リテラシーを育てることの弊害~カリカリいらないから、チュールくれよ~
ライチリキュールのテイスティング
とあるBarで、ライチリキュールを原液で出された。
グラスを手で温めながら嗅ぐライチの甘い香りは心地よく、飲み込んだ後に残る含み香も、副鼻腔を幸せで満たす。
次に、もうひとつのグラスを渡される。
香りも味も、ほんの少しだけ上品な感じを受け、どちらかといえばこっちが好きかもしれない。
(ただ、あとに出されたことで、こっちの方が良いやつなんだろうなという予測から、そう思ってしまっているだけかも。というほどの微妙な誤差でしかなかったが、それは伝えなかった。)
感想を伝え、「そうかそうか、やっぱこっちの方がおいしいよね。高かったんだよこれ」という返答を待っていたのだが、マスターは相変わらず無表情である。
君は、それぞれの服のどこで迷っているの?
間違えた。僕の選択は明らかに間違えたのだ。
彼女とショッピングに行き、「AとBどっちがいいかな?」というフェルミ推定問題に、僕は負けたのだ。
するとすぐに、マスターは最初のグラスをまた飲むように指示をする。
飲んだ後に少し悩むフリして「あ~でも、こっちの方が飲みやすくていいかも」などという曖昧なフォローを用意してから、最初のグラスに口を付ける。
「まずい!明らかに美味しくない。安い焼酎のようなアルコール臭がツンとくる。」
どうやらここまでがマスターのプレゼンテーションだったようだ。
その後も交互に飲み比べてみるが、ブラインドで100%分かるほどに違いを感じ取れる。
良い物を知ることは非常にいいことだと思うし、この感動を教えてくれたマスターには感謝をしている。
でも、今まで感じていた幸せが虚像であったことを知り、〇ITAという選択肢をひとつ奪われた今の状況は果たして幸せと呼べるのだろうか。
「私が○○○・○○○です。」
いわゆる叙述トリックを使ったどんでん返し系ミステリーの1週目は、人生で一度しか味わえないのである。
個人的には2週目がミステリーの醍醐味であり、どんでん返すまでの1週目は退屈を伴う。
「知る」事とは、「精度」を挙げつつも選択肢が「減って」しまう弊害があるのかもしれない。
でも味覚が細分化されて、視野は「広がる」メリットがあるのは間違いない様だ。
結論:なんだかんだで、やっすい味のライチウーロンが大好き
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