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脳の髄まで雨瀟瀟サイドストーリー:前日・後日談

パース1: 秦純恵ハタスミエ


 寒風颯颯かんぷうさつさつ、傾く燃ゆる黄昏時、侑依奈ゆいなは煙のように消え失せた。それだけで。全くそれだけで。母として、絵のコーチとして、そしてマネージャーとして、侑依奈の代わりに矢面に立ち続けた純恵には。これ以上ない裏切りであった。

 純恵には侑依奈が居なくなる理由に心当たりの1つもなかった。侑依奈の才能の芽を潰さぬよう、手塩にかけて護ってきたという自負があったのだ。手間も暇も金も惜しまず、侑依奈のために使った。侑依奈が欲しがる物は全て買い与えた。侑依奈の才能を世に出すことが、自分の使命だと純恵は半ば信じていたのである。

 純恵の元夫——つまり侑依奈の父、司士。彼の会社の後輩との浮気。それが発端となり、司士と純恵は協議離婚と相成った。その頃から侑依奈と晴哉の間に横たわる亀裂を漠然と感じとっていた純恵は、姉弟を別れさせることを決意する。散々に懊悩し尽くした上での結論であったが、彼女自身にも利があった。

《これでやっと、侑依奈が「自分の絵」に打ち込める……》

 侑依奈は晴哉の画を常々意識しており、頻りに晴哉が画を描く姿を見たがった。あの子も集中したいだろうから。邪魔するのは辞めなさい。純恵には懸念があった。その行為は侑依奈自身の画を、侑依奈の個性を潰しかねない。事実、侑依奈の集中を途切れさせるのは決まって晴哉絡みであったし、ほんの僅かずつではあったが、晴哉の画の色遣いや角度に、侑依奈が影響を受けつつあるのも純恵は知っていた。

晴哉あのこの画は芸術じゃない》

《吐露。》

《感情を薄汚く吐き散らしているだけ。見るに耐えない》

《侑依奈の画こそが芸術》

《誰にもあの子を変えさせやしない》

 純恵は上手くやった。2人を自然な形で離した。しかし、それは「世間から見れば」である。沈黙する侑依奈の眼が平生とは異質な光を帯びていることに………、気づきはしなかったのだ。




 侑依奈が居なくなったことを知った純恵は、黒髪を掻きむしり、けたたましく裂帛れっぱく叫声きょうせい。他の何を失えど、こうはならなかったろう。カーテンを引き裂き、洗濯機を引き繰り返し、クローゼットの洋服を1着残らず放り捨て、冷蔵庫の奥底まで撒き散らした。だが侑依奈は見当たらない。箪笥、文机ふづくえ、椅子、本棚。見当たらない。籠、袋、紙、錯乱。およそ人間の入るスペースの。ない場所までもことごとく。居ない。なぜ居なくなったの。純恵の脳裏をよぎったのは、ただ1人。

 晴哉。

「晴哉!」「出しなさい!」「そっちにいるのは分かっているんだから!」

 電話越し。説明もせずまくし立てる純恵に、晴哉は無論当惑する。小一時間純恵を宥め、やっとのことで状況を概ね把握した晴哉が放った一言は、純恵の神経を逆さに撫でた。

「でもそれ、母さんのせいだよ」

《あんた如きに……》

「あんた如きに、離れていたあんた如きに、私と侑依奈あのこの何が分かる!ッ 私は、あの子のために全部費やしてきたのに! 無私であり続けた私の苦労も知らないくせに! 誰も、私に、感謝しや、しない!ッ……」

 純恵は顔も見えぬ1人息子に向かって、息を吸うことすら忘れ憤激の言葉を浴びせた。襟まで汚す涙すら厭わず。許せなかったのである。何もかも。

「……ごめん」

 晴哉はくぐもった声で答える。

「確かに僕は理解が足りてなかった。母さんのこと、姉ちゃんのこと、ちゃんと見ていなかった。……それでも、姉ちゃんと僕を離したのは、母さんだから」

 息を呑む。純恵は何か言おうと口を虚空に向かって動かしたが、呑まれた息は胃の腑に消えた。電話も切れた。涙も空だ。

 通話の切れた、暗くて狭いスマホの画面。純恵自身の顔が映し出される。化粧は崩れ、白髪が混じり、眼元には黒の絵具で塗り潰したかの如き深い隈。彼女は呟く。

「醜いのね、私って」………






パース2 : 袴見ハカミ教授


 侑依奈に出逢ったことは、殆ど奇跡の巡り合わせ、神の采配さいはいである。袴見は同僚の助教授にそう話す。侑依奈からすれば、神も仏もその時死んだと言っていい。もし袴見と出逢ったことに、何らかの超常的な存在が関与しているならば。侑依奈はそれを、悪魔と呼ぶだろう。


