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読書記録
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#読書

『外は夏』(キム・エラン)読了

携帯電話の中の訃報を思い出しながら、ふとスノードームの中の冬を思った。球形のガラスの中では白い雪が舞い散っているのに、その外は一面の夏であろう誰かの時差を想像した。p189 ひとつひとつの物語を読み進めるとき、名前もつけられぬまま浮遊していたさまざまな感情を、光を反射せず吸収していく酷くざらついた白い紙製のファイルにひとつずつしまうようだった。ふくざつに入り組む感情たちは早く名前をつけられて安堵したいのか、あるいは絡まりあったネックレスを解く作業を諦めてほしそうに、私の周り

『アーモンド』(ソン・ウォンピョン)読了

人は誰もが”アーモンド”を2つ持っている。 アーモンドを語源とする扁桃体は、不安や恐怖といった情動を司る場所だ。つまり、感情と言われるようなものを感じる場所といったところだろうか。 そんな場所を、私たちは頭の中に持っている。 しかしユンジェはその扁桃体、アーモンドを持っていながらも「感じる」ことができなかった。 「僕は、周りの人がどうして笑うのか、泣くのかよくわからない。喜びも悲しみも、愛も恐怖も、僕にはほとんど感じられないのだ。感情という単語も、共感という単語も、僕には

『月と六ペンス』(サマセット・モーム)読了

ストリックランドは人間が意識して感じられる領域を超えた場所にある美を求め、そこに人の見返りや干渉などそのほか一切を求めなかったが、もしかしたら誰よりも自分の美に対する情熱を愛情深く思っていたのではないだろうか。 まるでそれがろうそくの火の如く、音もなく消えてしまうことを一番に恐れるように。 実在しない男の人生に心動かされたわたしは卑怯な気がする。熟れすぎたいちじくを、さもこの世の何よりも耐え難く美しいと感じることで自分を慰めるみたいだ。とても清々しくなれない。 読み終わっ

『悲しくてかっこいい人』(イ・ラン)読了

本当に個人的な日記を読んでしまったと思った。 しかし、その個人的な日記の中に自分の姿を見つけたとき、彼女にとっての個人的な日記は私にとっての個人的な日記になるのかもしれないと思った。決して彼女の日常を私の日常へとすり替えるわけではなく、自分のごく個人的なことを淡々と記すことは誰かの個人的なところをやさしくノックすることなのかもしれない、と思う。 P68 「もしかしたら、わたしは忘れられないために今も都会に暮らしているのかもしれない。不幸を歌い、その歌をわたしのように不幸な

『となりのヨンヒさん』(チョン・ソヨン)読了

これはSF小説だから設定は現実と違うはずなのに、どうも"この宇宙"を見たことがあるような気がしてしまう。 それは錯覚として扱ってもいいけれど、この話を人が書いているという点を重視するなら、人の中にこそ宇宙は広がるのかもしれないとも思う。 例えばあまりにも辛いことがあったとき、現実という重さでのしかかるものを自分から丁寧に剥がし、しばしじっと眺めるような時間。時折私たちは場所や時間、概念をも超越した途方もない空間に身を置いて、その現実を見つめる準備をしなければならないのかもし

『シッダールタ』(ヘルマン・ヘッセ)読了

『デミアン』からヘッセにハマってしまった私にとっては、案の定好きな物語だった。ヘッセの著書は各出版社から出版されているが、なかでも新潮はていねいな中に少しこってりとした形容を感じる。しかしこれが個人的には心地よい。 シッダールタは釈迦の出家前の名前であるが、ここでのシッダールタは実に人間らしく見えた。仏陀よりもずっと人間臭く、苦悩し、欲にまみれ、快楽を求め、恐ろしく深い自我に堕ち、愛を知り、また自分の人生を見つめ直した。その過程は修行を繰り返していた前半を越えた後半に、それ

『倚りかからず』(茨木のり子)読了

著者が73歳のとき、今から20年近く前に出した詩集。 しかし、どうしてこんなにも今聴きたい言葉がたくさん詰まっているのだろうか。買ったのは少し前だけど、ふと何気なく手にとって読んだ今、どうしようもなくこの詩を欲していたように思う。 甘く慰めるわけでもなく、粉骨砕身生きていけと激をとばすのでもなく、静かな怒り、ささやかな喜びをそっと書き記したメモのような言葉たち。それは私の心を決してむつかしくせず、流れ行く川の如くごく自然に染み渡っていった。 ここにある言葉たちは、私より

『ハングルへの旅』(茨木のり子)読了

ハン・ガン氏の흰(すべての白いものたちの)を読んでから、私はハングルに興味を持つようになり、その"感覚"を掴みたいと今年から細々と学んでいる。 とはいえ、たった数ヶ月で劇的に進歩できるほど外国語の学びは甘くなく、ハングルを何とか音として読め、たまにわかる単語がある程度で、文を作る・話をするなどはまだ程遠いところにいる。 そんな中でたどり着いた本著は、50代にしてハングルを学びはじめた茨木のり子氏のエッセーである。さすがは詩人、ときどきハングルを使いながらも文字の歴史、国の歴

『デミアン』(ヘルマン・ヘッセ)読了

なんだこれは、なんとも形容しがたい。それでいて私をひどく高揚させ堕落させ夢想させた。私はこの物語を、今、読まなければならなかったし、それは私自身が導き引き寄せたものだと強く確信した。そうでなければ、この物語に出会うことはなかっただろう。 それだけ私と深く繋がっており、またこれを読んだ人々とも繋がっているのだろう。間違いなく、私にとってこの一冊は人生に値するべき作品だ。 もっと彼がみる世界を見つめてみたい。

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ)読了

私の持っているエネルギーはこの167(192)ページにすべて注がれたといってもいい。そのくらいひどく体力を消耗させた。 この本のタイトルは1982年生まれに多い名前から付けられたものらしいが、これが女性にとって"ありふれた人生"であることに恐怖を感じるし、また疑問を持たなければならないと思った。なぜなら、私の人生にも"よくある場面"として散りばめられているからだ。 最後の一行を読んで、「えっ...」と呟いたあと、私はしばらく本を閉じて床を見つめた。これはハッピーエンド

『すべての、白いものたちの』(ハン・ガン)読了

私には1度でもこの世に生を生み落としたきょうだい達は居ないと記憶しているけど、もしかしたら居たのかもしれない彼女あるいは彼らの記憶は淡々と私の血や肉となり、また白いものたちへの祈りとなり、巡っていくのかもしれないと思った。 彼女の言葉を母国語のまま受け止めることはできないけど、彼女の残した景色はこちら側にそっと寄り添うようで心地よい痛みを覚える。他の作品も読みたくなった。 web.kawade.co.jp/bungei/2484/ 「『すべての、白いものたちの』は、