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「音楽とデザインの幸福なコラボレーション」 村上春樹さん×村井康司さん

昨日、村上春樹さん(以下、春樹)のトークショーに行ってきました。

羊男

春樹は、中高時代から個人的なヒーローの一人です。

ただ、たまにニュースとかで見て、おっ、春樹が出とるねぇ!とか思うことはあっても、まぁ、生で見れるタイミングとかはないんだろうなぁ…と思っていました。そんな中、職場の同僚から、早稲田大学を中心に、時折行われている講演会とか、トークショーの存在を教えて頂き、まぁ、とはいえ、応募しても当選しないんだろうな、と思っていたら、まさかの当選の知らせがあり、万難を排して、仕事後に早稲田に行ってまいりました。

『BRUTUS』の特集とかで、早稲田大学構内に村上春樹ライブラリーが出来た、というのは知っていたものの、実際に行ってみると、思った以上にこじんまりとはしていましたが、春樹の著作がこれでもかと並んでいて、年表があったり、春樹のデスクの写真があったり、さすが、「図書館」を幾度となく題材に取り上げる春樹のこと、配慮が行き届いとるわい…と考えさせられました。(あと、トイレが、すごく綺麗で感動しました)

ダンス・ダンス・ダンスが
デスクの写真?

また、スタッフの方もすごく親切で、「これが、当ライブラリのイチオシ、コクーン・チェアですよ」とか言って、なんかこう、洒落たソファをおすすめしてくれたりして、嬉しかったです。

コクーン・チェア ふかふかでした

トーク・ショーの会場はライブラリの「オーディオ・ルーム」という所で、小さめの部屋で、椅子が30個くらい並んでおり、わりと近い位置に春樹とジャズ評論家の村井さんが座るのであろうソファが設置されていて、え?こんな近い位置に春樹が座るの? ホント?と、非現実的な気持ちになりました。

春樹と村井さんのソファ

果たして。

ほぼ定刻に登場した春樹は、黒いジャケットにTシャツ、ピンクっぽいズボンにスニーカーの、洒落た初老男性でした。春樹。中高時代に、『ダンス・ダンス・ダンス』とか、『海辺のカフカ』を読んで、エッセイも読んで、なかば、自分の中で、同世代の友達のように思っていた春樹。思えば、春樹の世界にあこがれて、近所の図書館に通い詰めて受験勉強していたものでした。自分にとっては、春樹は一人の友達であり、多く物語を生み出した、一つの小宇宙のような存在でした。『アフターダーク』を、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダ―ランド』を、『ねじまき鳥クロニクル』を生み出した、そんな春樹が、今、眼の前で、生きてる、歩いてる。その感動に、思わず涙ぐむような気持ちがしました。春樹、会いたかった。会えるアイドルならぬ、会える春樹。そんなことを思いました。

冷静に見ると、『職業としての小説家』の表紙とかでイメージしていた春樹像より、(当たり前ですが)いくらか、年をとっているように思われました。幼少の頃に接していた、晩年の祖父の様子を思い出したりもしました。春樹は、節目がちで、あまり、オーディエンスの方を見ようとしませんでした。緊張しているのか、疲れているのか、あるいは、体調が悪いのか?

小説などの媒体でしか接したことのない『憧れの人物』に生で会う時、いつも気になるのは、「自分の想像している声」と「実際の声」との違いですが、春樹の声というか、喋り方も、なんだか想像と違いました。思ってたより、普通のおじいちゃんぽいな、という気もしました。笑い方がなんだか独特で、顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑うのが、非常にグッとくるものがありました。

トークショーの内容自体は、主に、最近出たジャズ本、『デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界』に沿って、春樹のおすすめの曲をレコードで聴いて、それについて少しトークがある、というのが、計9曲分行われる…といったものでした。ラジオの公開収録、に近いイメージかもしれません。

なので、自然と話は(当たり前ですが)ジャズに終始。顔をくしゃくしゃにして、ニコニコしながらジャズ・ミュージシャンについて語る春樹にほっこりしたり、ビリー・ホリディの歌声に感極まっている様子の春樹を盗み見たり…というような、贅沢な1時間半でした。(トークショーのお相手の村井さんも、なんだか素敵な白髪のおじいさんで、博学な感じの方でした)

トークショー後には質疑応答コーナーがあったのですが、ちょうど自分の真後ろに座っていた方が質問されていて、方向的に、春樹が、こっち見てる!みたいな瞬間があり、嬉しかったです。人生の総決算、という感じがしました。

ジャズ、は、それなりに聴くものの、深刻に、レーベル単位で聴いたり、ということはなくて、マイルス・デイヴィスはかっこいいよね、とか、セロニアス・モンクは面白いよね、くらいの思い入れしかなく、また、今回取り上げられたような、スウィング〜ビバップの時代というよりも、『イン・ア・サイレント・ウェイ』とか、『ビッチェズ・ブリュー』とか、ロック寄りのものが好きだったりして、春樹(と村井さん)のジャズ講義に、造詣、深まるわ〜という思いがあり、途中からipadでノートをとりながら聞いていて、なんだか、学生時代に戻ったような気がしました。

講義メモ

特に、オスカー・ピーターソン・トリオの演奏を聴いていて思ったのですが、ジャズというのは、時として、感情というのが読み取りづらいように思われました。

最近亡くなったスティーブ・アルビニの音楽を聴いていてとみに思っていたのですが、ロック・ミュージックというのは、ある程度、感情そのもの、というような気がします。フラストレーションとか、アグレッションをテーマにしたものがあり、恋する思いというか、longingをテーマにしたものがあり、悲しみとか、寂しさをテーマにしたものがある。一般的なポップ・ミュージックにおいても「感情」が取り扱われる(「エモい」、みたいな)のだと思うのですが、いわゆるオルタナティヴなロックでは、より、「複雑な感情」が取り扱われるのではないか。

春樹がプレイするジャズのレコードを聴いて、もちろん、なんとなく楽しい感じ、とか、そういう風な感想を抱くものもあったのですが、一方で、ひたすらピアノとサックスのインタープレイというか、聴いていても、どういった感情のものなのか、どういった楽しみ方をすればいいのか、分からないものもありました。最初はそれに戸惑っていたのですが、春樹と村井さんの優しい解説を聞きながら9曲も聴いていると、だんだんと、楽しむポイントがわかるようになってきた気がしました。想像するに、この時代のジャズというのは、なんらか「感情」を表現するというよりは、決められたテーマ、ある程度のルール(スタンダード曲)に沿って、制限された範囲での自由の中で、己の生命力をほとばしらせる、というようなことなのだろうか。

だとすると、こういったジャズ音楽を、春樹さんや村井さんは、どういった楽しみ方をされているのだろう。どういったように「感情」を経由するのだろう。あるいは、「感情」を経由しない、「音そのものを楽しむ」というようなことなんだろうか。こうしたジャズ音楽を聴いて、どんな情景が喚起されるんでしょうか?

というような質問をしたかったのですが、いま一歩勇気が出ず、断念しました。

でも、ミュージシャンのライブを観に行く時も思うのですが、自分が、小説なり、CDなり、なんらかの媒体を通じて慣れ親しんでいる、「憧れの人物」を、実際に観に行くこと、その、歩き方とか、笑い方を知ることというのは、とても良いな、と思いました。あぁ、俺が、ヒィヒィ言いながら日常生活を送っている間にも、春樹もその辺で生きておられるのだなぁ…という、しみじみとした実感を味わいました。

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