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効果的な悟り方とは?

【6月号致知を読んでます】P28

藤田一照先生のお話

2,3日前にyoutubeを見ていたら、安泰寺で修行されたネルケ無方和尚さんが、「凡夫のゲームを上手に行うために禅はあるのではない。何かに気づいてそこから降りる為に使うものなんです」とおっしゃっていて大変驚きました。

ドイツの方。でもそれって、禅の神髄じゃないかな?何の目的で禅を行うのか?
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日本人が

禅をアメリカ人に指導している時に、避けて通れないのが「彼らのマインドセット」「彼らのパラダイム」を変えることだそうです。

どのような分野においてもその道のエキスパートになるべし!という発想がアメリカ人のDNAには刻み込まれています。「べし」なんて、日本人では「あしたのジョー」の丹下団平しか言わないですよね。

藤田先生がアメリカに渡ったとき、ウエルカムパーティーの場で聞かれて

大変驚いたことがありました。それは

「必ず悟れるプログラムを作って欲しい」ということでした。

高学歴でよくものがわかっているはずのお医者さんが言っていたのです.
おこがましい言い方なのですがわたしはくすっと笑ってしまいました。きっと仏道修行は子供たちを育てることと同じです。

こうしたらこうなるというマニュアルが必ずはまるとはかぎらない。マニュアルに固執していると本質からかけ離れてしまう所も同じです

藤田先生の先生の鈴木俊隆老師も先にアメリカに来た時同じようなタイプの弟子を前にしてどのようにして禅の本質を伝えればいいか?と、ずいぶん苦しんだはずだとおっしゃっていました。

藤田先生は

鈴木老師の講話集を読むときに

前に書かれたような視点で目を通すと

道元の難解な言葉を

自分の言葉として消化して

伝えていたことがよくわかるそうです。

アメリカ人の悟りや修行に対する概念を

大きく変える上で

鈴木老師が一貫して伝えていた言葉は

「ビギナーズ・マインド」

熱心に修行しているといつか悟りを開くことができる

と考えるのは通俗的な考え方です。

禅はそのように考えません。

昨日と今日は同じように見えても

まったく別の一日です。

息をすることも

ご飯を食べるのも

すべてが最初で最後の一回

溜めておくことはできません

だから

「お皿洗い」も「風呂洗い」も

「食事作り」も「授業」も

一瞬一瞬が常にフレッシュなのだから

初心者として

取り組むべきだ!

と鈴木老師は教えたのです。

鈴木老師は修行の目的を

「初心そのまま保つこと」

と伝えアメリカの修行者に対して

今出会っている目の前の出来事に対して

フレッシュな気持ちで向き合うことの大切さを

繰り返し説きました。

でも、アメリカ人は

目的を考えた行動を

第一と考える国民性ですから

きっといつも我慢して、

繰り返し説いていったに

違いありません。

なかなか分かってもらえないなあと

思った時もあったでしょうね。

プラクティスという言葉は「練習」を表します

でも鈴木老師はこれを

【自分の中にある仏性に気づいてそれを育てていく修行】

と解釈し

「修行と悟りは一つである」

という深い解釈を込めました。

この教えも

「練習は本番のためにある」

と常に結果ばかりを追い求めている

アメリカ人にはショックだったはずです。

きっとアメリカ人にとって

固定観念をゆすぶられる経験だったことでしょう。

アメリカで禅の指導を続ける鈴木老師には一つの大きな願いがありました。

日本という範疇を超えて、

世界に通用する普遍的な価値を伝えることです。

日本と西洋という異質の文化が出会う中でお互いがお互いの良さを認め合い、それぞれの良さを学びあう中で、普遍的な価値観を得ることができると考えたのです。

こういう学びは戦争の時に役に立たないとおっしゃる人もいるかもしれません。

でも、日本には学んだことが戦を止めた時があります。

慶長5年(1600年)6月、息子の細川忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守りました。

7月に、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にいた忠興の夫人ガラシャは包囲され、屋敷に火を放って自害します。

田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されます。

幽斎が指揮する籠城勢は激しく抵抗しました。

そして、実は、攻囲軍の中に、幽斎の歌道の弟子も多かったのです。情けや思いやりが自分の命取りとなるこの時代でも、歌の師匠と戦うのは、戦闘意欲が乏しくなるものだったようですね(田辺城の戦い)。

幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけます。

でも、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続しました。

使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上します。

ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下されて、

関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれました。

幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて、9月18日に城を明け渡して、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入ったそうです。

1万5000の大軍に味方の来ない田辺城の500で対抗することができるでしょうか?きっと、何かがあったはずです。

異質の文化が出会う中でお互いがお互いの良さを認め合えればそれぞれの良さを学びあう中で、

普遍的な価値観を得ることができる。

これは、きっと世界で通用する考え方なんでしょうね。

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