メモ_教え込みに関して

こんにちは。にーぜろです。

前回同様、しっかりとした文章というよりメモ書きです。


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まず教え込みには定義があるがいったんここでは、「何らかの教育内容を無批判に押し付けること」とする。

こう定義すると、教え込みは前回のnote(「教育とは何か(分類)」における、機械論的教育学に分類されるであろう。
また「押し付けること」は機械論的教育学における「何かを覚える」に当てはめることができる。

さて、この際の教え込みは悪いのだろうか。
基本的には「悪い」と言えるだろう。
しかし私たちは根拠をもって妥当であると言える知識をどれほど持ち合わせているだろうか。
恐らく多くの内容を無批判に受け入れているのではないだろうか。

例えば地動説が正しくて天動説が誤りであることは常識となっている。
しかしこのことを科学的に正しく説明できるだろうか。
青色リトマス試験紙に酸性のものをつけると赤色になるのは知っているが、なぜ赤色になるのかを正しく説明できるだろうか。
多分、できないのではないだろうか。

こう考えると、「何らかの教育内容を無批判に押し付けること」は回避できないのではないだろうか。
だからといって教え込みをただ漫然と容認することも認められない。
例えば、何らかの政治的・宗教的価値観を無批判に押し付けることは許されないように、教え込みを無批判に容認することは到底不可能である。

では、どのような教え込みなら許され、許されないのだろう。
だが、境界線を探すのは無理があるだろう。
許される教え込みと許されない教え込みはグラデーションのようなものなので、分けるということが前提となっている境界線を探し当てるのは無理だろう。
つまり許される教え込みはと許されない教え込みの境界線を探るという問いは回答不可能であると考えられる。

そこで、確実に許される教え込みとはどういうものかと問いを変えることで回答可能になるのではないか。
つまりどういう教え込みなら確実に許されるかという条件を解明するという問いに変更するのである。


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今回は問いを転換するところで止めたいと思います。
この続きをいつか書くことができたらと思います。
まあ、まだこの問いの転換が妥当かどうかも怪しいのですが。
今後はできればしっかりとした文章を書けたらと思うと同時に、前回のテーマ(教育の分類)もまだ書き切れていないので、しっかり書いていきたいものです。

それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

失礼します。


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