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『PERFECT DAYS』(2023)

大学時代の友達が絶賛していたので、『オッペンハイマー』と迷ったけど、観てみた。ヴィム・ヴェンダースは『パリ、テキサス』とか好きだし、Slice of Life的な映画というか、ジム・ジャームッシュの『パターソン』っぽい、みたいな話もあって(『パターソン』自体、可愛らしい映画だな、くらいの感想しかなかったけれども)、『オッペンハイマー』は、多分、暗い気持ちになるんだろうし、対して、『Perfect Days』は、キャッチコピーは「こんなふうに、生きていけたなら」だし、5月病を先取りしているような状況の今、観ることで、日々を慈しむ気持ちが高まれば…みたいな、下心があったと言える。

日比谷の映画館で観て、はじまる前に日比谷公園を散策したりした。想像していたよりなんか、小汚い感じの公園だな…と思ったりもしたけれど、日々を慈しむ準備はばっちりというか、『Perfect Days』を観ることで、さらに、世界の見え方が変わってくるのでは…?というような期待さえあった。

けれども、正直、そうでもなかった。

役所広司扮する公衆トイレの掃除業者の主人公の、(多分)数週間程度の日々を切り取った映画で、いかにもアート・フィルムというか、ストーリー性はないんだけれども、こういう、丁寧な暮らしって、なんか、いいよね…的な感覚が横溢している。制作者側から、「こんな風に、生きていけたなら、いいよね…」と、顔色を伺われているような、押し付けがましさがある。

音楽の使い方も最悪だ。Lou Reedの「Perfect Day」、Velvet Undergroundの「Pale Blue Eyes」、The Kinksの「Sunny Afternoon」。映画のテーマと合っているようで、深い意味がありそうでいて、どう考えても、別になさそうな選曲。こういう感覚はどこかで味わったことがあるぞ、と思ったけれど、これは、非常に『POPEYE』的な映画だと思った。なんかおしゃれっぽい表紙で、素敵っぽくカルチャーを扱っていて、ひたすら表層を撫でていくような感覚。そこには、結局のところ、人生において助けになるものは何もない、ということ。

あと、映画のクライマックスが、三浦友和との語らいな所もキツイ。三浦友和になんの思い入れもないけれど、ちょいワルな感じで、こういうふうな人、おるよなー、という気がする。いろんな事が(一応)あったけれど、夜の街灯がきれいな波止場(?)にて、おっさん特有のロマンに回収されていく感じが切ない。ここに至っては『POPEYE』と言うより『LEON』的な目配せすら感じる。いっそ、ジローラモでも配役したらいかがですか?とさえ思った。

あと、観てる時は、姪っ子役の人は可愛くていいな、この映画において、唯一の救いだな…と思ったものの、よくよく考えると、やたら透明感があって、個性的で…みたいな描かれ方も、なんか、おっさんのイメージする少女…みたいな感じがあって、それはそれで、キツイものがある。

何より感心しなかったのが、結局の所、自己完結したおっさんの生活を、トイレ掃除のツナギよりはパリッとしたスーツが圧倒的に似合いそうな役所広司を用いて、徹底的に美化しているような所だ。

主人公の生活は、どこまでも閉じて円環をなしていて、映画の中では、それなりに美しく見える。植物を栽培するためなのか、部屋の明かりが紫っぽくて、外から観るとそれは宇宙船のように見えて、主人公の住むアパートはあばら家っぽい雰囲気だけれど、すごくファンタジックに見える。数ヶ月とか、期限付きならこういう生活も素敵なんだろうな、と思わされる。ただ、本当に、これが、死ぬまで続くような生活を、「こんなふうに、生きていけたなら…」と思うか?という、根本的な疑問を感じる。こういったような生活とは全くもって無縁なブルジョワジーが、きれいな所だけ見て、「こんな風に、生きていけたなら…」と思っている姿が偲ばれるというか、何かこう、独特の腐敗臭を感じた。

だからこそ、ラストシーンはすごいな、と思った。良い映画を観ると、未だに、全身に鳥肌が走り、涙ぐみ、震えが止まらなくなるような感覚を抱くことがある。『Perfect Days』に関しては、全編に渡って、なんか、さっき日比谷公園で日光に当たった影響か、鼻のあたりがヒリヒリするな、日焼け止めとか、塗っておけばよかったな…みたいなことを思いながら、やるせない気持ちで見ていたものの、ラストシーンは、すごいと思った。別に鳥肌が立つほどではなかったけれど、すごい頑張ってんな、と思った。何がすごいと言って、役所広司がすごいと思った。ひょっとすると、役所広司はこの映画自体から、腐敗臭を感じ取っていたのかもしれない。その複雑な表情の演技からは、いろんなことを読み取れそうな気がする。その複雑な表情の演技のカットが、露悪的なまでに長過ぎて、異形の美というような趣を感じるんだけれども、なんとなく、太宰治の「猿面冠者」のくだりを思い出した。

「この小説は、徹頭徹尾、観念的である。肉体のある人物がひとりとして描かれていない。すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。

(中略)ことにこの小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさした羽ばたきの音を描写しているのであるが、作者はあるいはこの描写によって、読者に完璧の印象をあたえ、傑作の幻惑を感じさせようとしたらしいが、私たちは、ただ、この奇形的な鶴の醜さに顔をそむけるかぎりである。」

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