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美化や風化が伴う、ジップロック。

メールの通知音が薄暗い部屋の中でひびく。ぼんやりと目を開ける。昼間、頼んでもいないのにジリジリと照りつけていた太陽は、すっかり帰宅時間になったようで半分以上の体を地平線に沈めていた。窓からの風はまだ夏になっていないことを知らせるようにソファーのない部屋をいっそう冷たくする。僕はまだ意識がはっきりしていないまま、枕元にあったスマホを開き、さっきピロリンという音と共に届いた通知を確認した。

送って来たのは高校の同級生、すみれだった。すみれが美大で、まだまだ無名ながらも地道に絵を描き続けていることは前に同窓会で人づてに聞いた。それがやっと認められ、個展を開くということで見に来て欲しいという話らしい。もう何年も会っていない相手からのメールは好意がなくともドキドキと胸が鳴るものだが、よりによって高校時代に想いを寄せていた相手からの不意打ちメールにはそれまでだらだらと寝そべっていた体を勢い良く起こし、動悸とも思える鼓動を感じるほどだった。

行くか行かないか、考える余裕も時間も僕には必要なかった。

とりあえず、行くとだけ伝えた。緑色の手帳をキャンパスノートの間から取り出し、6月のページの12日に大きなマルをつけ、「PM4:30〜 すみれの個展に行く」と書いて閉じる。また開いて確認する。今日はなんだか昼寝のせいか、これ以上眠れない気がした。


メールが届いてから個展に行く予定が明日に迫った今日まで、僕がどんなことを考えていたか、あまり覚えていない。緊張していただろう、ドキドキ胸を高鳴らせていただろう、どんな服でいけばいいのかネットで検索しただろう。個展といえどある程度しっかりした服で行こうと、ネイビーのジャケットやチノパンなどを買い揃えたんだろう。部屋には大きな紙袋がある。でもひとつだけ確実に覚えているのは、決して彼女の名前を検索しなかった。今の彼女の姿を事前に知ることが、僕はフェアに思えなかったから。この御時世、ネットで名前を検索すればすみれがどんな経歴で今までどのような作品を描いて来たか、すぐに分かるだろう。だけど、彼女の中で高校の時の僕で止まっているように、直接顔を合わせるまでは僕の中でもその時のすみれで止まっていたかったんだ。その気持ちを、記憶をそれだけ大切にしたかった。


いつも待ち合わせ時間はギリギリに行くタイプだが、当日は2時間もはやく個展会場の最寄り駅に着いてしまった。少し小腹が空いたため、駅構内にある木目調の外装がおしゃれな喫茶店でコーヒーとミルクレープを頼んだ。食べ終わる頃にはちょうどいい時間になっていたので目的地まで歩くことにした。会場までは小さなビルが並ぶ道、そこから細かく別れる細い道、隠れ家的な定食屋、古い電気屋などが連なっていて、その景色を眺め、堪能しながら歩いているのにもかかわらず、僕の足はだんだんと早足になり、着実に会場へ近づいているのが分かった。

連なるビルの正面に飾られた黒板型の看板に書かれる「2F個展会場B こまち月紫 Tsukushi Komachi『なんでもない。』 」の文字。少し古びたエレベーターに乗り込む。独特な匂いがした。1階から2階に上がるのにそう時間はかからないはずだが、なぜか僕には長く細く続くトンネルのような感覚になる。この扉が開く先には何があるのだろうかと少年のような気持ちでいた。

扉が開いた。がやがやとした人の声が塊となって一気に僕に降りかかってきた。どうやら、なかなかの来客者が会場にいるようだ。まず、目に入ってきたのは正面に置かれた大きな明朝体のオブジェ。個展のテーマである「なんでもない。」という七文字が大小様々に天井から吊られていた。その背景には着物の柄に使えそうな、すみれ、いや"こまち月紫さん"の水彩画作品が飾られていた。しばらくじーっと見つめ、そこに立っていたからか、一人の女性が話しかけてきた。その女性はこまち月紫のアシスタントのような仕事をしているらしく、中には共同で作った作品もあるようで、ひとつひとつどんなに小さな作品であろうと丁寧に説明してくれた。綺麗なパープルの膝が隠れるくらいのドレスワンピースを着ていて、頷く度にゆさりゆさりとパールのピアス光った。足元を見れば、クラシカルな形の黒いエナメルパンプスがしっかりと履かれていた。何よりとても話しやすそうな雰囲気で、にこやかに笑った時に口元のほくろがくっと上がるのが印象的だった。彼女は水彩画よりも実はポップアートのような画風のほうが得意だという話もしてくれ、緊張していた僕も少しずつほぐれていく。

すると、こまち月紫が来客者へのあいさつ回りが終わったらしく、声をかけてきた。出来ることならまだ彼女の話を聞いていたかったのだが、やはり久しぶりに聞いた声は前と変わらず、明るいすみれのままでお互いの近況や作品の感想を軽く話した。しかし来る前から少し期待をしすぎたのか、昔ほどの高鳴りを感じなかった。ハリのある黒髪はすっかりブラウン色に染め上げられ、凛々しく存在していた眉も細く整えられていた。正直、残念だった。僕の心のなかにいて、この会場でも同じようにいると思っていたすみれはもう何年も前に消えていて、風化した記憶の中だけに存在していた。もしかしたら無意識のうちにすみれを美化していたのかもしれない。しかし、それをいくら僕が大切にしていても、その風化を止めることは出来ないし、その中にだけ存在するすみれにはもう会えないということも、ぜんぶ、全て悟った。はじめての失恋だった。勝手に、ひとりで、ひっそりと、失恋を経験した。



それももう3年前になるのかとカレンダーの「6/12」という数字を見ながら思った。

今、自分が座っているソファーに面する壁にはどれもお気に入りの鮮やかな色のポップアートが3つ並べて飾られていて、パールのピアスを揺らしながら僕の名前を呼ぶ彼女が、見える。くっと上がったほくろを撫でて、いつまでもこの記憶は風化しないでくれと願いを込めながらそっと柔らかい頬に触れる影がたしかにそこにはある。