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小説「喫茶ナゴリタン」②

二 缶コーヒーに憩う夢


待ち合わせた場所にダイスケは来なかった。


前から多少の遅刻癖はあったにしても、よりによって今日はライブ当日だ。俺もさすがにイライラし始めていた。ライブの日は待ち合わせをして、メンバー全員で軽く腹ごしらえしてから会場入りするのが恒例になっていたのだが。もうその待ち合わせ時間を三十分以上過ぎている。ようやく携帯が鳴った。


「おいどうした?」

「すいません…今日ちょっと無理かもしんないっす…」

「はっ?無理ってなに?、なんかあったん?」

「いやちょっと…なんか…ナーバスになっちゃってて」

「ナーバス?大丈夫なの?今どこにいるの?」

「家っす…」

「マジで?じゃあとりあえず先に飯行ってていいの?」

「あーはい…」

「リハは三時だからね、それまでにはどうにかしてくれよ」

「あー、ちょっとそれも…」

「いや、何言ってんだよ、ドラムなしでリハしたって意味ないじゃん!」

「すんません、ちょっと渋谷まで行けそうもなくて…」

「え、なに?どっか調子悪いわけ?」

「いや…あの…あーすみません、大丈夫っす。今から向かいます、すいません」


俺は首をひねりながら電話を切った。ハイライトをくわえたまま、コウジはけげんな顔を向ける。


「よくわかんねーけど、今から来るって」

「寝坊?」

「なんかナーバスになっちゃって…とか言ってたけど」

「ナーバス?」

「ああ、俺もよくわかんねえ…」


ダイスケはギリギリでリハに間に合った。少し青白い顔をしていたような気もするけれど、雰囲気はいつもと変わらなかった。黒い上着にジーパン、ニットキャップ。スネアのケースにキックペダルまで無理矢理突っ込んでくるいつものスタイルだった。


「どうしたんよ?」

「大丈夫っす、すいません。ちょっと腹痛くなってトイレこもってる内に色々ナーバスになっちゃって」

「本当大丈夫なの?」

「はい、もう勢いで乗り切ります、大丈夫っす!」


コウジは半笑いのままだまって見ていた。俺はイラついた気持ちをなるべく表に出さないことだけで必死だった。


俺たちのバンドは集客が伸び悩んでいた。毎回微妙にチケットノルマに届かない状況が続いたまま、赤字でライブを積み重ねていた。

メンバーは全員高校時代の仲間で、ドラムのダイスケだけが一個下の後輩だった。同級生のコウジがギターボーカルで、俺はベース。典型的なスリーピースのロックバンド。大学時代に結成し、今はそれぞれ就職したりフリーターをしながら三年ほど活動を続けていた。

学生の内は、ライブをやれば友達がすぐに集まったが、社会人になったとたんに動員は激減した。生活スタイルが一変するから当然の結果だろう。そこで知り合い以外のお客さんの前でライブすることが必要だと考え、都内でのブッキングライブを増やしてみた。しかしあまりいい結果には結びついていなかった。定期的にかかるスタジオ代と、ノルマを補てんするチケット代に、俺らの給料は吸いこまれていった。

バンドメンバーの熱意がトーンダウンしていく中、もはや俺だけが反骨精神を種火に孤軍奮闘しているような状況で。スタジオ代やチケットノルマのやりくり、イベント会社やライブハウスとの交渉、メンバーのスケジュール調整、オーディション用の資料作成や送付、曲作りも譜面書きもすべて一人でこなしていた。そうして一人でつっぱる姿を見せることこそが、メンバーに示しをつけられる唯一の方法なのだと信じていた。俺はフルタイムの仕事をしていたし、スケジュール的にも精神的にも余裕がなく、いくら好きなことのためとはいえ、常にどこかイライラしていた気がする。言ってみれば夢に取りつかれた願望達成依存症。自由奔放でマイペースなB型気質丸出しのコウジやダイスケから見たら、俺が音楽を楽しんでいるようには思えなかっただろう。ひたすらノルマ達成に心をとらわれていて、目的と手段の本末転倒した暴君に見えたに違いない。


そんな俺でも唯一、雰囲気作りとして大事にしていたことがある。それはスタジオ練習後におごり合う缶コーヒーの時間だ。それぞれ一服したり、スケジュールの突き合せやミーティングをかねてはいたが、たいていは取るに足りない与太話に転がっていく。それがただただ楽しかった。まるで高校時代の部室のような快適さ。スタジオ内での練習時間と同じかそれ以上の時間を、俺ら三人は待合室のベンチで過ごした。音楽スタジオはたいてい地下にある。防音のためか密閉性が高くて換気も悪い。しかも利用者はほぼみな喫煙者だ。そんな空気のまずい場所で飲む缶コーヒーが最高にうまかったのだ。これはバンドマン以外にはなかなか理解されないものかもしれない。



その夜のライブ。ダイスケのリズムは完全に走っていた。フィルインも勢い任せで雑だった。しかし今まで聞いたこともないようなアドリブが次々と飛び出し、疾走感みなぎる最高のグルーブを叩き出していた。三人の呼吸はシンクロし、奏でる音の抑揚、無音になるブレイクのタイム感、観客のレスポンスに増幅する熱気。言葉を越え、音すら越えた魂同士の呼応、そのすべてが快感だった。お客さんの数はまばらだったものの、俺らのバンド史上最もハネた演奏になった。その時のライブ音源が、このバンドのベストテイクとなった。


その数日後、ダイスケからの連絡が入る。


「マサイチさん、すみませんがちょっとバンド続けられそうもありません。きっと先輩たちの足を引っ張ってしまうから…」


「そ、そうか…俺らもなるべく他のドラマー探すからさ、できるときだけでもいいから手伝ってよ」


俺はダイスケをうまくひきとめられるような言葉を、何ひとつ言えなかったような気がする。その後も結局、次のドラマーが見つかることがないままバンドは活動休止状態となった。



缶コーヒーには景色の味がする。その時代、その空間でみている景色が味に映るのだ。エメラルド色の缶コーヒーを見るたびに、俺はスタジオの景色を思い出す。危うい情熱がたぎり、殺気じみた自意識を抱えた人間たちが通う場所。殻を破りきれずにいる者同士は、爆音の中でだけは本音でぶつかり合えた。その場所にあるタバコの煙と缶コーヒーにはかすかに希望の匂いがしていた。


結局、当時思い描いた理想の世界へはたどり着かなかった。でも「喫茶店をやる」という俺の新たな夢もまた、あのスタジオで飲んだ缶コーヒーから始まっていた気がしてならない。煙だらけの部屋で飲む缶コーヒーで満足できた人間が、その後沖縄で喫茶店を開くことになるのだから人生はわからないものだ。

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