無垢な光

眼鏡を忘れたまま一日を過ごした。

この視界が好きだ。私の好きな人も言っていた。いつもの駅が、ホテルのネオンが、信号機が、いつか見たバンドのミュージックビデオのようにぼやける。物体が光となる。いつもは下を向いて歩く駅の中も、前を向いて歩いた。同級生と目が合ったってどうせ見えない。

言葉が生まれる前にはモノが存在していなかった、とはよく言われている話だ。

言葉はモノに名前を付け区別をする。世界を分節化するのは物体自身ではなく言葉と私たちなのだということを、私は毎日を生きながらこんなに簡単に忘れてしまえる。

幼い頃、祖父母の家を訪ねるときに乗るのはいつも車だった。

父親の運転する車が夜に高速道路を走る。

そのときに見える世界が、ちょうど今日の夜に似ていた。

車の振動で目を覚まし、目をこすりながら見る窓の外はいつも光に満ちていた。

夜景は誰かが生きている証だ。そんなことも知らずに過ごした無垢な夜に憧れを抱いてしまうのは、きっと今の人生が思い通りじゃないからだと思う。

便利であるということは、いつだって工夫や創造の隙を失うことでもあるのだろう。

そのぼやけた視界が、目の前のモノが何かを知らない者にしか見えない光が、時々恋しくなる。その感性が、なぜだかすごく大切だったような気がする。

私は大人だ。想像力でどこへでもはもういけないし、種明かしをされた瞬間にガラクタと化す物語をいくつも知っている。

言葉の効力が信じられなくなる日、何かを見失いそうな日に、私はまた眼鏡をはずすだろう。自分の意志で、無垢な瞳を手に入れるためでもなく、世界を諦めるためでもなく、ただ光が光であるともう一度知るために。

明日から、また私は眼鏡をかけて生活するだろう。見えないのは不便だ。

でもきっと、明日は前を向いて歩けるような気がする。


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