村上春樹『風の歌を聴け』
「文章をかくという作業はとりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである」
小説冒頭部で引用された作家、デレク・ハートフィールド(なんとこの作家、実在しない)の言葉である。語り手の「僕」によれば、この「事物」には二つのものがある。自分の手元にあるものと、もう失ってしまったものだ。
しかし、「僕」はその二者と自分の距離を測ることはできないという。できるのはせいぜい、「得たもの」と「失ったもの」をリストアップすることだそうだ。
この小説の意義は、そのリストアップ作業そのものにある。作中、「僕」は実に色々なものを得て、そして失っている。例えば、それは作中に登場する “女の子”に着目すると分かりやすいかもしれない。
1人目は「僕」が三番目に寝た女の子。彼女は、大学のテニスコートの脇で、首を吊って死んだ。ついぞ「僕」は、彼女が死に至った理由を知ることはなかった。
2人目は「僕」にラジオで「カリフォルニア・ガールズ」という曲をプレゼントした女の子。「僕」は彼女が、5年前にレコードを貸してくれた女の子だと思いあたる。「僕」は彼女の電話番号を方々に尋ね、調べるも結局行方は知れず。「僕」はもう既に、彼女を失っていたのだ。
3人目は指が4本しかない女の子。「ジェイズ・バー」で知り合った彼女と「僕」は、海辺の倉庫街の石段に腰を下ろし、肩を寄せ合った。しかし、彼女もまた街から姿を消し、二度と「僕」の目の前に現れることはなかった。
このように、「僕」は3人の女の子を得て、3人とも失った。しかし重要なのは、「僕」が彼女らを得たこと、そして彼女らを失ったことには明確な理由が存在しないことだ。彼女たちは「僕」の前に理由も無く現れ、そして理由も無く消えていった。
このように、この小説は、「僕」が「得たもの」と「失ったもの」のリストアップすることに終始するのである。では果たして、このリストアップ作業に如何程の意味があったのだろうか。
「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなものもいりゃ弱いものもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか無くすんじゃないかとビクついてるし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配している。みんな同じさ。だからそれに気がついた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」
リストアップの末に「僕」が辿り着いたのは、持っている人間も、持っていない人間も、不安を抱えているという点で同義だというある種の諦念だった。<存在>と<不在>の二項対立はもはや意味をなさないのである。肝心なのはその不安に、少しでも立ち向かい、強くなった「振り」をすることなのだ。
さて、私は「風の歌を聴く」とは、その不安に立ち向かう勇気を持つことだと解釈しているが、少々性急な気もする。語り尽くすには、まだまだ私の技量が足りていない。唐突だが、ここらでひとまず、打ち止めとする。
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