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味わうように読む PASSAGE日記 #5

学生の頃、自由だった。
読みたい本を、好きなだけ時間をかけて読んだ。
夜更けまで読み耽ってしまったり、いまいち気の乗らない本は「今はその時じゃなんだろう」とほっぽいて、他の本を読みはじめた。
読むことの自由さが私は好きだった。
2時間の映画は誰が見ても2時間だ(最近、映像を倍速で見る人も増えているらしいけれど)。
本は違う。同じ本を一日で読む人もいれば、三ヶ月かけて読む人もいる。況や読み終えなくてもよい。読み終えない自由もあるのだ。
私は本を読む時、ここが山場だと思うような場面で必ず本を閉じてしまう。読み進めたいことは山々だが、頭に浮かんだことをゆっくり噛み締めてその準備をする。それは今までの本のあらすじのふりかえりに限らず、本を読むことで呼び起こされた過去の記憶や、自分がむにゃむなとずっと考えていることの突破口になりそうなことがここに書かれているような予感のような、ないまぜの思考と感情。

幼い頃、本を読むと、壮大は空間が広がるように感じていた。
身体はここにあるのだろうけれど、本を読むことにより、私の想像力や思考力はどこまでもいけるような、そんな万能感を覚えたことすらある。
果てのない広さが恐ろしく、孤独に思えても、私はその場所が好きだった。

仕事に就いて、私は仕事のために多くの難解な専門書を読むようになった。
仕事なので本をただ読めばよいわけではなく、必要な情報を取捨選択し、論理的にリサーチ結果をまとめなければならなくなった。
私の本を読むスタイルは大きく変わった。
私は目次を読むようになった。どこに目的の情報があるか、効率的にあたりをつけるために。
時間短縮のため、流すような速読をし、必要な部分のみを抽出して熟読するようになった。
膨大な情報を有限な時間で効率的に捌くため、みながやっていることなのだと思う。

休日に仕事には関係ない本を読もうとしても、私は本の全体をざっと確認するし、目次を読む。大体何分くらいで読み終わるかなと無意識に計算する。一語一句を味わったことなどない。下手な速読で結構な文章を読み飛ばしている。
仕事の習慣が抜けないことに気づいた時に、私は呆然とした。

十年以上だ。
私は勤勉な労働者であったし、仕事に必要な知識を得るため最善の努力を続けた。
時には私生活を犠牲にして。仕事をはじめて数年は、休日も仕事関係の本を読み漁り、勉強に耽った。必要だったからだ。生きて、仕事をするためには、それが必要だった。

でも今、私は本を味わうことすらできなくなってしまっている。
誰も急かしていないのに、私が私を急かしている。
味わうように読みたいだけなのに、それができない。次の三行を瞬時に追いかけてしまう。そうして読み終えた本には何も残らない虚しさを十分以上に知っているのに。

軽い絶望が襲う。
十年以上、そんな生活をしてしまった。
ならば同じ以上の時をかけて、またあの読書体験を取り戻せばいい。もちろんすぐにはできない。時間がかかるだろう。

最近、人生の後半戦や老後のことを考える。
混沌とした世の中で、数年後の社会情勢すら誰にもわからないような世の中だ。
それでも私は豊かに生きたいと思う。
私の思う豊かな生に、無法に自由に本を読むことは欠かせない条件なのだ。

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