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敗戦から75年。戦争の「中」と「後」。 ――タカクラ・テル「けやきのちかい」が問いかけるもの(『情況』2020年夏号掲載)

 ある村の話である。日中戦争からアジア・太平洋戦争へと続く戦争のさなか、農学校を卒業したばかりの戸田利明と大川弘のふたりは、いたいほど手を握り合って、由緒あるけやきに誓いをたてる。「ふたりで村の農業を根本から改革しよう。今のような古くさい農業のやり方ではしかたがない。日本をよい国にするには、農業を改革しなければならない」。隣り合う家で幼少期から一緒に育ったふたりにとって、源義家、通称八幡太郎に縁があるという両家のあいだにあるけやきは、村にある古いしきたり、役に立たないものの象徴だった。打ち壊すべきものだった。だからこそ、未来への変化の約束をあえて「けやきのちかい」とする。
 やがて戦争が終り、利明は片足を負傷して帰国する。自分の分まで弘に働いてもらおう、そう思っていた利明だが、弘が戦死したことを聞かされる。途方にくれ、なにもかもにやる気がでず眠いばかりの利明。ふと村に出てみると全体が様変わりしていることに驚く。まるで自分は浦島太郎のようだ。「村ぜんたいがそんなにも変わっていたんだね。村ぜんたいの耕地せいりが完全にできあがっている。田も畑も大きさがきちんときまり、ごばんの目のようにまっすぐにあぜが通っているのを見たときに、ぼくは、じっさい、うれし泣きに泣いてしまった。その上を、あのとおり、トラクターがすばらしい音をたてて走っている。ゆめじゃないかと思ったんだ。ぼくと弘くんとは、畜力(牛)を入れようとちかいを立てた。ところが、その畜力をのりこして、トラクターが電気で走っている。ぼくたちも、そこまでは考えていなかった。ぼくも、弘くんも、もう時代おくれだ。弘くんが死んだって、ぼくの足がなくなったって、何でもない。しかし、よくここまできたもんだなあ」
 戦争は終わったが、自分はカタワになり農業ができない、さらに盟友の弘は戦死していた。目の前が真っ暗になっていた利明は、合理的に生産力を向上させるトラクター導入による農業改革が実現された村を目の前に、自らの戦争での負傷も、弘の死も、そんなことは「何でもない」ことなのだと発見する。その後、利明は弘の妹である芳江からの提案でトラクターの運転を試みると片足の⾃分も機械を使えば農作業に従事できる能⼒が十分にあることを知る。さらにはお互いの農業へと取り組む熱意と合理性を認め合った⼆⼈は結婚することを了承する。それを聞いた利明の親⽗は、職⼈を呼び寄せ、両家の間にあるけやきを引き抜き、すでに崩れかけている塀を取り壊すようせっつくのであった。

 戦後すぐに発表されたタカクラ・テルによる戯曲「けやきのちかい」のあらすじである。一九四六年の『世界評論』八月号に掲載され、そののち農村青年向けの、つまり素人演劇向けの戯曲集などにも収録されている。このあらすじだけを読めば、「けやきのちかい」は戦後の復興や農地改⾰を題材とし、旧弊とした封建的農奴制からの解放を歌いあげるドラマのように⾒える。もちろん戦争による死を戦後の復興と比べて「ごく小さいこと」「何でもない」といってしまう精神にはたじろいでしまうが、それを除けば、毎夏に蝉の声とともに放送されるいわゆる戦争モノのドラマツルギーと代わり映えはしない。戦時下のなか、若者たちは日本の非合理な現状に不満を抱きながらも大志を抱き、戦争によって大きな痛手を負いながらも、戦後になり自由とテクノロジーという武器を手に新たに出発する。だがこの作品の奇妙なところは、いや実は全く奇妙ではないことをのちほど明らかにするのだが、戦中に利明と弘のあいだにかたく交わされた「けやきのちかい」である農業改革がトラクターの導入という形で実現するのは、大方の現在の戦争モノの筋に反して、戦争の「後」においてではなく、戦争の「中」においてである、という事実なのである。

