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物語にしない記憶の欠片を。

その電車でぼくは、いちばん前の車両に乗っていた。

運転席とその先の景色が見える場所で、たぶんなにかの音楽を聴きながら、前方の景色を眺めていた。電車は急行の停まる駅に到着しようとしていた。まっすぐに伸びたレールが、二股に分岐している。見ながらぼくは、なにも考えていない。自分が降りる駅はまだまだ先だし、そもそもヘッドフォンで音楽を聴いているのだ。

直進すると思っていた電車が、左に折れた。角度にして三十度ほど、景色が変わった。強引に、なすすべもないまま、こちらが思っていなかったレールへと、電車はその身を移した。

この瞬間を映画に撮りたい。と、そう思った。

先頭車両から見た映像それ自体ではなく、なにかしらの運命に翻弄され、不随意なまま、ぼんやり思い描いていたのとは違うレールを走らされることになった人間の、レールが切り替わった瞬間。それを映画に撮りたい、と思った。当時ぼくは大学生で、将来は映画監督になるものと思っていたのだ。


年々、むかしのことを思い出すのがむずかしくなっている。

十代や二十代の自分がなにを考えて、日々をどう生きていたのか——記憶のなかで改変された物語は出てきても——ほんとうのところはさっぱりわからない。なにも考えていなかったような気がするし、考えていたところで、それはろくでもないことだった気がする。

けれども、いくつかの瞬間については、鮮明に憶えている。しかもそれは、「あいつとコンビニの駐車場に座って、肉まんを食べながらあのバンドの話をした」みたいな、なんの事件でもなかったはずのシーンだったりする。精神分析的に意味づけすることがバカバカしくなるような、ただのあの日だったりする。

ただ、自分史の年表に残りようのない、「私の履歴書」の原稿から真っ先に削除されるそういう些末な記憶こそが、なによりも尊い「わたし」なのだよなあ、と思う。

あのころに日記をつけていたら、もっともっとおもしろかっただろうなあ、と最近つよく思う。血気盛んな決意表明をくり返すような日記ではなく、もっと静かな、生活を切りとっただけの日記を。