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『レナードの朝』(1991)

『レナードの朝』

大学生の頃から、何度か観ようかな、と思って、医療モノか〜とスルーしていたのですが、今回お勧めを頂いて見ました。

個人的な人生ベスト映画の一本が『グッド・ウィル・ハンティング〜旅立ち〜』なのですが、そこでのロビン・ウィリアムスの演技が好きで、『レナードの朝』でも、なんか眩しそうな表情をするところとか、神経質そうに顎を触る所とか、作り笑いっぽくニカッ!と笑ってすぐ真顔に戻る所とか、どことなく『ウィル・ハンティング』のショーン先生に通ずる所があり、古い知り合いに再会したような、嬉しさを感じます。これは、『ミセス・ダウト』ではけして味わえない感覚です。

前半、基本的には研究者のロビン・ウィリアムスが、(『カッコーの巣の上で』的な)慢性期の神経疾患病棟に勤務するようになり、対人関係というか、患者との関わりに苦労する姿には、身につまされるものがあります。

神経診察、というより、患者とキャッチボールに興じたり、過去のカルテを読み漁りながら、「『非典型』の診断が積み重なると、どこかで何かの診断の『典型例』になるのではないか?」などと、理解を示してくれる看護師(エレノア)と語らう姿には、なんか、楽しそうじゃん、と思わされました。

なんとなくあらすじは知っていて、レナードが、朝を迎えて、良かった良かった…みたいな話なんでしょ、と思っていたのですが、前半は実際そういう感じで、単純に感動します。ロビン・ウィリアムスが、患者を前に試行錯誤し、ある種、霊感に従って治療を施し、奇跡を起こす姿、特にお母さんにICして同意書を撮るシーンの緊張感には、現代の医学から失われがちな、ヒューマニズム的な何かを感じます。自分の信念に従って、自分の信じる治療をする、みたいな姿勢には、前時代的なものを感じなくもありませんが、そこでも、ロビン・ウィリアムス(とレナードの母ちゃん)の表情の演技がモノを言っていて、非常に説得力があります。

後半は、より複雑な展開を迎えます。そこには、見ていて辛くなる部分もありました。「また奪うだけなのに、命を与えることは、『良きこと』だったのだろうか?」とロビン・ウィリアムスは苦悩します。「そもそも私達は、命を与えられ、奪われるものです。」とエレノアは諭します。「その事実に慰められないのはなんでだろう?」「それはあなたが親切な人で、レナードはあなたの友人だからよ。」

「命を与え、そしてそれを奪う」。それは、言ってみれば『神の役目』と言えるのかもしれません。セイヤー先生は、単純な親切心から、ある意味、『神の役目』を請け負うことになるんだけれども、原理的に、与えるのみならず、奪うこともしなければならない。「命を与えた」患者たちが、恋をしたり、植物園で退屈したり、ダンスホール(なのか?)で乱痴気騒ぎをする時には、それを見守らなければならない。そこで居心地が悪そうに描かれるセイヤー先生の姿に、複雑な味わいを感じます。セイヤー先生は、結局神ではなく親切な人間であり、患者達もまた、物ではなく人間だということです。

「人と人との結びつきなのだ。受け取るものがあれば、差し出すものがなくてはならない。」という『1Q84』の一節を思い出しました。

エレノアのキャラクターがすごく好きで、ロビンと、上手く行けばいいな…みたいな、しょうもない感慨を抱きながら見ていたのですが、ラスト・シーンでは、結局、そういうこと!?みたいな気持ちになりました。

でも結局、それが、レナードが言ってた、「生きていることの本質的な素晴らしさ」だよな、とも思います。

結論、もっと真摯に生きていこうという思いを強くしました。

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