 先ほどのあらすじでは意図的に抜け落としていた情報を引⽤してみよう。「今じゃ、⽇本⼀の村⻑さんだって、みんなそういってますぜ。戦争ちゅう、⼈⼿がなくなっちまって、村の⽥んぼがあれ地になりかけたのを、村⻑さん親⼦がきかいを使うことを発明して、やっと村が助かったんですからね。こんな村はめったにないんでしょう?」村の若者たちが徴兵され、労働力不足に直面したこの村では、そうした戦時下のただなかで、村長の一声で当時まだ見慣れぬトラクターをいち早く導入し生産力を増大することに成功した。そのまま戦争は終りを迎え、片足を失い帰郷した若者である戸田利明は、その「戦時中」の改革の目覚ましさに、「戦後」のなかで遅れて気付き、トラクターという労働手段のおかげで新たな一歩を踏み出すことができた、という筋立てなのである。この村では、戦時下と戦後が見事に連続している。
 ところで、この「日本一の村長」というのは、戦死した大川弘とその妹である芳江の父親のことであるのだが、彼は戦争という非常時の中で、ただひとり闘った成果として村の発展をもたらしたのだろうか。つまり、「こんな村はめったにない」という、さきほどの合理的な生産力の増大は、戦争に抗していたからもたらされた、奇跡的な、戦時下の抵抗の物語なのだろうか。

 戦時下において、食料の供給統制は重要な国策であった。日本農業史の野田公夫によれば、日本の戦時体制においては、農業政策は通常三つの時期に区分されるという(「戦時期日本農業問題をめぐる諸論点」)。第一期は日中戦争期に相当し、機械力や化学力(肥料・農薬)の普及が本格的に開始された時期。第二期はアジア・太平洋戦争の前期に相当し、一九三九年の西日本と朝鮮半島を襲った大旱魃により食糧問題が起き、総力戦体制に相応しい農業・農村の組織化と統制が本格化する時期。第三期はアジア・太平洋戦争の後期に相当し、長期的な視点からの開拓などは放棄され、即効的効果のある既墾地改良と、労力不足に対応した労働能率の合理的向上が目指された時期。国家がそれぞれの時局に対応しながら、科学的方法を用いて農業増産政策を施していたことがわかる。いずれにしろ「飯」がなければイクサはできぬわけであって、農業の生産力を高めることは戦争のただ「中」でこそより希求され推進される重要な戦時政策である。
 そこでの柱となっている政策の一つが、農業の機械化とそれに伴う土地の集約化・共同利用である。当時の戦時下において農業機械化論を唱えていた人物のひとりに吉岡金市という人物がいる。彼は時局下における労働力を強化するために、そして同時に農業労働力の主役となっている女性達の労働負荷を軽減するために、トラクターの導入を提言していた。「ますます宣戦が拡大し、兵器産業に人間と馬が動員されるなか、女性への負担は大きくなっている。女性は、子どもを産み育てるという重要な役割があるが、筋力を用いる馬耕や負担の大きい農作業のなかで健康状態も悪化している。農業機械化は、そういった農村の健康問題、母性の保護の意味でも重要だ」(藤原辰史『トラクターの世界史』)
 「日本一の村長」の娘、芳江自身の台詞によればこうだ。「私なんか、何にもできなくて、ただ戦争ちゅう労力がたりなくて、困りぬいていたときに、トラクターを入れて、やっと何とか切りぬけただけのことですわ。もっとも、トラクターを入れるまえに、土地の交換分合をやって、耕地せいりをするのには、父はずいぶん苦労をしたようでした。古い考えから反対する者がずいぶんありましたし、といって耕地せいりをしなければ、きかいはぜったいに入れられませんしね。」徴兵による労働力の不足、女性農業従事者の負担増、それへの対策としての、機械導入による労働能率の増大、それに伴って必要となる農地の交換分合。これらはすべて、戦争の「中」の緊急事態に対応するためだからこそ、村の旧習を打破することに成功できた「戦時下」の革新的政策なのである。「日本一」という形容には、戦時中の国粋主義的掛け声が響いているのだ。

