ト書き

ずっと好きだった曲のタイトルを忘れてしまって、歌詞を検索しても出てこないから好きだった気持ちごと無かったことにしたくなった。

共通言語がずっと無い。
誰かと話していても、どこかでどう頑張っても埋まらない溝が気になって、目の前の日本語を話す日本人のことをどうしても理解出来ずに、日々の感情表現はいいねに頼っている。

同じ言葉を持っているというだけでわかりあえるわけがないのにそんな気になって、だからわかってもらえないことにとても執着した。
そのとき相手を理解しようとする気持ちなんてなくて、ただ自分に賛同してついてきてくれることだけを愛だと曲解した。

もしこれからも言葉や気持ちが誰かの元に届いた瞬間に無意味なものへ変わる瞬間があるのなら、人生全部にト書きがあればいい。
台詞と台詞の間に書いてあるとおりに動けば全てが伝わるのなら、言葉の虚しさに抵抗する気も失くすだろう。

わたしがわたしを語るとき、いつもわたしが邪魔をする。どこまで行っても結局は客観性に欠けていて、わたしはわたしがわたしを完遂するにおいて最も面倒くさい敵だ。
自分のことを一番語れるのは自分だと錯覚しているから。誰かの瞳に映らない限り自分は自分へとなり得ることはないのに、わたしはそれを大抵忘れている。

わたしの優しさが同じ温度の優しさを持った人にしか伝わらないのなら、それがいつの日か共通言語となることに希望を見出していくしかないのだろうか。
もっと普遍的にそれぞれの優しさが蔓延ればいいと思っている。

今まで書き連ねたことの全て、それは、わたしがまだ誰かと本当に言葉を交わせる日を諦め切れていないということ。

何でこんなことで悩んでしまうのだろうか?
それはわたしがとびきり屈折していて、それでも優しいからです。


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