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血まみれの海尊〜秋元松代『常陸坊海尊』について〜

早世したマーク・フィッシャーという人物の『資本主義リアリズム』という本が最近邦訳されたのたが、資本主義リアリズムの定義はさておき、その本が興味深いのが、なぜここ21世紀において異常なほどに精神疾患患者が急増しているのか、という疑問であった。ネオリベの枠組みでは、これらの精神疾患患者たち(メンヘラなどと蔑称で呼ばれる人たち含め)は、脳内における化学物質のとある種類の欠乏や過剰によって生起しているのであるとされ、化学的(科学的)治療対象とされる。つまり、患者もまた、新たな資本の増殖のための餌食にされるという現代の自動機械仕掛けがあるのだが、フィッシャーの主張は、そもそもネオリベ的資本主義こそが精神疾患を根源的に産み出しているのだという相関的データの事実を見過ごしてはならないという点にある。

『資本主義リアリズム』に触れたのは、なにも余計な言辞を弄しているわけではなく、秋元松代『常陸坊海尊』に現れる雪乃と啓太という人物たちもまた、そういった現代的精神疾患を抱えているように思えるからだ。『常陸坊海尊』という作品は直線的時間(近代)と永遠回帰の時間(神話・民話)とが、それぞれの中心を持ち並行するバロック的作品であり、フォークロアが近代に感染したり、逆に近代がフォークロアの時間を次第に圧迫したり、お互いに反発・侵食し合っている。お互いに一歩も譲らぬその歪さこそが『常陸坊海尊』の魅力であろうと思うのだが、気になるのは先ほどの雪乃と啓太である。ひとまず彼らを説話論的に読み解けば、アマテラス、スサノオの神話関係が投影されていると言えるが、なにか彼らを、裏アマテラス、裏スサノオと名付けたいような、神話に対する反神話のような胎動を感じるのだ。

蜷川幸雄氏とともに、秋元松代『近松心中物語』を作り上げたプロデューサーの中根公夫氏は、蜷川氏が最期まで『常陸坊海尊』にこだわっていたという話をしてくださった。そして、蜷川氏は『常陸坊海尊』を演出できなかったのではないかとも。わたしはふと思ったのだが、おそらくそれは『常陸坊海尊』に「青春」がないからではないか? 蜷川氏はアイドルという存在を「大衆の欲望の最大公約数を反射するもの」と言っていたように記憶するが、それに倣えば、青春とは、同じく大衆の欲望の最大公約数のようなところがある。雪乃と啓太は「青春」から爪弾きにされている。

『劇作家 秋元松代』という秋元松代の人生のあらゆるファクターと衝迫を、同密度で紙の束の中に綴じたような書籍の著者である山本健一氏の話からは、「過剰」と「孤絶」を同時に生きているような秋元松代の壮絶とまた一方で秋元松代の体温を感じ取ったのだが、雪乃と啓太が「青春」から撥ねつけられているのは、彼らの「過剰」(雪乃)と「孤絶」(啓太)からであろうか。エネルギーの過剰や孤絶の意識がすべて青春をもたらすとは限らない。むしろ、そういった「最大公約数」的青春から弾かれるものもいる。
「過剰」ゆえに、天岩戸にこもることのないアマテラス(雪乃)、「欠乏」ゆえに、母の喪失に対して糞尿を撒き散らし憤ることのないスサノオ(啓太)。そんな裏アマテラス・裏スサノオは神話・物語から疎外され、空虚だ。そして彼らの空虚さは、近代と前近代とのバロックという物語からはみ出し、そのまま現代に突出している。そこでは、「ほしいものが、ほしいわ。」(糸井重里)という他人の欲望を欲望するしかない資本主義が貫徹しようとし、欲望の螺旋の只中で多くのものが精神疾患を抱え、躁病と鬱病を繰り返しながら、アパシーに陥っている。雪乃と啓太は、その住人ではないか。

果たして、ここが問題である。現代の自動機械仕掛けは、けっきょくは神話的世界や土俗的世界の中に回収・消去されてしまうのだろうか。信仰が彼らを救うのだろうか。第1・第2・第3と現れ続ける常陸坊海尊という存在を考え続けていた時、ハッと思い当たった。その存在を信仰の永遠ではなく、第1・第2・第3の断絶(違い、ではない)と捉えてみたらどうかと。「人間は堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、……天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、……自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と述べた坂口安吾の言葉が頭に浮かんだ。そして、自らの常陸坊海尊を刺殺しながら、自らの常陸坊海尊をあみだそうとする血まみれの風景が見えた。妄想だ。だが、この妄想がある限り、わたしは『常陸坊海尊』という作品を愛することが出来る、と、そう思った。

(日本演出者協会主催「日本の戯曲研修セミナー 秋元松代を読む!」の当日パンフレットより転載)

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