 こうしてみると、戦争の「後」ではなく、戦争の「中」において、村の皆が喜ぶような革新的・合理的政策が行われていることはなんら「奇妙」ではないことが明らかであろう。総力戦の「中」では、一方で生産力の増大が、一方で資源の節約と調整が合理的・科学的に行われる必要があり、トラクターの動員は革新的だが国策に忠実な政策なのである。もちろん、日本の戦時下においてそれらがすべて巧みに実行されたとは言えないし、ここで戦時下の日本の国策を寿ぎたいわけではない。重要なのは、そうした資源や人材の全体的動員の合理化というモーメントは、「けやきのちかい」に描かれたように、そのまま戦争の「あと」に連続しているということだ。日本の戦時期から高度経済成長までをひと繋がりのものとして捉える山之内靖の言葉によれば、「総力戦時代が推し進めた合理化は、公生活のみならず、私生活をも含めて、生活の全領域システム循環のなかに包摂する体制をもたらした。戦後日本に成立した憲法は民主主義の原理を高らかにうたいあげたという点で一つの頂点にまで達したといってよい。にもかかわらず、この民主主義は、戦時動員によってその軌道が敷かれたシステム社会化によってその内容を大幅に規定されていた。ここにおいて実現された福祉国家(welfare-state)は実のところ、戦争国家(warfare-state)と等記号によって繋がっているのである」。タカクラ・テルの「けやきのちかい」は、戦中の合理的・科学的政策の成果に、戦後になって「遅れて」気付くというドラマツルギーをつくりあげることで、戦中と戦後との連続性を興味深いかたちで表現する作品なのだ。

 話を迂回させたい。「⽇本は負けると分かっていても反対できない空気がある」。数カ月前にニュースになったこの言葉を覚えているだろうか。新型コロナウイルスの世界的流⾏の影響で、東京オリンピック・パラリンピック2020の開催が危ぶまれていた中、二〇二〇年三月一九日、JOC理事の⼀⼈である⼭⼝⾹が発⾔したものである。むろん、東京2020の延期を検討するべきだという意⾒である。けっきょくというか当然というか、大会は延期となったわけだが、この⼭⼝の発⾔に対しては、JOC会⻑である山下泰裕が「色々な意見があるのは当然だが、JOCの中の人が、そういう発言をするのは極めて残念」と苦⾔を呈する形となっていた。山下のこの小言のような応答は、「反対できない空気」を正にパフォーマティブに具現化している。⽇本の組織における同調圧⼒とそれがもたらす無責任の体制は終りなく回帰してくることの証左である。「コロナウイルスとの戦いは戦争に例えられているが、⽇本は負けると分かっていても反対できない空気がある」。そう発⾔を⾏った⼭⼝の脳裏には、アジア・太平洋戦争下での⽇本の意思決定プロセスと、現在の日本の組織のあり方との類似が念頭に置かれていたに違いない。
 ここで考えてみたいのは、「現在はまさに戦前だ・戦中だ」という類似の思考はなにを意味しているのか、ということである。それはたとえば、大会組織委員会の会長である森喜朗の「私はマスクをしないで最後まで頑張ろうと思っている」といった本気なのか老衰なのか判然としないその発言が想起させるような根拠なき精神力や根性で危機を乗り切ろうとする非合理的精神と、戦時中のスローガン「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「東條首相の算術2+2=80」のような過剰な自助努力を促す国民精神総動員のファッショ的精神との類似のことを意味するのだろう。だが、さらに問うなら、そもそもそういった戦前・戦中と現在とが類似しているというときに、戦後という時間軸はどのような位置づけを与えられているのだろうか。そこでは、戦前・戦中/戦後/現在との三つの層が想定され、そのうえで、非合理的ファシズム体制である戦前・戦中≒現在、そして民主主義体制である戦後、そのふたつに分類され、合理/非合理という対照性において比較されているのではないか。すると、戦前・戦中と戦後とはそれぞれ別の精神を体現する断絶したものとしてイメージされてしまうのではないか。
 戦前・戦中と戦後との連続/断絶というテーマはすでに語り尽くされたものかもしれないが、「現在はまさに戦前だ・戦中だ」という類似の思考では捉えきらない現実のありようは山ほどあるのだ。戦時下の⽇本というイメージは様々なネガティブなイメージを引き連れているのだが、そうした⼀義的なイメージでは見逃してしまうのが、戦時下に行われた合理化・科学化といった要素であり、総力戦が用意した動員体制が戦後の復興、さらには高度経済成長の土壌となっているという戦中と戦後との直接的連続性なのだ。
 「この作品の奇妙なところは、戦中に利明と弘のあいだにかたく交わされた『けやきのちかい』という農業改革が実現するのは、戦争の『後』においてではなく、戦争の『中』においてである」と書いてしまったのも、戦中を非合理で不気味なものとしてだけ捉えてしまうバイアス、戦中と戦後とを断絶したものとして考えるバイアスからみたときにこの作品のドラマツルギーが「奇妙さ」をもっているからに過ぎない。

