残り時間がゼロになった日

誰かと過ごせる時間があとどれだけ残っているか、という言い回しを聞いた事はありますか? 実際に親に会える時間は●●日等。
私のそれは、あっけなく消えました


 巷でよく言われているのが、『親と過ごせるのは実質●●日』という文言だ。
 それが短いか長いかは、各人の判断によると思う。両方の人の気持ちが正しく評価されるべき、そう思うばかりだ。
 ただ、私の場合、俄にそれがゼロになった。
 良かれ悪しかれ、どうでもよかれ。

 2022年12月2日、16時頃。
 私は常にスマホを肌身離さず持っているが、それが振動した。こっそりと番号を見ると、言わば『地元の固定電話』の番号で、普段掛かってくる事はまずない相手だ。疑問に思いながらも対応すると予想通り、実家の近所の人からだ。実家と言っても現在の住所から数キロ離れた地点で、しかも実際は私の持ち家でもある。
 その声色は、今では思い出せない。
『Capt.さん、お母さんが救急車で運ばれたよ』
 第一声に対する私の感想は、『又かよ』だった。
 なにせこの数年で、母は二度ばかり救急搬送されており、しかも全て外傷が原因だ。そして……その時は上手く事なきをえた。なので焦りはなかったが、向こうは『何故か』自棄に急かしてきた。
『まだ救急車が出てないの、急いで病院に行ってあげて』
「……あ……ハァ……」
 今、仕事中なんだが。
 まぁ大した事はないだろう、上がりは18時だから、と私が仕事に戻ろうとすると、再び電話が掛かってきた。今度は病院からの、緊急搬送連絡の旨だ……仕方在るまい、と私は職場に緊急搬送の旨を告げた。周囲はすぐに行けと言ってくれたが、私に焦りはなかった。
 ただ、暫くの間は猫の面倒をみないと、とは思った。

 病院での最初の記憶は曖昧だ。だが、研修などで何度も足を運んでいる場所だけに、ある程度の勝手は分かっている。それもあって自然、救急室に向かっていくと、対応しているだろう看護師が声を掛けてきた。
「Capt.さんですね」
「はい」
 今からCTを撮る、と言われて、私は咄嗟に声を上げた。
「あ、この人、首に金属入ってるんで」
 母は2年前、頸椎と腰椎を同時に骨折した。それこそ半身不随の寝たきりになってもおかしくない程の大怪我だったが、生活自立度は一般人と変わらない状態で退院出来た……が、その原因には未だに頭を抱えている。
 飲酒運転による自損事故。しかも当時、ろれつも回らない程しこたま飲んでいた。まともな人間ならこの御時世、そんな状況でまずハンドルを握ったりはしないだろうというぐらい、大いに飲んでいた。
 その当時の私は仕事では、言わばサイコパスのモラハラで抑鬱寸前に追い詰められていた所にきて、高速で多重事故に巻き込まれて愛車を全損していた。そこへ来てのこの大惨事だ……遂に私の精神は崩壊、逃げる様に退職せざるを得なくなった。
 閑話休題。
 その事故の手術で、母は体内に金属を埋め込んでいる。腰は手術の1年後に抜いたが、首はその場所上、一生の付き合いにならざるをえず、こうしたCTを撮る際には避けるべき部分となった。
 その合間に、救急隊員が私の所に顔を見せた。搬送当時の状況について説明してくれたのだが、第一声で私の意識は少しばかり虚空を彷徨う事となった。言葉は現実そのままだが、内容が内容だ。

「お母さんは、自宅で心肺停止を起こして搬送されました。蘇生途中で循環は戻ったけれど、30分以上経っているから……」

 ……うん、症状は分かった。
 なんなら今後の治療とか経過とかも一瞬で色々考えている、何せ病院を勤め長くやっていたからね、予後の悪さ厄介ささえも理解している。ハッキリ言ってしまえば致命傷だ、何しろ人間としてほぼ全て終わっている。
 だが、状況は全然分からない。
 何故にこの平和日本で、田舎のBBAが自宅で唐突に心肺停止起こすかね? 戦争時なら爆弾で吹っ飛ばされてとかで分かるんだけど。
 何よりこの人、基礎疾患に循環器系統はなかった筈やで。そこ大事、超大事。

