【日記】「推し、燃ゆ」を読んで

お久しぶりです。本日は読書感想文のようなものをしたためようと思った次第でございます。
それは、何より、この表題の小説が現代の地獄をあまりに凝縮しており、どこかに絶叫しないといられない内容だったからです。
一回読んだだけで書いているので、まあ…色々とお許しください。

ずっと気になっていたこの芥川賞受賞作品。文庫本をきっかけに読むことができましたが、なんだっけ、キャッチコピーが「TIC TOK世代のライ麦畑でつかまえて」でしたっけ。
いやそんな枠組みで定義すんな……と怒りを覚えるほどには現代の地獄を濃縮して描いたものと思いました。(広報の方、申し訳ありません)今、「推し」だけを生き甲斐に生きてる人ってどれくらいいるんでしょうかね。私が実際推し中心の生活を送っているからなのか、周囲にそういう人間は溢れかえっているように思います。
それはTICTOK世代だけじゃない、あらゆる年代において。

規模のでかい話になりますが、現代は、「「普通」なんてないよ❤️みんな違ってみんないい❤️」を謳っておいて、「普通」から逸れることを許さない、建前と本音がめちゃくちゃに乖離している時代だと私は思っています。
「普通なんてない!推しを生き甲斐にして何が悪い!」といった考え方が高齢者より下の世代ではある程度広がっているように見えるけど、人工的に作られた「自由」に放り出された私たちは結局「正しい人生」を歩むことを社会から強要されます。(「正しい人生」いわゆるそこそこなんでもそつなくこなせてちゃんとしたとこに就職して適齢期に異性と結婚して子供産んで子供にも正しい人生を歩ませてという絵に描いたような人生のこととします)その「自由」の中で自由に生きようとして苦しむ人間の最下層の姿が、本書の主人公「あかり」だと私は感じました。
いや最下層言うても両親いるし家もあるじゃんとか言われるかな。もっと悲惨な人いるよとか言われるかな。その人たちにあなたたちは自分を重ねられますか?
そういった意味で、「あかり」は推しを持つ人間がギリギリ共感できる最底辺、と言える。推し以外の全てを失って、最終的に推しという自分の「背骨」まで喪失する女子高校生のお話です。

近年、「自称発達障害が増えた」と揶揄されていますね。
あれは病気と何かしらの特質持ちであることがかっこいいとかいう思い込み、とか、それを免罪符に何したっていい!と思っている愚かな発想が所以とされがちですが、そんな発想してるの一部の人間じゃないでしょうか。
自分は普通じゃない。みんなと同じくできない。うまくできない。自分を普通じゃないとはっきりラベリングすることで少しでも苦しみから逃れようとする人たちが大半なんじゃないでしょうか。
「普通なんてないよ❤️」って言いながら普通であることを社会が強要してるから大きな歪みができてるんです。「空気読めよ」「自分が迷惑かけてるって気づけよ」という圧が直接的な言葉でなく、柔らかな、その発言者を決して悪者にしない形で「普通になれなかった」人たちを緩やかに殺していきます。
「あかり」は、発達障害です。緩やかに殺され、大人になりたくないと切実に苦しみ、推しを推すことで存在意義を得ることができた女子高校生。「あかり」は推しの炎上事件や人気最下位をきっかけに、痛ましいほどに推し活へ傾倒していきます。いやあれはもう推し活じゃないかも。祈り?儀式?無意味な人柱?「あかり」は高校を退学し家族からの信頼も失い、一人与えられた家、汚部屋でひたすら推しを推していきます。
私はもちろん女子高校生ではありませんが、自分を構成している仕事とか、対人関係とか、そう言ったものの歯車が狂った時、「あかり」のようにならない自信はありません。
「普通になれなかった人たち(発達障害じゃない人も含めたあらゆる人々の意)」の地獄がここにあります。

「推し」がいる人間は「普通になれなかった人たち」と主語デカ結論にするつもりはありません。ただ、そこに少しでも切実な逃避が混じっているのだとしたら、日本に住んでいる私たちにとっての北極のように、その地獄は確かに、同じ空の下に存在しているものだと思います。

以上、本書を読んで思ったことでした。宇佐美りんさん、人間の皮膚をめくったらグロテスクな内臓が存在しているように、現代の皮膚の下をそれはもう鮮やかに見せてくれてありがとう。
文体は意識してポップに書かれたようで、けれど口調や文体は軽やかなそれなのに比喩や表現はバッチリ純文学でしたのでそこのアンバランスが少し読みにくかったですが、それもまた歪を表しているようで全体的に良いスパイスになっていると感じました。

生きてるだけで部屋は汚くなる。今日も肉体が重い。

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