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『ゴーストバスターズ アフターライフ』 天才の顛末、天才の未来


コロナ禍真っ只中に『ゴーストバスターズ』シリーズの最新作『アフターライフ』が公開された。ネットでは「すごく面白かったけれど、映画館はガラガラだった」という感想が多かった。自分は、不評だった2016年の女性版『ゴーストバスターズ』も好きだった。きっと今回の『アフターライフ』も気にいるだろう。ただやっぱり公開時期が悪かった。そういえばまだこの作品観てなかったけれど、どうなっていたのかと思っていたところに配信が始まった。

今回の新作は、初期2作の生みの親でもあるアイヴァン・ライトマン監督の意志を受け継いで、息子のジェイソン・ライトマンがメガホンを取っている。製作に絡んでいるアイヴァン・ライトマンが、本作制作中に亡くなってしまった。家族の世代のつながりがテーマとしている今回の続編。なんだか映画の内容とリンクしてしまった。

アイヴァン・ライトマン監督というと、わかりやすいエンターテイメントの王道のイメージ。かたや息子のジェイソン・ライトマンは、インデペンド系のオシャレな社会派コメディの作風。はたしてジェイソン・ライトマンが、この王道エンターテイメント素材をどう料理するか。不安は微塵もない。楽しみで仕方がない。

映画が始まってみると、やっぱりとにかくオシャレ。『ゴーストバスターズ』ってこんなに上品だったのかと、映像美やファッションだけでも多幸感。ドラマ性重視の今までのジェイソン・ライトマンの作風に添いながら、登場人物の一人ひとりが魅力的に描かれる。昨今のシリーズものの定番である、過去作品からの同窓会要素ももちろんある。ジェイソン・ライトマンの人間愛に満ちた深掘りの視点で、昔の登場人物の性格が、ようやく理解できたところもある。ゴーストバスターズのメンバーって、天才だったのね。コメディだから、単なる困った人の集まりなのかと思い込んでいた。

『アフターライフ』の主人公は、12歳のフィービー。IQがめちゃくちゃ高そうな子。最近話題のギフテッドを持つ天才。やっぱり社会に馴染めず生きづらそう。物語が進んでいくにつれて、どうやら自分のおじいちゃんはゴーストバスターズだったのだとわかってくる。ミステリー的な面白さ。フィービーも天才だけど、どうやらおじいちゃんも天才だったみたい。でもそのおじいちゃん、近所では困った変人扱いされていたようだ。

フィービーたち一家が、困窮して都会から夜逃げし、田舎に引越して来るところから映画は始まる。亡くなったおじいちゃんの家で暮らすことになる。かつてのおじいちゃんの家は、しっちゃかめっちゃかのお化け屋敷。かつての住人の、天才ゆえの片付けられない病っぷりが伺える。

このお化け屋敷で、ゴーストの研究に夢中になっていたおじいちゃん。町の人からも距離を置いて、孤独に暮らしていた。実際、学者タイプの人物は気難しそうに見える。でも、ひとたび話をしてみると、案外優しかったりして、外見やイメージのギャップに面食らうこともある。孤独な偏屈爺さんのフィービーのおじいちゃん。もしかしたら、自分の好きな研究を、誰にも邪魔されずに没頭できて、けっこう楽しい晩年だったのかも知れない。

映画で描かれるフィービーの天才っぷりもリアル。特定のジャンルに長けているのは当然だが、無表情だったりリアクションが薄かったりする。かつて「天然」とか呼ばれていた人は、こんな雰囲気を醸し出している。道理を理解しているフィービーは、むこう水に思える行動が目につく。危うく見えるけど、本人は冷静にベストな選択をしている。若いけど頼りになる主人公。

さらにリアルなのは、フィービーの母親は凡人であるところ。それでも天才肌の人と結婚して、うまくいかずにシングルマザーになっている。またも選んだ相手は、天才肌の男という皮肉。映画で直接描かれない行間を想像させる。母親は結局、天才を否定していても、天才に惹かされている。フィービーの天才は隔世遺伝。突然変異ではない。

