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歳を重ねてもずっと人懐っこい人間でいたい

上京してからもう何年経つでしょうか。随分こちらの生活にも慣れました。
そして慣れたと同時に、ここ数年気づき始めたことがあります。

人懐っこさがどんどん失われている

ということです。

※以下、‘人懐っこさ’ と ‘人懐こさ’ は同じ意味で使っています。ちょっと強調したいときにちっちゃい「っ」を入れたりします。


失われた人懐こさを意識した瞬間

私の性格が細かいせいもあるかもしれませんが、上京してから人懐こさの欠如を感じるシーンが何度もありました。


  • 風の吹きすさぶ駐輪場で自転車の鍵が引っ掛かり困っている人を手助けできなかった

  • マックの店内で椅子を叩いて回る男の子を注意できなかった

  • 家族で電車を見に来て道路から電車に向かって手を振る子どもたちに、手を振り返せなかった

  • 自動車免許の合宿で「この曲なんだっけ~?」と話していた同じ宿の人に「ルージュの伝言すよ、それ」と話しかけられなかった

  • 女子の髪の毛を引っ張る後輩を注意できなかった

  • 最寄り駅の改札前でうろうろしている小さな男の子に声を掛けてあげられなかった

  • 盗撮です!と駅のホームで叫ぶ女性に加勢できなかった

  • コンビニ店内でビタンッ!と倒れた小さな女の子を抱き起こせなかった

  • 駅の階段でズルルーッと滑り落ちたお母さんの体をガシッと引き止められなかった

  • 駅の階段で重そうなキャリーバッグを運ぼうとしている人に声を掛けられなかった

  • 近所でいつも見かけるおじいちゃんに挨拶も話しかけもできなかった

  • 職場でふっと話したくなった雑談を思いとどまった


考えすぎだよ、気にしすぎだよと思われるかもしれませんが、私としてはもっと話しかけたかったし、もっと手助けしたかったし、もっと踏み込んでコミュニケーションをとりたかった出来事ばかりです。
だからとてもモヤモヤするんです。

もちろん人懐こさが全原因ではないですが、すべてに共通してなんとなく見えてきたのが「人懐っこさの欠如」なのです。


人懐っこさが奪われスレていく

じゃあ地元にいた頃はとびきり人懐っこい人間だったかというと、そうでもなかったです。
そうでもなかったですが、都会の今の環境が人懐こさをどんどん奪いやすいこと、今の自分が人懐こさを失っていく傾向にあることはたしかです。

以前、帰省の感想として書いていた内容も思い出しました(記事中の目次3)。

都会にいると人間の数が多すぎて、人はどんどんスレていきます。
田舎は人間関係が濃いし変わったことをするとすぐ噂になるのに対し、都会は薄い人間関係でも生きていけるし埋没できる、とよく言われます。

それぞれ一長一短/合う合わないはあるのですが、「人懐っこさ」に関しては都会はとてもドライな傾向にあると思います。


人間は本来、誰か人が訪ねてきてくれたり、あるいは人がいるということ自体を、どちらかというと嬉しいと感じ、ポジティブな感情が湧くはずなんです。

それが都会のように人が多すぎると、逆に人が疎ましくなる・鬱陶しくなる・嫌になるということが起こります。
人が過剰にいる環境で自らを守るための自然な反応と捉えることもできますが、人懐っこさが失われるのは長い人生において非常に悲しいことだと私は考えます。

豊かなあるいはおもしろい人生を送る上で、「人懐こさ」は必携です。
これがないと人生はおもしろくありません、きっと。


強烈な人懐こさを感じられるテレビ番組

中京テレビの「オモウマい店」という番組をご存じでしょうか?
最高におもしろいのでぜひ見てほしいのですが、ここで感じたのも「人懐こさ」でした。
※放送地域に住んでいなくてもTverから見られます。

店主や店員、お客さん、店を取り巻く人たちがユニークでとても楽しいのですが、そこにはやはりもれなく「人懐っこさ」があるんです。
もちろん店と客という関係性だからというのも多少はあるでしょうけど、それだけでは説明できない人間の温かい姿があるんですよねえ。

たぶんその人懐こさに、私たちは無意識のうちに感動したり触れたくなっているんではなかろうかと。
そう思うわけです。


人懐こさを保ちながら都会で暮らすことはできるのか?

さて、人懐っこさを語ったときに、「人懐っこいとすぐに騙されるよ?」という心配が出てくるかもしれません。

たしかに都会はそういった誘惑や危険が多いでしょう。
人がたくさん集まっている分、楽しいことやおもしろいことに溢れている一方で、悪いことを企む人間や犯罪も集まってきます。

でも私は、人懐こさを保ちながら自分の身を守ることは、十分両立できると思います。
だって、人懐こいことと無知であること、人懐こいことと何でも信じてしまうこと、人懐こいことと人を疑わないことはイコールではありません。
イコールではないのです。

危険を回避する知識を持ちながら、あるいは場合に応じて人を疑う必要があるという心構えを持ちながらも、周りの人と人懐っこくコミュニケーションをとっていくことは可能です。
少なくとも、私はそう信じています。


スレに抗う「アンチ‘スレ’イング」

狡猾さ/図太さ/おおらかさの3つがあれば人生は楽しいと、以前書きました
改めて考えると、その3要素を縁の下で支えているのが「人懐こさ」かもしれません。

どんどんスレてしまって、挨拶もしなくなる、隣にいる・近くにいる人に愛着も湧かなくなる。
そんな人生はまっぴらごめんです。
私はアンチエイジングなんかよりも、アンチ‘スレ’イングに力を入れたい。
死ぬまで失いたくないものはありますか?と聞かれたら「人懐っこさ!」と断言できます。


じゃあどうすれば保てるかと考えたときに、元々の性格とかも影響はするけれど、ある程度は環境や訓練の問題だと思います。
みんなが自分の性格や人種や国民性のせいだと思い込んでいるもののほとんどは、おそらく訓練や練習でそこそこなんとかなります。

だから私も、人懐っこさを維持する方法を模索していきたい。
そのためのチャレンジを今準備しています。


死ぬまで人懐っこい人間でいたい。
頑張りまっせ。


'21/12/31 最終更新

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