 そんな私の疑問、『どうしてそうなった?』、は続く説明で判明した。
 どうやら母は、郵便局員がやって来た時、居間にある上り戸から身を乗り出し対応しようとした所、顔から落ちてコンクリート床に激突、心肺停止となったらしい……そこまで説明してもらった瞬間、私は全てを察した。

 ところで、漫画を含めた『他者の経験』の追体験は、人生にとって非常に有益だ。
 たとえば人気漫画『ONE PIECE』において、主人公格のキャラの一人には、『剣戟では敵わなかった異性の幼馴染みが、階段で転けて死んだ一件で一念発起、世界最強の剣士を目指す』という設定がある。
 その話を知らなかったら、この残念すぎる現実をまず受け入れられなかっただろう。
 サンキュウ、ゾロ。

『……畜生、延髄損傷か!!』
 すぐさま判断してしまえる、悲しき病院勤務経験者。
『しかもあのBBA、しこたま飲んでやがったな!!!!』

 居間は、母の寝室も兼ねている、ちなみに隣は台所。兼用というと聞こえはいいが、要は布団でテレビ見ながら飲んで喰っちゃ寝している横で猫がおトイレという、大層カオスな堕落空間である。私が顔を見せると大概、時間問わずそこで布団にくるまっていたのだが、昼夜問わず酒を飲んでいたからだ。
 実は事故前日、母に会っていたのだが、その時も午後2時にもかかわらず、布団にくるまって爆睡していた……何故なら、一仕事終えて飲んでいたからだ。
 聞かされた状況にしても正直、子供や超高齢者でもなければまずありえない類の事故だが、何せ飲酒運転の大前科があるBBAなので十分ありえる。今一つ、この事態の構図が想像出来ない諸兄にお伝えするならば、逆再生で井戸へと帰っていく貞子のお笑い映像を想像していただければ幸いだ……間違いなく、その塩梅で母は首をやった。
 しかも、2度目だ。奇跡に2度目はない。 

 CTの指示音声が廊下に木霊する。コロナ禍の午後4時過ぎ、300床越えの病院は大方の通常外来を終え、何処か静かだ。
『息を止めて・呼吸を楽にして下さい』
 愚かだが、一瞬でも母がその指示に従える程度に回復したかと期待してしまったものの、すぐにアレは自動音声だと思い出した。実際、救急搬送室に通されて目にした母は、人工呼吸器を装着しており、意識があるとはとうてい思えなかった……そもそもあんなモノ、意識がある状況で口に突っ込まれたら、ガチで苦痛以外の何物でもない。
 CTの結果は心肺、脳に異常はないと告げられた。なので私は医師に、頸椎を以前にやっている話をした。時期に他の、整形関係の医者も顔を見せ、その通りだという結論に至った。
 同時に血液データも見せて貰ったが、動脈血の酸素濃度はかなり低い。続けて脳へのダメージは、蘇生に30分以上もかかったので、と言われて出来上がるのは、心肺だけが動いている血肉の詰まった革袋だ。それでも、誰だって希望は抱くかもしれないが、何せ病院経験者、フワフワ希望がクソ汚い現実を生み出す光景は、吐き気がする程見ている。
「延命はしないでください」
 私はその場ですぐさま伝えた。伝えなければ、と焦りさえした。
 ……以前、病棟で、『明らかに稀に見舞いに来る親族』に出会った事がある。脳梗塞で数年以上寝たきりの女性を前に、『お姉さんは僕の事を分かっていますよね?』、とそれこそ670代の男性に聞かれた。その時は曖昧な営業スマイルを浮かべてお茶を濁したが、寝たきりの患者と付き合い続けた私は、あらゆる意味でそういった人間が嫌いだし、そうなりたいとも思わない。

 そこで話が終われば未だ楽だったが、前後して警察が呼ばれた。
 

 ところで、ドラマを含めた『他者の経験』の追体験は、人生にとって非常に有益だ。
 たとえば人気ドラマ『相棒』は、警察視点から事件を解決していく長寿人気番組だ。無論、警察事情の全てが赤裸々になっている訳では無いが、各々の状況における警察官の心情や行動原理などは分かりやすい。『相棒』を見ている間は誰だって、ちょっとした警察官体験をしている様なものだ。
 このドラマを知らなかったら、私は確実に大暴れしていただろう。

