毎日忘れていく自分をどう残すか
「ママ、こう言ってたよ!」
娘が唇をアヒルのように突き出して、「あたし、怒ってるんだから」と腕組みスタイルでデモンストレーションをしながらこっちを見ている。
「あれれ、そうだっけ?」と反論すると、「そうだよ、だって……」と、私が忘れていたシーンを、驚くほど詳細に語りだす。
学生時代に暗記科目が得意だった私は、どこに行っちゃったんだろう。
「人間は忘れる生き物だ」ってわかっちゃいるけど、「覚えてなくてごめんなさい」と謝ることが、残念ながらここ数年増えてきたことは否めない。
今日読んでいた古賀史健さんのnote。
「記憶のなかで改変された物語は出てきても」という文章が、不安に追い打ちをかける。覚えていないことだけじゃなくて、覚えていると思っていることだって、かなり脳内で改変されているのではないだろうか。
脳みそのなかにある小さな「記憶」という箱からこぼれていく感情や体験。正確に知っているのは自分だけの情報を、自分が自分である証拠を、どうやって繋ぎ止めればいいのか。
そう考えたとき、10年以上前に観た映画を思い出した。
一晩寝ると前日のことを忘れてしまう女性と、彼女を愛し寄り添う男性の物語。『50回目のファースト・キス』。
ドリュー・バリモアが愛らしかったのを覚えている。
男優は誰だっけ、と映画サイトを見たら、アダム・サンドラーだった。
(うちのイタリア人の旦那は、たまに「ちょっと痩せたらアダム・サンドラー似」という、どう受けとっていいかわからないコメントをもらう。どうでもいいことだけど 笑)
毎日がゼロから始まるドリューのために、アダムはビデオを作る。ドリューは病気で前の日のことを忘れ続けているという事実と、それでもアダムは彼女を愛しているという想いを告げるビデオを。
そしてドリューは毎日アダムと恋に落ちる。
このビデオほどドラマチックじゃなくても、感情や体験を記録に残すのは、忘れていく自分へのプレゼントになるんじゃないか。他人には意味のないことでも、いつか自分に語りかけたい、大切な誰かに覚えていてほしい自分の足跡を辿れるようにしておくことは。
机の引き出しを開けて、一冊のノートを開く。
娘を妊娠してから、出産、産後の数か月間、不定期につけていた日記だ。
パラパラとページをめくると、秋サバが美味しかったとか、姑に離乳食のダメ出しされてイライラしたとか、そこには、どうでもいいことが散りばめられている。
他人にはどうでもよくても、行動して感じて、毎日確かに歩いてきた私の輪郭たち。
「ママは忘れっぽいんだから」
自分の優位を主張するために、どこで覚えたのか顎をツーンと上げて私を見る娘に、このノートを見せたらどんな顔になるんだろうか。
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