少年が遺したもの

  2年前もやっぱりこんな風に暑かったけど夏の終わりを感じさせる日だった。
 赤ん坊の頃から遊んでやっていた甥のA君が中学生になり軟式テニス部入ったというので、公営のテニスコートを予約して皆で楽しむことにした。
 そこでのテニスは硬式テニスなのだが、A君のフォアは軟式テニスらしいぶんぶん振り回すスタイルで確実にミートしてくるから激しくスピンの掛かった球が返って来る。
 試合ではスピードについていけず返すのがやっとだった。それでも軟式テニスのやり方ではリターンしにくいバックサイドとか、ドロップショットやらロブやらを織り交ぜなんとか勝ったものの、もう半年もすれば歯が立たなくなるだろうと感じていた。どうやらA君はテニス部でも有望で、秋の新人戦では1年生で一人だけ選手として出場すると言っていた。
 中年オヤジのインチキテクに負け、くやしがるA君に「もうちょっとだな」と笑いながら声をかけたが、もうちょっと、、、が、叶わぬことになるとは。
 テニスを終え車に乗り込むA君は、膝に痛みを訴えていた。聞くと昨日今日痛くなったのではなく、ここのとこずっと痛かったらしい。筋肉痛か成長痛かな、でも一度診察したほうがいいな、と言ったきりひと月ほどがたった。

 それは二度目の受診だった。
 一度目の受診では原因が解らなかったのは、時期が早かったのか、運がわるかったのか、医者が予見がヤブだったのか?
 携帯電話で話す声のトーンが変わったツレアイは、電話を折りたたみながら「骨肉腫だった」と告げた。
 ワタシは絶句した。
 40年近くまえにその病名を初めて知った。近所の同い年の子どもがその病に罹り亡くなったからである。その時得た「足を切断しなければ治らない不治の病」これが、ワタシの骨肉腫の知識の全てで、40年ぶりに蘇った病名。
 テニスをしているときのA君の顔が浮かんだ。
 切断、、テニス、、障害者、、死、、、浮かんだ顔のうえをいくつかの単語が過ぎった。

 治療法は40年前から進歩していた。
 人工の骨と関節をつかうので切断しなくてもよい、それでもすり減ることしかない人工物の延命をするためにスポーツはおろか、松葉杖で生活しなければならない、膝の腫瘍よりも転移が恐ろしいなど。
 A君の癌はすでに肺に転移していた。肺のがん細胞をとることができ再転移しなければ、2年後生存率が50%。もしかしたら一度目の診断で正しく診断されていれば、転移してなかったんじゃないか。

 ここまでのほほんと生きてきた彼の両親は狼狽え、、、もちろんのほほんと生きていなくても狼狽えるのだろうが、、、それにしてもあまりにも頼りなく見えた。ワタシたち夫婦もA君はもとより、この両親も支えなければならないと強く感じていた。

 A君の闘病生活が始まり、一年半のあいだに膝と足の骨を入れ替える手術を一度、肺に転移したがん細胞を除去する手術を一度、さらに肺に再転移したがん細胞を取り除く手術を一度して、結局は片肺をすべて取り除くことになった。
 手術のたびにツレアイは徹夜の看病にいき、ワタシもちょくちょく顔を出したが、A君はいつも笑顔で迎え入れてくれ、無理に笑っている自分が悲しかった。A君の笑顔は最期までづっと続く。弟に「オレ死ぬかもしれない」と語ったらしいA君だが、心の底から「生」を信じて疑わないと感じさせる笑顔で、ワタシのほうがドギマギしてしまうのが常だった。はたして普段から生や死を考えているつもりでいるワタシがA君だったら、このように笑っていられるのか? 息子だったらどうか? ワタシは息子に、笑っていられるように育てられているのか?
 もちろんA君に苦しみや悩みがないわけがない、そう感じさせない天性の明るさがあり、ずっと笑いが耐えなかった気がする。

 A君の闘病生活のついて、ときどきの見舞いにしかいかなかったワタシに書けることはない。
 しかしワタシにも、1年半もの闘病はA君は当然のことだが、彼の家族の大変さは想像を絶するものであることは解った。
 A君の母親(妻の妹)は、なんとなく世間的にたよりなさげな人で、大丈夫かいな、という感じだった。ツレアイは医者の説明のたびに同席を頼まれたし、A君が病にかかったことでの病院や学校、役所への手続きも不備が多かった。突然の大きな悲しみを背負ったうえでの試練であるので仕方ないのだが、A君にもしものことがあったときこの両親は大丈夫なのか、ワタシたちは心配していた。
 ワタシたちがそんな心配しているあいだも家と病院を毎日往復したり、泊まりこんだり、病院の引越しをしたり、母親はどんどん痩せていった。手術まえに医者から判断を問われ泣き、術後の経過を聞くたびに泣き、再発の説明を聞き泣き、その繰り返しだった。それでも彼女はワタシが見舞いにいくと笑って迎えてくれた。A君の笑顔が耐えないのもこの母親の子どもだからかな、とふと思った。

 そして、1年半後最後の決断を迫られた。
 残った肺にも転移した、、、と。
 両親は誰に相談することもなく「これ以上苦しい思いはさせたくない」と言い、A君を家に連れて帰った。もって3カ月と医者は言った。
 3カ月、、ワタシもA君に何がしてあげられるか考えた。
 とりあえず池田晶子の「14才の君へ」を贈ろうと思ったのだが、A君は本はいらないから釣りへ行きたいと言った。
 そうか、と笑いながら応え、弁当をつくり皆そろってに3度ほど釣りへいったがずっと坊主だったな。釣れなかったから今度こそはと思い続けたのがよかったなんて言わないが、半年がすぎた。言われた3カ月を越えると、もしかしたらこのままずっと生きていくんじゃないか、と思えてくる。誰もがそう思いたかったのだが、現実はそれを打ち砕いた。

 ついにがん細胞は片肺での呼吸も苦しくさせた。
 再入院して2日経ってワタシは面会にいけたのだが、A君は笑うこともなく苦しそうに大きく胸を彈ませていた。「笑えない」彼を見るのは辛かった。
 「今度退院したらハゼが釣れる頃だから、ハゼならお前でも釣れるぞ」とやっと言うと、少しだけ笑い苦しそうに横を向いた。それから二日後の夜、彼は逝った。彼の弟とワタシの息子は初めての人の死に戸惑い、受け入れられずに、、、ではなく何がなんだか解らずにかもしれない、、声をあげ泣きじゃくった。
 彼の両親は、通夜から葬儀、火葬にいたるまで泣いたが、取り乱したりすることなく落ち着いていた。これがあの両親かと思うほど死を自然に受け入れていた。やれることはやりきったということなのか? 
 病を知った当初どうなることかと思っていたワタシたちなど、とても太刀打ちできない強さを感じた。
 そう、強い、と感じたのだ。
 A君とともに病と闘いぬいた強さなのか?
 とくに母は、結末など知ったこっちゃ無いと聞こえてきそうな強さ。
 自信をもって死を迎えているようにさえ感じた。
 泣いていたが、微笑んでいるようだった。
 そう誰よりも強く見えたのだ。
 もう病気も苦労も悩みも悲しみもなにもかも超えていたのかもしれない。
 ただ生き、そして死を受け入れた、ように見える。
 ワタシはこの強さに感動していた。

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