愛とMと夢の国(あなたの孤独は美しい-に寄せて)

ディズニーシーを歩いた。
ゲートをくぐってから雑踏を縫うように進み、常に誰かの足跡を踏みながら、私の足跡もまたすぐに後ろで誰かに上書きされていく。

約1週間前に、注文していた戸田真琴さんの著書『あなたの孤独は美しい』が家に届いて、私はそれを読み終えたばかりだった。
そこでは、戸田さんの人生での出来事、気持ち、そこから見つけた孤独観のようなものが、様々な視点から優しく綴られていた。

"オリジナルの愛で"

読み終えたあと、特に印象に残っていた箇所のひとつ。
愛に関しては幾度となく考えたことはあった。しかし、世で歌われているこの言葉の抱いている意味が極限までシンプルであってほしい、という私の祈りとは裏腹に、考えれば考えるほど難解になっていくような気がして疲れきっていた。
思考の沼に落ちていくほどに、憧れや羨望は実態を持たぬまま私を侵食していくのだ。

恋愛、家族愛、友愛。

『大切にしたいと思うこと』

自分の中で無理やり単純な言葉を使ってわかりやすくしては見るものの、欲が入っていたら汚いような気がして、私の愛への希望をそのままにしておくことを優先して破綻する。

大森靖子さんの『M』という楽曲の中で出会った少女Mは、

「本当は私を少しでも好きになって
くれた人みんなとセックスしたかった
だけど私は恋だったから
これができなかっただけで」

と綴る。

私は、私への恋でできているのだろうか?
本を読み終え、もう一度この曲を聴いた時、ふとそんなことを考えた。
少女Mは歌詞の中である方に恋をしていて、この人でないのなら永遠に一人でいい、と言っている。恐らくそんな意図は無いのだろうが、私にとってはその言葉さえそう思う材料になった。

私のことを好きでいてほしい。
思い通りにならなくて、歯痒くてもどかしくて、それでも願うままになってほしい。
誰よりも大切で、可愛くて、どうか幸せに生きていてほしい。

私が私に抱く感情。その全て、ではないかもしれないけど、それでも圧倒的に大部分の本質。中心の、一番柔らかいところ。

もしもこれを恋と呼ぶのなら、これと同じくらいの気持ちを、誰か私以外の人に向けようとすることを、恋愛をすると言うのかもしれない。
自分と相手に向ける感情に今までのバランスを崩されたり、相互的なようで何処までも一方通行の感情に戸惑ったり、その摩擦で苦しくなったりしながら。

私の望むこと。欲しいもの。叶えたい夢。
渇望していた孤独というスタートラインに、私は大好きな人の力を借りて、この身体で今、少しだけ立てたのではないだろうか。
ふと、本当にふと、そんなことを思った。

電車のアトラクションで移動する。
席に座り、揺られながら窓の外を見ると、私が歩いていた景色が上から見渡せた。
あの橋であの話をして、その後あのアトラクションに乗って、あの坂道を上ってきたね。


私が辿ってきた日々の中で出会った、私にならざるをえなかった、私にしかなりえなかった孤独たち全てといつか目を合わせて。
この人生の中で見つけたキラキラやそうではなかったものたちに、今日まで自分を守ってくれた秘密に、心から有難うと言って抱きしめることのできる日が来たら。

私はその光を、愛と呼ぶかもしれない。

パーク内。同じくらいの歩幅で歩く2人組の笑顔を見て、手を繋ぐ親子を見て、はしゃぐ制服を来た女の子たちを見て、
ショーが始まった瞬間の綺麗な花火を見て、
永遠だな、と思った。

永遠とは勿論ずっと続いていくこと、ではあるのだけれど。笑顔なんて繋いだ手なんて制服なんて、花火なんて、絶対そんなことはないのだけれど。
忘れてしまうことや一瞬で通り過ぎてしまうこと、死んだら全て無くなってしまうこと、大切なのはきっとそこではなくて。

独りにならざるをえないほど守り抜いてきた孤独と、自分自身へのどうしようもない恋心と、永遠と呼びたいほど灯り続ける私の中の確実な光を持って、欲があっても何が無くても希望を消さないまま、純度を保ったままの愛を、私はいつか手にできるのだと思う。

オリジナルの愛で、どうか私のままで。
静かな願いは、ゲートを抜けた瞬間歩き疲れた私の体内と少し曇った夜空に溶けて、私は駅を目指した。

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