 さて、タカクラ・テルの話に戻ろう。タカクラ・テル、本名高倉輝豊は一八九一年に高知県高岡郡に生れた。父親は医者をしていたが、タカクラ・テルが物心つくころには村役場に勤めていたらしい。一九〇三年、一高生の藤村操の自殺に大きなショックを受け、人生を考えるには哲学の学習が必要と痛感する。一九〇九年、一九歳のとき、親族の薦めで岡山医学専門学校をうけるとみせかけながら、京都の第三高等学校を受験して合格。一九一二年には京都帝国大学文学部英文科に入学し、演劇の研究や上演に励んだ。その後は翻訳や戯曲の執筆を精力的に行うが、文壇とは絶縁してしまう。菊池寛ら文壇からの原稿の拒否などのボイコットがあったとのことだが、真偽はよくわからないようだ。一九二二年から一九三二年にわたっては、哲学者の土田杏村の誘いで上田自由大学にて世話役および講師を務め、農閑期の農民たちにむけて文学論を講義した。その間に輝豊から輝へと改名する。一九三三年、教員赤化事件と呼ばれる二・四事件において農民組合員とともに上田署に検挙され、そこで佐野・鍋山の転向宣言を知ることになる。一九三四年に釈放され、東京へと居を移し、名前の表記をタカクラ・テルとする(以上、山野晴雄が作成したタカクラ・テル年譜に基づき記述した)。
 私が初めてタカクラ・テルという名前を知ったのは思想の科学共同研究『転向』においてであった。『転向』に掲載されている魚津郁夫「ある大衆運動家――タカクラ・テル」という文章は基本的にはタカクラ・テルの転向後の活動に焦点を当てているものだが、タカクラ・テルの転向の問題を次のように要約する。「一九三四年(昭和九年)、タカクラは『心にもなく』『当局をあざむくつもりで』転向上申書を出したと言う。たしかに彼は、その後何度も弾圧をうけながら、大衆解放への情熱を失わなかった。……しかし『民族主義』とまた『生産力理論』と結びつくことによって、結果的にはファシズム体制に奉仕し、戦争に協力した点で、彼自ら言う所の偽装転向は挫折したと言わざるを得ない」。ここに登場する転向後の活動の拠り所であった「生産力理論」というものが、戦後すぐに執筆された「けやきのちかい」という戯曲にはそのまま反映されているのだが、まずは転向後のタカクラテルの活動を概観しておこう。
 タカクラ・テルの転向後の中心的活動には、国語・国字運動、国民文学確立、農業問題・農村協同組合設立との3本柱があった。いずれの活動も民衆のなかに入り、民衆の内発的な力を生み出すための活動である。国語・国字運動というのは漢字をなるべく排斥し、また発音に則した表記にすることで、インテリ向けの書き言葉を一般大衆に向けた言葉へと変えて行く運動である。「けやきのちかい」に漢字が少ないのも、名前の表記をカタカナにしたのも国語・国字運動の一環である。ちなみに歴代首相たちの言葉遣い、原敬の「釈明」、浜口雄幸の「善処」、広田弘毅の「恪循」などの新しい言葉の使用を「自分の誤りや不決断を一般大衆にごまかすために新しく作り出した言葉」(山野晴雄「戦時下知識人の思想と行動――タカクラ・テルの場合――」)だと非難していたというのは、現在のコロナ禍での政治家やその政策のフレーズを思うと興味深い。また、国民文学の確立というのは、国語・国字運動と重なる部分をもっているが、封建的な思想を排した、読者層が身分によって限定されない、真に大衆的な国民文学を「講談や大衆文学の手法をうまく生かし」(『転向』)ながら創作することであり、その代表作が『大原幽学』『ハコネ用水』という作品である。そして三つ目が農業問題・農村協同組合設立の活動である。
 タカクラ・テルが農業問題に興味を持ったのは、上田自由大学において直接的に農業労働者たちと関わっていたことが大きい。一九二八年にはタカクラは実際に協同組合運動を指導し、浦里農民組合が結成されている。その後、浦里村は村長の宮下周のもと、一九三六年には全国有料更生農村として表彰されている。(庄司俊作「優良更生村浦里村長宮下周言行録2」)貧農小作人たちが小作料を払うとすでに生活が不可能になる状況、農業恐慌のたびに食料が不足する状況などを身近に見ることから、農村の改革の必要性を強く感じていた。
「一九三九年十月以来、彼は『生産力理論』を農村問題に援用した。すなわち彼は、戦争によってかえって逆に生産力を高め、農村を合理化することが出来ると考え、従って戦争を認め、戦争に便乗することによって、農村協同組合を作り、農村を改革しようと企てた」。そのように『転向』のなかには書かれている。「生産力理論」というのをひとことで説明する能力をもちあわせていないので、同じく引用するが、生産力理論とは「⽣産関係を抜きにして、戦争による⽣産⼒の増⼤によって望ましい社会が実現する」ものと整理されている。
 タカクラ・テル自身の発言を見てみよう。「満州事変という非常時局は、村の生産力に大きな不平均を生み、その不平均を平均する必要がもととなって、それまで対立していた、地主と小作人、自作農と農業労働者、そういう農村の分裂した層が、新しい形で結びついた。もっと直接ないい方をすれば、それまで日本のあらゆる農村の最も大きなもつれだったものが、今や、解決の道へ向って、大きく踏み出したということになる。」(「農村協同組合の提唱」一九三九年)