 袴見が侑依奈を見つけたのは、彼が51歳となる年の盛夏であった。袴見は休暇に一人旅をするのが趣味で、若い頃は世界を、中年となり体力の衰えを感じてからは国内中を旅した。散策し、見た光景をスケッチする。旅先では絵のことだけを考えるのだ。元来、袴見は一人旅が好きな人間ではない。かつて彼と旅をした女性ひとは、既にこの世を去っている。火事。3つ下の妻は火に焼かれて早逝した。

 旅先。蝉の声が闇までつんざく真夏の夜更け。袴見は散策の後、小さな公園にたどり着く。ブランコに座る。錆びついた鎖が鳴くように軋む。徐ろに地面を眺めた袴見は、ビクリとした。街灯の光。揺れる影が、3つ。自分の影と、あとは。

「……チッ」

 舌打ち。恐々、背後を振り返ると、茂みの奥。体格の良い髭面の男が袴見を睨め付ける。夜に溶け込む真黒のTシャツ、その半袖をこじ開けるようにはみ出る力瘤。左腕にうねる山楝蛇やまかがしの刺青。

 男は乱暴な音を立てながら茂みを出ると、ベルトを締め直してその場を去った。風の泣く音。袴見は気付いていた。取り残されたもう一つの影の正体に。うずくまる少女。虚ろに首を垂れ、脱力した彼女の眼に、光はなく。髪が乱れている。Tシャツは肩から胸にかけ引き裂かれ。そして、……袴見は動転した。少女の襟周り。紅く染まっているではないか。

「き、君、どうしたんだね!」

 少女の元に駆け寄る袴見。首を傾げ上目遣いで袴見を見つめるこの少女こそ、後に世界屈指の絵師となる秦侑依奈その人である。袴見は闇すら吸い込むような彼女の視線に、些か気圧され、唾を呑んだ。そもそも襟周りに付着していたのは血ではなかったのだ。赤い絵具。滑らかな白磁の如きその右手には、一本、油彩筆が握られている。赤い、絵具。彼女は尻の下に描きかけの油絵らしきものを敷いていた。恐らく、踏みつけられそうになったのを庇ったのだ。絵具も足元に散乱している。パレットからぶち撒けられた色とりどり。その殆どは、袴見の眼には映りはしない。しなかった。何故か。

 彼女の油絵。袴見はすこぶる興奮していた。なんて「」だ。「絵」ではない。これこそまさに、「画」であった。袴見が嘗て幾多の犠牲の上——時に血を呑み、時に虫を喰らい、時に妻を炙ってまで—— 求めた「画」が眼前にあるのだ。

 まさか、この一枚を、こんな幼気な少女が、描き上げたというのか、いや、まさか。


 袴見は近くにあったコンビニで侑依奈のTシャツを新調した。侑依奈に着せる。サイズが些か大きかった。ダボついた裾がお気に召さぬ侑依奈は、何とか縛ってしまおうと試みている様子である。

 袴見は頭を下げて頼み込む。手には万札が10枚ほど。

「頼む、この画を私に売ってくれ。金も出す。買わせてくれないか」

「イヤ」

 侑依奈は袴見の方を一瞥もせずに撥ね退けた。商売には全くもって関心のないようである。作品を商材として見ないタイプだ、袴見は直感した。

 だがしかし、結果的にこの画は袴見に渡ってしまうこととなる。袴見が美大教授、と名乗った途端。侑依奈はやっと、袴見に向き直り、顔をまじまじと見つめてから、こんなことを口にした。

「約束して下さい。この画を描いてるのは、ハタナ。ハタナってことを、忘れないこと」

 袴見はうむ、と深く頷いたが、この約束は侑依奈が失踪するまで思い出されることはなかった。

 彼女は、「ハタナ」を見ようともしない袴見に、全く愛想を尽かしていたのである。







パース3: ハタナ、或いは秦侑依奈という少女


 そもそも、秦侑依奈という少女は何を求め、何の為に、何処に消えたのであろうか。

 侑依奈の周囲の人間は皆、侑依奈の画を褒め称えた。侑依奈の才能を賛美した。しかし、彼女は一時いっときたりと、それらの賞賛で満たされることはなかった。

 果たして彼女には、才能、しかなかったのか?

