ドミール港洋の歴史②
第0章イントロダクション(続き)
「僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る」
これはドミール港洋の初代オーナーがいつも愛読し、書斎に大切に所蔵していた高村光太郎の詩集「道程」の一節です。
道には、どのような意味合いがあるのか、人それぞれの想いや邂逅があるとは思われます。
ドミール港洋ができる前の周辺状況について、先ずは古代のロマンへと、タイムスリップしてみたいと思います。
初代オーナーは、元々、横浜市中心地の西区出身で、昭和初期に生まれました。
しかしながら、戦前の学生時代に大病を患い、療養の為、神奈川県南部に移り住み、その縁で1970年代前半に横浜南部の港南区に移り住み、自営業を開業しました。
仕事の傍ら、郷土史の研究をして、いくつかの本を出版しました。
最初に関わったのが、区政10周年記念として刊行された「港南の歴史」の編集員の1人として参加しました。
「港南の歴史」の記載で印象的なのが、「武相国境の道」です。
ドミール港洋から、日野中央公園や鎌倉街道(神奈川県道21号横浜鎌倉線)を見下ろすと、その先に野庭団地と呼ばれる共同住宅が、聳え立っています。正に、この山の稜線が「武相国境の道」との事。
古代律令国家の成立と共に設けられた、武蔵国と相模の国、その国境に道がある。
横浜市における現在の区境の多くが、武相国境ですが、初代オーナー曰く、
「神奈川県は武蔵と相模に、またがり、
横浜市も武蔵と相模に分かれていて、
更に、港南区のみが武蔵と相模の両国を含んでいる。」
いつの時代も道はあります。
首都圏のベッドタウンとして通勤ラッシュ・鉄道の駅中心に流れた人の歩みが、
昨今、コロナ下・テレワークの時代になって、人の流れが、徒歩や自転車等へと原点回帰しているかも知れません。
自然豊かなドミール港洋近辺の鳥達の囀りを聴きながら、武蔵国側から相模国を眺めて、古代人の歩んだ武相国境の道に想いを馳せると、新たな発見や出会いの序章となる気がします。
以上が、ドミール港洋ができる前のイントロダクションで、次回から第1章に入りたいと思います。
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