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“好きなだけシャットアウトできる” という一人暮らしのリスク

「一人暮らし」という言葉を聞いて受ける印象は人それぞれに違うだろう。

家族から離れた自由な生活に憧れを抱く若い世代に対して、中高年になると話し相手のいない寂しい暮らしの印象を抱きやすかったりするかもしれない。
あるときは「実家暮らし」と対比して使われ、またあるときは「同居や同棲」と対比して表現されることもある。

私も大学進学の頃から一人暮らしをスタートし、今も絶賛その暮らしを謳歌しているところだが、最近1つのリスクを意識し始めるようになった。

それが

社会(他者)との接点を好きなだけシャットアウトできる

ことだ。


一人暮らしの場合、家や日常生活のことは基本的にすべて自分自身で判断する。
自分が主(あるじ)である。
職場や他人との連絡を絶って、買い物にも出かけず、カーテンを閉め、鍵をかけ、訪問者には返事をせず、、
好きなだけシャットアウトが可能だ。

もちろん借金の取り立てや電気代・年金保険料支払いの督促状なんかは、どれだけ心や生活を閉じた人にも分け隔てなくやってくるだろう。
ただ、有機的で豊かな接点はほとんどの場合、残念ながら向こうからやってくることはない。


『でもシャットアウトしたものと再び接続するのも好きなタイミングでできるじゃない』そんな声が聞こえてくるかもしれない。
もちろんそれはその通りだ。
その通りだが、1つ見落としていることがある。

好きなタイミングで再接続できるのは自分の心身が元気なこと(エネルギーが残っている状態)が大前提であって
一度心身のどこかが再起不能に陥りかけたとき、自力ではシャットアウトした状態から元に戻れなくなるかもしれないという点だ。

人生に悩んだとき、一時的にその環境から離れて自分1人になることは大切なことだ。1人の時間で悶え悩み苦しみ逃避し忘れて、もう一度ゆっくりと浮上してこれればそれでいい。
しかし時には、心や体が浮上できない状況に迷い込むこともある。

そうなると、とても危険だ。
自分自身が生活全般の主(あるじ)となる一人暮らしの、大きな落とし穴である。


たとえば一人暮らしではなく、家族や恋人、あるいは頻繁にコミュニケーション・連絡をとるような友人や近所の人がいる場合を考えてみよう。
そういった人たちがいる状態、特に誰かと同居していれば、その人たちを通して(姿を目にしたり話したりすることによって)毎日の生活の中で否が応でも ‘社会 (他者)’ を感じることになる。

毎朝仕事に向かう親
失恋して落ち込むルームメイト
デイサービスに出かけるおばあちゃん
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自分の生活から簡単にシャットアウトできない存在というのは、ときに疎ましく、ときに悩みの種となることもあるだろう。
しかし他方で、自分の心身の状態が落ちたときには、社会(他者)との接点をゆるく提供し続けてくれるライフラインとなってくれることもあるのだ。


一応触れておくが、最近はネット社会やSNSの発達によって、オンラインコミュニケーションも多様で複雑で奥深くなっている。メタバースなんてものも注目を浴び始め、ネット上のコミュニケーションに拠り所を見出している人も多いだろう。
ただ(オンラインコミュニケーションのポジティブな影響力を軽視するつもりはないが)、それらもコンセントを抜いてしまえばそれまでである。
物理的・半強制的にあなたの生活空間を出入りしているわけではない。


一人暮らしは自由だ。 ※ただし金は掛かる
人目を過度に気にすることなく何かに没頭できるし、身軽にも動ける。
それらは明らかに魅力的で大きなメリットだ。

ただ、前述のようなリスクが付き物であることも忘れてはいけない。
人生はにたくさんのアップダウンがある。
大きなダウンを乗り越えるためにも、複数のコミュニティに属してコミュニケーションを多角化するという個人的な野望は、引き続き追い続けていきたい。


'22/11/18 最終更新

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