 侑依奈は来る日も来る日も、油彩筆を使って眼球を潰したり、手の指を全て折ってしまったり、そんな妄想ばかりしていた。自分に才能を体現する手段がなければ楽になる、と考えていた。解放される、と。

 しかし、毎回寸前でやめる。恐ろしかった。教授も、同級生も、母でさえ侑依奈の才能しか見ていない、求めていないのに。死ぬのは怖かった。逃げの手段として自死を選べば、再度にどと祖母に顔向けできないような気がしたから。たった1人に認められたいがために、たった独りで白いキャンバスと闘っていた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザは、誰もが知っている。だが、レオナルドの幼少期については殆ど伝承がない。ミケランジェロのダビデ像を、誰しも写真やテレビで一度は見るだろうが、彼が僅か14歳で画家として認められていることを知る人間はどのくらいいるのか。

 侑依奈は恐ろしかった。自分の生き様が消えてなくなることは、とんでもなく恐ろしいことだと考えていた。自分の性格や、声や、動き、考え方は、後世誰の記憶にも残らず、単に数多いる「いい画を描いた才能ある人間」の1人として名前が刻まれる。画だけ。誰も本当の彼女を知らないのに。知ろうともしないのに。誰も、誰も…………

 それでいい、と思えた時期もあった。画さえ残れば、自らを証明できる。作品こそ自分の存在意義で、才能こそ神から授かった唯一無二の手段なのだ。心底そう思えた時期もあった。が、その浅薄な考えは或る日、露と消え失せる。弟の画。彼の素朴で率直な画は、才だけを贅沢に使い尽くした彼女の画とは全く異なる。つい、描き手の人柄さえも知りたくなる、そんな画だった。まさか弟に。歳下に。1番、抜かされてはいけない人間に。

 歳の差、ではなかった。才能の問題でもない。ソレは侑依奈の求めたものであり、かつ、酷く絶望的なことに、彼女が持つ大きな才能を表現として昇華するには、犠牲にする他なかったものだった。

《全員に刺さる画。それは1人を深く刺し貫かない。致命傷になる程引き摺らせたいのに。画の中の「ハタナ」を見て欲しいのに》

《晴哉は、たった1人と、画の向こう側にいる、たった1人と、戦ってた。だから、『たった1人』を、掴める》

《……ハタナにだって。》

 侑依奈はそれから、画の中に、「ソレ」を突き詰めるようになった。嬉しいの「ソレ」、悲しいの「ソレ」。苦しいの「ソレ」、楽しいの「ソレ」。「ソレ」に衝き動かされるような画を描く晴哉を横目で捉えながら、侑依奈は自分の芸術と「ソレ」の共存を日々模索した。「ソレ」と向き合い、制御し。然すれば。侑依奈は憧憬をも飛び越えて、人類が未だ見ぬ「美」の極地を彼女自身が体現できるであろうことを確然と理解していた。していた、のである。

 道半ばだった。

 完全無欠の美など。人の夢。故に儚い。


 両親の離婚により晴哉と離れてから暫くして、侑依奈は自分の「ソレ」が薄れていくのを感じ取っていた。美味しいものを食べても。水族館に行っても。母が「画業のため」と言って自分の行動を制限してきても。そのせいで学校に行けなくなっても。友達から心配されても。夜の公園で犯されても。密かに尊敬していた教授に助けられ、画を買い取って貰えても。教授に認められ美大にストレートで合格しても。天才画家としてあらゆるメディアに持て囃されても。昔の自分の画に15億もの値段がついても。……弟が浪人したことを聞いても。

 どんな「ソレ」も湧かなかった。

 ただ、真黒の鉄球、それを丸呑させられ、胃の腑の底に沈められたかのような、息の続かない、暗い、暗い、絶望感だけに、ゆっくり、ゆっくり、支配されていく感覚を、人差し指の先の神経から、眼の毛細血管までが、過敏に、感じ取っていた。過敏に。そう、それだけは哀しいくらい、過敏に。……

《ハタナには、無理なんだ》

 何かが、滑稽なまでに鏗然こうぜんと音を立て、壊れた。




 寒風颯々、傾く陽燃ゆる黄昏時、侑依奈は誰にも告げずに家を出た。幸いだが、金銭面は問題ない。1年間、孤独に世界を彷徨し、疲弊した身体で街に戻る道すがら。山の麓。炯然けいぜんたる星々を見上げながら、晴哉を思い出した。腹が立つ。侑依奈は久しぶりに「ソレ」を取り戻した。自分に腹が立つ。何も出来ない、何も為せない。天才なんて大嘘。ハタナには「美」は為せない。きっと20年。もって20年。20年を過ぎたら人の記憶から風化して、ハタナの画なんて誰も見やしない。もし「美」に迫れるとしたら、それは、晴哉だから。