 このようにタカクラ・テルの活動を見てみると、「けやきのちかい」には「生産力理論」を含めた彼自身の活動が見事に反映されていることがわかるだろう。「けやきのちかい」劇中の「日本一の村長」が行ったトラクターの導入、それにあわせた土地の集約化・整形化という農業改革はタカクラ・テルが実践的に、また理論的に推奨していた戦時下の農業合理化運動の形象であるのだ。そうして同時に、主人公の戸田利明が戦争の「後」になって戦争の「中」での革新的事業に気付き、戦争における傷や死を「何でもない」といってのけるドラマとして作り上げたことは、戦後になったときに、タカクラ・テルがみずからの戦時下の活動をどのように捉えているか、どのように理解してもらいたがっているか、そのひとつの表れとして考えることができる。戦時下のファシズムと同伴しながら農業・農村の合理化・組織化を行ったことを、戦後においても正当化するという意味合いがそこにはにじみ出ている。戦中と戦後をまたいだ誰しもにのしかかる重い課題である。だが一方で、戦後においても「生産力理論」が重要であったことは経済学者の⾼島善哉による次の整理からもわかる。「戦争を機縁として⽣れた⽣産⼒への関⼼は、終戦と共に決して終りを告げなかつた。わが敗戦経済の実態は、何よりもまず⽣産⼒の回復と復興ということをもつて問題解決の最後の鍵たらしめた。そこで再び⽣産⼒に関する科学的並びに前科学的論議が私たちの周辺に充満することになる」(「⽣産⼒理論の課題 : ⼀つの問題提起」)。
 こうした戦争と生産力との複雑な関係は、トラクターという機械ひとつをとってみても興味深いものがある。「けやきのちかい」のなかでは「トラクターを入れるまえに、土地の交換分合をやって、耕地せいりをするのには、父はずいぶん苦労をした」と芳江が語るように、村の人々の反対を説得して導入されたトラクターによって村は国家への米の供出にも耐え、村人たちも困窮せずにすんだことが伺える。だが、文明の利器であるトラクターは人々を助ける純粋な科学技術である一方で、その技術の恩恵は戦時下の情勢と不可分の関係にあることから、労働力の節約は男性労働者を戦場に送ることで兵士を創出し、また食料の生産増大は銃後の暮らしの守りに貢献するという役割をもつものでもある。農業史研究の藤原辰史『トラクターと戦争』にはこう書かれている。「一九一六年、イギリスやフランスは、第一次世界大戦の膠着状態を打破するための戦車の開発を始めるが、それは農業用の履帯トラクターから着想を得たものであった。その構造上の類似性ゆえに、第二次世界大戦中には、各国のトラクター工場は戦車工場として転用される。つまり、トラクターと戦車は、二つの顔を持った一つの機械であった」。トラクターは誕生のそのときから、多くの科学技術と同様にというべきか、戦争と密接な関係があるのである。