 何せ警察官は、この状況下で前置きなしで、『この案件に殺人・傷害の可能性はないか』の視点で会話を始めてくる。実は杉下右京の様な前置きさえない。
 普通の人間なら、何故にこの状況で『いきなり』、ここ数年の人間関係を聞かれるのか、と勘ぐるだろう。母親の出生地から経歴まで聞かれるので、本当に知らなかったら拒絶をしても不思議ではない……相棒でもよく、容疑者(仮、否定を含む)がなんで総じてあんなにも不愉快そうなんだと感じる人も多いだろうが、実際彼等の立場になってみると、被ダメを喰らっている時に痛くもない腹をガツガツ探られるのだから、そりゃあ不機嫌の一つも出てくるだろうと納得出来る。
 というか彼奴等警察官、ガチで葬式の場に、『この案件に殺人・傷害の可能性はないか』で顔を見せるからね! 見せたからね!! 『相棒』履修してなかったら、第二の傷害事件が起きてたところですよ!!!
 

 しかもこれには、酷い続きがある。

 『事情聴取』も終わり、猫の世話があるから、と『現場』に戻った私は、まずは痛みものの処分に入った。なんだかんだで、『母がいきなり死んでしまった状態』なので、心身共に非常に消耗している反面、どこか冷静な部分もある。
 文面の根底に漂っている、微妙に冷静な理由の一つに、私の両親、両親側の祖父母の言わば『インスタント・デス』率が、この案件を以て8割越えしてしまったという現実がある。6人中5人が即死……一応ここは平和大国日本の筈だが、事実現実、即死率は8割越だ。
 それもあって、最早ここに母が帰ってくる事はないのだ、と悟っているので、猫の餌をやりつつ、まずは痛みものの処分を行った……昨日、私が買ってきた牡蛎とサザエが手つかずだったのと、机の上に転がる45本の空のプラパックの焼酎、ワインボトルを見て、どれだけ飲んでいたのかと頭を抱えた。
 抱えながら、ともかく一通りの痛みものを片付けた。
 その午後9時過ぎ、警察から連絡が入った。
『遅くにすいません、少し、家の方を拝見させて頂けませんか?』
「あ、私、飲んでいますし……」
 そもそも遅くありませんか、と言外に告げたのだが、相手の反応は斜め上だった。
『大丈夫です、自分達、夜勤の者なので』
 ……ここ広島県にも『ぶぶ漬け食べていかはりますか?』と言う言い回しというものがあって、『遅くに』というのは、要は午後10時なんかに来んなという意味合いである。
 だが、彼等は警察官だ……というか、送迎に来るというのだから、こっちに拒否権がまるでない。そうして連れられていったのは、つい先程片付けたばかりの家である。
 そうしてやってきました、相棒案件。
「何か、動かしましたか?」
「はい……現状維持が原則でしたね……(相棒履修済兼医療従事者)」
 一端は鍵付きの部屋に仕舞い込んだ母の、通帳入りのバッグを持ち出し、廃棄した焼酎ボトルを再度配置する。そしてよくある様に、財布の中から紙幣硬貨を一つ一つ取り出し、丁寧に並べ、撮影する……『強盗傷害の可能性があるのを否定していく光景』を突きつけられるのは、地味に辛かった。

 この話をするとほぼ全員から、『郵便局員さんが早く見付けてくれて良かったね、お母さんは一人暮らしだもの』と言われるのだが。
 因果が逆である。
 郵便局員に対応しようとして、母はこんな状況に陥ったのだ。
 だが、私はこの郵便局員が悪いとは思わない、むしろこの事故のきっかけになった事を申し訳なく思っている……郵便局員さん、PTSDになってないといいな……

 運命力、という言葉を常日頃は使っていないし、論じられれば失笑するだろう。
 しかし2022年12月2日、母の運命力はそこで途切れた。仮に郵便局員に対応する、というこの日の現実が否定されても、近い将来、似た状況に陥っていたのではないか、と感じずにはいられない。

 状況報告を親族に行ったが、下叔母は一端電話を切った後(のつもりで切っていなかった)、ため息を零した。下叔母と私は、私が3歳の時まで同居していた相手だ。
「Capt.ちゃん……私は姉さんに立場上、言えなかったけど」
「うん」
「Capt.ちゃんの事を大事に思ってくれてるなら、酒は止めて欲しかったな」
「ほんまそれ(真顔)」

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