《ハタナだって出来たのに。もう少しで、出来たのに》

《酷い神様》

《ハタナをこんな風に、産んでおいて》

《ハタナに振り向いてくれない世界なんて。ハタナを見てくれない世界なんて。》

《いっそ、壊れてしまえば。……》

 秦侑依奈は星に強く願った。あまりに強く願い過ぎたのである。彼女は画家だったから。世界を染める力を持っていた。持ってしまっていた。世界の螺旋が逆回転を始める。紫の雲が空を覆った。虹色の雨が降った。人々は機械人形よろしく踊った。


 晴哉と、侑依奈だけが、取り残される。






パース?: NAME


 世界は晴哉の行動によって元通りに動き出した。しかし、晴哉の願いは叶わず、侑依奈は自分の意思で地獄に残ることを選ぶ。彼女は元の世界に飽き飽きしていたのだ。侑依奈が居なくなった世界で、侑依奈の画は20年語られ続けるだろう。そして忘れられるだろう。それでも、晴哉だけは。晴哉だけは侑依奈のことを認めていた。画家としてのハタナでなく、姉としての侑依奈を尊敬していた彼が、彼女の目指した「美」を受け継いだ。これほど信用できることはない。


 晴哉と別れた後、侑依奈は閻魔とメズキの居る場所まで帰ってきた。閻魔は首を傾げて尋ねる。

「しかし、キミも奇特な奴である。何故戻ってきたであるか? 晴哉の行動に口裏を合わせて、選択肢も分かりやすく引っ掛けを作ってキミも逃したであるのに。また地獄ココに戻ってくるとは」

 閻魔には元々、晴哉と侑依奈を地獄行きにする気が一切なかった。これからの先を持つ2人に対し、閻魔は慈愛に溢れていたのである。ただし、ルールの上では、侑依奈は確実に地獄行き。これではいけぬ、と閻魔は一芝居打ったのだった。

「しかしアタイの名演技がなければ成せなかった所業だったであるな! 同時に2人を無慈悲な神から救ったのであるから! ま、勿論演技はしかたなーくやったである。感謝するである!」

「その割には楽しんどった気ぃするけど……」

「メズキ! 黙るである!!」

 閻魔は、小声で呟いたメズキの頭を掴むと巨大な炊飯器の中に叩き込む。メズキからは潰れた猫のような悲鳴。侑依奈がそれを聞き、笑いを堪えるように口を塞ぐ。マントを翻しながら近づいてきた閻魔に、侑依奈はこう言った。

「ハタナ、ここで働かして欲しい」

 閻魔は「ん?」とも「む?」ともつかぬ、頓狂な声で返事をした。

「ハタナ、死ぬ気はなくなった。でも、画を描く以外にも、やれること増やしたい。向こうの世界ではとても無理。そしたら、地獄の仕事、思ったより楽しそう。閻魔様も、優しいし可愛い。画も、もっと良くなりたい。閻魔様、お願い」

「ぬっ、むっ、んっ、んんん〜……」

 閻魔は眉を顰め口をへの字に曲げながら何やら熟考していたが、やがて諦めたように溜息を漏らした。

「まぁやれないことがないでもないである……」

「ほんと……?」

「罪を犯した人間に、終わらぬ夢を見せる仕事である。生半可な気持ちでは無理であるぞ。罪人とはいえ、何も知らぬ人間を騙す役割であるからな」

「騙す……」

「無理ならやめておくである。ちゃっちゃと戻るである!」

 侑依奈は閻魔に半ば睨みつけるかの如き強い眼を向けた。

「……やる」

「ぬーっ、勝手にするである!」

 閻魔は唇を尖らせそっぽを向く。そしてマントを翻すと、風に吹かれた蝋燭ろうそくの火のように、ぽっ、と消えてしまった。

 炊飯器の中から這い出してきたメズキが、侑依奈に声を掛ける。

「ふぁんたずまで働くっちゅうことなら、相方がおるで。こないだ入ってきた新人でなァ。アンタといっしょや」

「どういう人?」

「ロックバンドやってた人間らしいわ。なんやったかなぁ、名前。渾名なら覚えとるんやけど。デモアってな」

「……変な名前」

「せやろ? 」

 侑依奈とメズキは目を合わせて笑い合った。また新しい画が描けるかもしれない。紅く染まった地獄の風景と裏腹に、侑依奈の右手には温かな「ソレ」が流れていた。

 いつの間にか、戻ってきたのだ。晴哉は「ハタナ」の、「秦侑依奈」の、雨を晴らしてくれた。

「……名前通りだね」

 侑依奈は誰にも気付かれないように、小さな声で、呟く。いつか晴哉にこの想いも届きますように、と願いながら。

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