 ここまでは農業の「生産力」という観点から「けやきのちかい」を取り上げてみた。次に、まったく別の角度から「けやきのちかい」に形象化されている「生産力」について検討してみたい。それは人間関係という「生産力」である。タカクラ・テルはみずから「けやきのちかい」について次のような言葉を残している。「わたしわ、戯曲『けやきのちかい』で、今わ愛していないが、しかし、この人とけっこんすれば、必ず愛するよーになるにちがいないという確信おもって、けっこんする、農村の娘おえが(描)いた。これわ、これまで、ほとんど、どこの文学にもえがかれたことのない、新しい人間でわあるまいか? しかし、こーいう女お、わたしわ、たくさん知っている。そして、それらわ、いずれも、すぐれた人間だ」(『愛と死について』)農村の娘とは芳江のことである。「けやきのちかい」における芳江の「愛」の物語をもう少し詳しく説明しよう。
 農業へと取り組む熱意と合理性を認め合った戸田利明と大川芳江は結婚することになるのだが、実は戦争に行く前の利明は一度芳江にプロポーズをしたことがあり、そのときはすげなく断られている。戦後になって芳江が利明との結婚を受け入れたのは、けっして利明の戦争での負傷に同情したからではない。また、利明が再びプロポーズをしたのは未練からではない。利明は片足の自分には農業ができないと考えていた際にはこう言っていた。「一生命がけで百姓をやる気だったから、それで、芳江さんのような人をもらおうと思ったんだぞ。だから、百姓のできなくなった今は、けっして芳江さんをもらいたいなどと思いはしない」。利明はトラクターを利用することで農業が出来ることに気付き、そうであればと、農業に力を尽くしている芳江との結婚を望み、一方で芳江は、利明の農業と農業機械への熱意とその考え方の合理性を信じ、結婚を決めるのである。芳江と利明の妹である弓子との会話をみてみよう。

