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2019.09.11

ふと「何のためにこれをやるのか?」ということを考えた時、"経験を無駄にしないため"って浮かんだけど、それと同時に"そのことに縛られすぎてない?"とも思った。
私は病気の経験を無駄にしたくない、その経験を生かして...とか今まで思ってたんだけど、それを考えれば考えるほどそこから抜け出ることができない気がしていて、私の周りにぐるぐるとその"辛い経験"が飛び交ってて、隙間から見える先を見てなんとか歩いてるっていうイメージ。
辛いことや挫折を経験した人は何かそれをプラスに考えたい、意味があることなんだ、そうであってほしいと願ってしまう。そうすることで救われるから。もちろん、そう本気で考えられる人はいいと思う。とても健全で人間として"出来た"人だと思われるだろう。
でも、それを"どう考えたって無駄だった"って思って消化することも健全だと思う。私は今まで病気の経験を無駄じゃなかったと思いたくて、そう思うことでどこか救われる気がして必死にそう考えて来たけど、やっぱり冷静になると無駄だった、というか必要なかったと思う。この辛いことがなくても、私は別の場所で別のことで辛い経験をしていただろうし、何も若くて2度と戻らない時を家の中で過ごさずに済んだだろうなということを、人の青春を見るたびに思う。私はそう思えたことで、少し胸がすーっとした。今の私は、この置かれた状況でどうその経験を能力的物質的なプラス(付加価値ともいうかな)にしていくかということを考えているわけで、決してその過去を無理やりプラスの形にねじ込めて美化して昇華しようとしてるわけじゃない。
だから、人がとても苦しい思いをしている時、「きっとこれも無駄じゃないよ」「この経験が生きていくんだよ」という考えにあまりなれずにいる。たしかに今の私は過去の私と地続きにあるけど、その過去があれで良かったわけじゃない。結果としての今があるだけなのだ。あまりにも辛いことを本人からではなく、他人から美化して昇華させようとすることは本人にとって大事な咀嚼時間を奪うことになると思う。その咀嚼している間に、やっぱりこれを食べて良かったなとか、これは食べなくても良かったとか、本人の感覚として"気づける"ことが大切なのであって、過去ではないのだよなたぶん。

私はやっと口の中が空になりそう。

(この無駄だったという話は髭男爵さんが言っていたことに深く共感したもの)

#日記