オリンピック演出騒動に思う

本題の前に最近思うこと

20数年間生きてきて思うのですが、世の中のことにアンテナを張って考えていくのってエネルギーがいりますよね。

 

私は同年代の中では、どちらかというと世の中のニュースや社会問題等に関心が強い部類だと自認していますが、それでも自分が不安定になるとあまり触れたくなくなります。

仕事の変わり目とか不調とか、生活リズムが崩れているときとか、気持ちが弱っているときとか。

 

当たり前ですけど、人って自分のことが最低限整っていないと、他のことにエネルギーを回せないんですよね。

本当は絶え間なく世の中に目を向け続けて、考え議論し行動していきたいのですが、
今般のコロナのニュースですら、気持ちが近づいたり遠ざかったりを繰り返しています。

 

そんなもんだよと思うようにはしていますが、安部さんの言う*「会社人」にはなりたくないなと、心の片隅でいつも忘れないようにしています。

 

* 私が以前から注目している、株式会社リディラバの安部敏樹さんのことです。「無関心の打破」を掲げ、めちゃくちゃおもしろい活動を繰り広げている人です。
その安部さんが過去に語っていた言葉から「会社人」を引用しました。

大学でどんなに社会や政治について考えていても、就職した途端続けなくなってしまう人が多い。
みんな ‘社会人’ じゃなく ‘会社人’ になっている。

 

さて、このところ話題が絶えない東京オリンピック。
直近では「オリンピッグ」の演出問題がニュースになりましたよね。

 

私もキャッチするのが遅くなったのですが、少しばかり思ったことを書いてみたいと思います。

 

 

序論 ~感情に絡めとられないために~

まず、こういったセンセーショナルな話題が出た際に気を付けるべきだと思うのが
きちんと原典にあたること」です。

 

この情報化社会・スピード社会。

SNSの影響もあり、第一報の直後からものすごい勢いで感情や議論が吹き荒れます。
メディアによる続報も相次ぎます。
個人による引用記事もたくさん出ます。

息をつくまもなく拡散し、
切り取りが発生し、
独自解釈が重ねられ、
事実と不確かな情報と嘘が混ざり合います。

気がつけば、たくさんの続報と感情の嵐に埋もれて、第一報が見えなくなってしまうのです。

 

もちろん、後から判明したり新情報が出てきたり再整理されたりすることも多いので、第一報が一番充実した内容だとは思いません。

ただ少なくとも、一番最初に何が報じられたか。

どういう事実が、
どんな推測が、
どこまでの範囲で、
何を根拠として、
どのようなスタンスで、
いつ、
誰から
発せられたのか、知ることは大事です。

今回の話題で言えば、先ほどリンクを貼った3月17日の文春オンラインの記事が発端だと思われます。

 

さて、自分の考えを書いていく上で、論点を2つに分けたいと思います。

1つは演出案そのものをどう感じたか
もう1つはこの騒動をどう処理するべきか

 

世の中の問題って視点や論点が1つしかないものってたぶんなくて、
この世が重層的であるように、表面的には1つのトピックだとしても複数の視点・論点を見いだせるのが大事なんだろうなと、うっすら意識するようにしています。

 

 

1.演出案そのものについて

まず「オリンピッグ」そのものについてですよね。

断っておきますが、報じられているようにこれは構想段階の案に過ぎず、しかもボツになっています。
最終決定案ではない点は理解した上で、それを脇に置いて純粋に案に対しての感想を述べます。

 

結論から言うと、渡辺直美さんが以下の生配信で語った2点とまったく同じ気持ちです。

単純におもしろくないし、
それをやる意図もわからない。

 

正直、素案? の段階だし、文春で引用されているLINEの内容だけでは前後の流れがそこまで掴みきれないと言うのはありますが、
それでもこの演出はつまらないと思います。

 