弓子 でも、あなたは兄を愛していらっしゃらないじゃありませんか? それでも、あなた、兄と結婚する気なんですの?
芳江 さあ、愛などということは、私には、どうも、よくわかりません。でも、私、利明さんを信じています。利明さんとなら、一生いっしょに仕事をして行けると思います。私はそういう信じられる人と結婚したいと思います。そういう人とくらしていれば、きっと愛情もわくにちがいありません。今は愛情がなくても、やがてきっと愛情がわきましょう。私はしあわせになると思うんです。
弓子 待って下さい。そんな考え方って、あるでしょうか? あなたは、私には、人間ではない、何かほかのもののように見えます。しかも、兄はあんなかたわです。
芳江 ええ。でも、利明さんはりっぱな百姓ですよ。足がちゃんとそろっていても、たいていの百姓は、百姓として、利明さんよりずっと劣っているんですよ。

 こうした恋愛観と対比されるのは、いまの会話に出てきた利明の妹の弓子が抱いている結婚観である。弓子はみずからの嫁ぎ先が決まっているにもかかわらず、次のように言うのだ。「ほんとうは、私、大きなゆめを見ていたんです。およめに行くなら、やっぱり、すきですきでたまらない人のところへ行きたいと、ずっと思いつづけていました。一生のことです。すきでも何でもない人のところへおよめに行くなんて、どうして考えられましょう? もえるような愛情、そして、それから結婚へ。これが人間の命だと、私は、今でも、考えています」。タカクラ・テルはこの弓子の恋愛観よりも利明と芳江の恋愛観を「すぐれた」ものとして訴えたいのだが、ここにも「生産力」という理念が入り込んでいる。「恋愛も、けっこんも、家庭も、生産者が、生産の協力者として、異性と結びつくことおいみする。したがって、それわ、一生おつーじて、深まり、高まり、清まっていく。恋愛の完成するときわ、死ぬ時だ。」(『愛と死について』)彼らの「恋愛」は「生産」において結びついているのだ。
 さらにいえば、利明と芳江のふたりの結婚は、「地主と小作人」の新たな結びつきの象徴でもある。実のところ戸田利明の家はつぶれかけた地主の家で、大川弓子の家は昔その小作人の家であった。大川家は戸田家の縁側に頭をこすりつけて土地を譲り受け、弓子の父の代には「日本一の村長」と呼ばれるまでになったのだが、一方の戸田家は没落している。それを恨みに思った戸田家は、隣り合っている両家のあいだに土べいをつくり、そこに生えているけやきの剪定も行わなかった。放置されたけやきとは「地主と小作人、自作農と農業労働者」という分裂したもの同士の確執のあらわれである。そうした因縁のある「農村の最も大きなもつれ」がふたりの結婚を通じて解消され、農村にあらたな協同のありかたが訪れるのである。利明の父が、最後に土べいを破壊し、けやきを伐採するのは、利明と弘という青年達が誓った農業改革の実現、同時に旧習である村落共同体の封建的残余の一掃という「けやきのちかい」の成就でありその祝福なのだ。

 「生産」という言葉によって、農業という仕事から恋愛というプライベートまでが生産の「場」となる。ことごとくの局面で、人間のあらゆる能力を組織化し、効率的に流通させる総力戦が遂行している。これは戦中には「戦時協力」として、戦後には「復興」として国民国家としての協同事業であった。「生産」という概念で繋がっている以上、親友の死といった個別的な損傷や死は「ごく小さいこと」「何でもない」こととなる。これは戦争の「中」だけの話ではなく、戦争の「後」にも続き、いま現在へとひと繋がりになっている。
 「けやきのちかい」という戯曲は、転向以前/転向以後、また、戦中/戦後という、ふたつの断絶と連続をまたいだタカクラ・テルの活動がそのまま反映された作品として、多くの問いをなげかけている。この文章はその一考察である。
 最後に、⼭之内靖『総⼒戦体制』から次の言葉を引用してこの文章を終えたい。「国⺠とは、政治に参与する権利と義務をもった者たちの呼び名ではなくなり、死に向かう運命共同体に属する者たち、死を肯定するに⾜る情念を共有する者たちの呼び名となった。この情念を共有しえない者は、⾮国⺠として倫理的に糾弾された」

(『情況』2020年夏号に掲載された論考です)


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