多くの凡人はIQの高い天才に憧れてしまいがちだが、その弊害はあまり語られることはない。フィービーは将来有望な子どもではあるけれど、あまりそればかりに執われてはならない。天才は凡人の気づかないことをいち早く察知する。言うなれば炭鉱のカナリア。意味不明の不穏な話ばかりをされてしまうと、その人を単純に嫌いになって距離を置いてしまう。もともと夢中になるものが多い天才は孤独に強い。どうしても社会から孤立してしまう。そして天才の意見を聞かなかった凡人たちが、ずっと後になってから、天才の発言の真意を知ることになる。でもその頃は、天才も凡人もそれぞれの道を歩んでいる。そんなやりとりがあったことすら忘れてしまっている。天才が警告した頃に、みんなが耳を貸していたなら、厄災は未然に防げたかもしれない。

今後大人になっていくフィービーの未来が気になる。すでに学校でも孤立してしまっている。かといって天才だからと特別扱いをしてしまうと、これまた人生を誤ってしまう。天才だろうが凡人だろうが、フラットに生きていける社会が理想なのだろう。天才が自分の才能を活かせる仕事に就けたとしても、必ずしも幸せになれるとは限らない。変わった人がありのままで幸せに生きていけるには、特異な才能を周囲も驚かずに受け入れていくことが大事。能力なんて全て使い切る必要はない。今までの社会が、個々の能力の限界まで出さないとやっていけないくらい厳しすぎたのだ。リラックスして、ありのままに誰もが生きていける社会にはならないか。

近年、多様性という言葉が使われるようになってきた。多様性の必要性を口にしているうちは、まだまだ受け入れられていないということでもある。でも、今までの世の中だったら、「みんなと一緒にできないのなら、落ちこぼれとして排除する」しか選択肢がなかった。わからないものも受け入れていこうとなっただけでも成長したのだろう。これが今後、多様性など意識しないでも、天才もそれぞれの個性として、受け流されていけるくらいの世の中へ向かっていくのなら意味深い。今は過渡期。

それは、互いに理解し合うような理想論の話ではない。わからないものはわからないままでいい。干渉はしないから、そこにいてもいいよ。私もわかってもらえなくとも、存在を許してもらえればいい。そんなドライなもの。そうなると群れをなす人間関係はダサくなってくる。日本人は群れるのが好きだからこそ、価値観が世界標準から大幅に遅れてしまったのかもしれない。ニュースでも不登校の生徒数の記録が出たと伝えている。コロナ禍が原因とのことだったけど、根本的理由はそれではない。コロナは現実露呈のきっかけ。日本はそろそろ戦前からの軍隊教育のままの学校教育を見直さなければならない。みんな同じでみんないいわけがない。不登校になる子たちのほとんどは、その矛盾に満ちた旧世代の教育にNOと言っている。ことは深刻。

IQのめちゃくちゃ高い天才もただの人間。特別扱いして金儲けしようなんてもってのほか。「あの人は人間的には大問題だけど、仕事ができるからすべて許してあげて、周りは我慢しよう」というのも、ちと違う。

天才も孤立しないように社会性を学ばなければならない。周りも奇異な行動をする人を黙認するのではなく、人とトラブルにならない方法を伝授してあげる。お互いに足りないものをサポートし合う世の中。得意なもの不得意なものは人によってそれぞれ違う。『ゴーストバスターズ』の新作を観て、そんなことを考えるのは、かなり自分も変わってる。

シリーズものの常として、クライマックスはパターン化してしまう。待ってましたと思うところだけど、自分は予定調和の展開の方が冷めてしまった。大団円までの、子どもたちが活躍する地味な場面が尊い。これもジェイソン・ライトマン監督の人間愛の成せる技。この心優しさが、映画を面白くさせる秘訣。映画が終わる頃には、登場人物全員のことを、好きになってしまっていた。大人の助けなんか欲しくないけど、「Who you gonna call?」なんて聞かれたら、やっぱり誰を呼ぶかはもう決まってる。


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