新宿で若手芸人がやる小さなライブならまだわからなくもないですが、
(笑いって複雑で奥深いので、豚の演出そのものを表面的に捉えて即座に100%否定したいとは私も思いません)

世界中の人たちが楽しみにしているオリンピックの開会式でこれをやってウケるだろうと考えているのだとしたら、
それは今の世の中の感覚とだいぶズレていると断言できるでしょう。

 

他に意図があるとしても、人の見た目に対する侮辱的な表現だと認識される可能性は非常に高く、ネガティブな感情が勝るのは明白です。

あと余談ですが、渡辺直美さんがこれまで創り上げてきたパフォーマンスや才能、彼女の考え方・スタンスに対しての理解が浅かったのもあるのかなと感じます。

 

※女性蔑視という観点については、森さんの騒動から間もないこと、たまたま渡辺直美さんが女性であったことが、燃え上がる要因だった気がします。

もちろん女性だったからこそこういう扱いを受けやすかった等の分析視点はあると思いますし、多様な論点の1つとして当然あっていいと思います。

ただ、この騒動を分析する上での主軸に置くべきではないし、そういった視点で語る中でこの件を引用するとしても、距離感の取り方には注意すべきであると考えます。

 

 

2.騒動をどう処理するかについて

次に考えたいのがこの論点ですが、私は1よりもこちらの方が大事な気がします。

 

色々なメディアでも言われていますが、

・ 1年前の話が今ごろ表に出てきたこと
・ 内輪で話し合っていた段階の案であり、ボツになっていること

は、やはり気になる点です。

 

今回流出したのは、演出プロジェクトのメンバー内でのグループLINEだったとのこと。

つまり、そこで話す内容は、世間に向けて公にすることを想定していません。
しかも、別のメンバーから反対意見が上がり、すぐにボツになっています。

チームがきちんと機能しており、内容が精査できていたということです。

内容が内容なので却下されるのは当たり前ですが、案の段階でちゃんとボツにされたという事実は、認識しておくべき大事なポイントです。

 

では、内輪の案出しの段階だったらどんなめちゃくちゃなことを言ってもいいのか?というと、それは違うと思います。

ただ、今回の演出案が

クリエイターとして、演出チームの責任者(※当時ではなく発覚時点において)として、
どれくらい致命的なのか/辞任すべきレベルのことなのか、

というのはよ~く考えないといけなかったのではないかと感じました。

 

クリエイターの世界にはあまり詳しくないですが、こういうのって色々な多様な案をいっぱい出しまくって、徐々にブラッシュアップしていくイメージがあります。

その過程では、
おもしろいもの/おもしろくないもの、表現として適切なもの/不適切なもの、実現可能なもの/実現が難しいものなど、
振り幅のある色々なアイデアが飛び交うはずです。

 

そんな中、案出しの段階であっても不適切なものを一切出さないことが、
プロジェクト成功のために本当に大事なことなのか?
プロジェクトメンバーとして必ず兼ね備えるべきものなのか、必須のセンスなのか?

ここはもう少し慎重に議論を重ねるべきですね。

 

だいたい、頭の先からつま先までよくできた人間なんていません。

仕事の内輪のやり取りから友人とのやり取りまで、徹底的に洗い出せば、完全無欠のよくできた人間なんていないですから。

政治家や芸能人が不倫やなんやらでセンセーショナルに報道されることに対しても指摘されていますが、まったく落ち度のない聖人を求めていてはこの社会は成り立ちません。

その人の立場・役割や影響を及ぼす範囲に応じて、これだけはダメという一発アウトラインと、内容に応じて判断するグレーゾーンを考え分けないといけません。

 

過熱すると、人間どうしてもゼロか100かで考えてしまいがちですが、もっと試行錯誤と慎重な議論が必要かもしれませんね。

 

 

参考になる記事をペタリ

最後に、私が感じていたモヤモヤに近いところを指摘してくれている記事を、せっかくなので貼っておきます。

 

以上でした。

 

'21/03/28 最終更新

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