えた。俺はなぜか思春期みたいな気持ちになった。舐めたんかい、と言った。少しだけおっさんは真顔になった。そして、せやねん、とさみしそうに答えた。
俺たちは朝まで石を見ながら飲み続けた。途中でうとうとしかけたが、その度に、どや? とおっさんから声をかけられた。そうでないときはおっさんも結構寝落ちしかけていた。
俺は何遍も同じことを言った。たいがいおっさんはにこにこしていた。実にいい酒だった。心からそう思いたい。
一度、おっさんが、石とまぐわったことがある、と顔を上気させながら言ったが、俺はそれを無視した。
家を出る間際、おっさんが、おい、石持ってけや、と怖い口調で渡してきた。あ、やっぱり人を使う立場の人間なんだな、と思った。俺の視界はもう半分以上見えなかった。見えているほうだって結構ぐにゅぐにゃしていた。
その石は青いやつとは違って、灰色でごつごつしていて、全然おもしろみもありがたみもないやつだった。なんでもいいわけちゃうぞ。俺は思ったことのない口調で思った。そして込み上げてきた胃液みたいな酒を胃の底へと送り返した。
奥さんが、すみませんねえ、と玄関先で言った。俺も、こちらこそすみません、と謝った。
俺はどこにいるのかわからないまま、豪邸を出た。犬がそれぞれ、二度ずつ吠えた。そこはひと気のない広い通りだった。太陽の光は鈍く、あらゆるところを照らす。俺はただ石を握っていた。
どや、と頭の中にいる俺が訊いてきたけれど、それを無視した。俺はもう石のことを褒めたくなんてなかった。
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