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論点整理:呉座勇一氏と北村紗衣氏を巡る一連の論争――または、扇動者たちのオクラホマミキサー

 呉座勇一氏は、門外漢の私でも知っているほどの、著名な日本中世史研究者だ。

 メディア的には、井沢元彦氏や百田尚樹氏らを実証史学の立場から痛烈に批判したことで知られている。大河ドラマの時代考証にも関わっている人物だ。

 そのような呉座氏が過去の発言で炎上していると知って、私はにわかには信じられず、togetterのまとめサイトを読んだ。

(※現在はtogetter記事自体は削除済)

 率直に言って、開いた口がふさがらなかった。

 同業者である北村紗衣氏に対する、粗雑な批判や中傷の数々がそこにはあった。

さえぼうの権利主張こそ「私はこんなすごい研究者なのに女だから正当に評価されていない!」というのが根底にあって、エリートとしての義務を果たそうとしているところを見たことがない
ぶっちゃけ、さえぼうは「自分は凄いのに(女性だから女性差別の日本社会では?)正当に評価されてない」と言いたいだけだよな。ポスドクが言うならわかるんだが、もう後進を指導していく立場なんだから、社会問題に見せかけた自分語りはそろそろやめたらどうなのか。

 ……いかがだろうか。

 これは、北村氏に対する心無い中傷だ。とても正当な批判と呼べるものではない。

 そして同時に、鍵アカウントだからという「油断」もあったのだろうが、呉座氏ほどの立場も見識もある方の発言としては、あまりにも不用意だったと言わざるを得ない。

 私は普段はリベラルやフェミニストを批判することが多い人間だが、こと呉座氏の一連の発言に関して言えば、呉座氏を擁護することはできないし、北村氏は被害者であると思う。

 それは大前提として確認したうえで、呉座氏と北村氏を巡る発言について、もう一歩踏み込んでみたい。

 なぜ呉座氏の発言は「不当」なものとなっているのか。

 その言葉を生んだ「背景」には何があるのか。

 中傷と炎上の連鎖を断ち切るためにも、今ここで、私たちは冷静になって、論点を整理してみる必要があるだろう。


論点① 「鍵アカウント」による陰口について

 今回の一連の呉座氏発言が批判された一つの切り口として、「鍵アカウント」(※許可したアカウントから以外は閲覧を許可しない設定のこと)による陰口という方法が、陰湿で卑劣であったというものがある。

 「根拠がない、妄想だ」という批判自体は、批判を受けた側が妥当な根拠を示せなければ妥当性を持ちうる。しかし、鍵アカウントからそのような批判を投げかけられても、応答は不可能だ。

 そうでありながら、権威的な立場から、自分が閲覧を許可した「味方」に対してだけ、「この者はこんなにも愚かなのだ」ということを見せつけ、晒しものにする。

 小学校時代、誰かの悪口を書いた手紙を、こそこそと書かれた当人以外のクラスメイトに回す、という残酷な遊びを記憶されている方も多いであろう。

 これは「いじめ」の構図だ。しかもひどく幼稚な。

 そして、小学校時代のいじめと異なる点は、呉座氏という日本中世史研究の権威的な存在によって、五千人ものフォロワーの前で晒されているということだ。

 反論を許さない「見えない言葉」をあまたの人々に届け、当人が知らないうちに尊厳が毀損されていく。

 これは、SNS時代が生んだ新しい形態の暴力だ。

 そして、これは呉座氏だけの問題ではない。

 この種の卑劣さは、TwitterというSNS全体にいまや蔓延している。

 異論者を徹底的にブロックして、相手から見えない場所で、仲間内だけで悪口を言い合い、RTを入れて広める、そんな光景を見たことはないだろうか。

 もちろん、鍵やブロックはTwitterというSNSに備わった機能なのだから、それを使うことが直ちに倫理的に悪だというわけではない。精神衛生上、どうしても異論者から自分の言葉を見られたくないということだってあるだろう。

 だが、それを攻撃の手段として、安全な場所から異論者を吊し上げるための方法として用いるならば、それは直ちに陰湿な陰口の応酬につながる。

 実際、今回は批判側に立ったフェミニストやリベラルの少なからぬ数の人々が、逆に、異論者をブロックして、ブロック越しに「差別主義者」や「ミソジニスト」のレッテルを貼る行為を繰り返している(アンチフェミやネトウヨをまとめてブロックするツールもあるほどだ)。不可視の言葉で他者を批判するという点では、呉座氏の行為と全く同じ過ちを犯している。

 そしてそうしたブロック行為の横行は、残念なことに、ブロックをされた「フェミニスト批判者(アンチフェミ)」の側にも作用し、悪い変化をもたらしているように思う。

 つまり、フェミニストにブロックされていることによって、ある種の「安心感」が生じてしまっているのではないか、ということだ。

 フェミニストが見ていない場所であれば、フェミニストの陰口をいくら言っても反論されることはない。ブロック機能を能動的に使っていないだけで、やっていることは同じだ。不可視の言葉で、見えない対立者を悪し様に貶め、辱しめる。一方はブロック越しに、もう一方は被ブロック越しに。当事者の目に決して入らない言葉は徐々にエスカレートし、罪悪感を希薄化させる。

 インスタントに仲間を作り、寂しさを埋めるには実にもってこいの、お手軽な手段だ。そこで再生産される憎悪と分断に目をつぶるのならば……だが。

 そして、いつしか私たちは、ブロックと鍵機能という巨大な壁を挟んで、身内の団結のために、当たり前に対立者をこき下ろす、そんな構造にとらわれてしまっているのではないか。

 もちろん、そこには私自身も含まれている。

 程度の差はあれど、私も、あなたも、呉座氏の行為と同じような陰湿さに手を染めているのであり、この構造の再生産に加担しているのだ。


論点② 呉座氏の発言内容の不当性――藁人形、悪魔化

 私が最も呉座氏の発言で露骨かつ不当であると感じたのは、冒頭にも引用したこの発言だ。

「自分が正当に評価されていないと思っている女の僻み」

 呉座氏は対立者の内心を勝手に決めつけ、その思想が真摯な観想的・思索的な営みから生まれたものではなく、不純で感情的な動機に由来していると断定している。

 それは一人の研究者に対して投げかけた言葉として、著しく不当なものであり、当事者である北村氏が反論したことにははっきりとした正当性がある。

 呉座氏の他の発言を見てもわかるのは、北村氏としっかりとしたコミュニケーションを取ったわけではないにも関わらず、北村氏やその周りの(女性)研究者はこういうものだと、根拠なく断定しているということだ。

 そして、根拠なく悪印象を語り、レッテルを貼りつけている。

 これはただの誹謗中傷であり、不当な行為だ。そこに議論の余地はない。

 私たちが議論すべきなのは、呉座氏ほどの知性と見識を備えた人物でさえ、そのような発言をするに至ったのはなぜか、という点だ。

 私は、論点①で見た、「ブロック壁越しに交わされる不可視の言葉」という構造が、このような論敵の「藁人形化」を生み出しているのではないか、と考えている。

 TwitterというSNSの構造上、ただでさえ、私たちはフォロイーの言葉を選択的に摂取しているのであるが、さらに、この「ブロック」と「鍵」という構造は、自分たちの対立者の自発的な意見発信を不可視化してしまう。

 その結果、私たちが目にする対立者の言葉は、フォロイーたちがスクリーンショットや引用RTの形態で運んでくる、最も愚かで、最も暴力的で、最も非難に値する、最も愚劣な言葉の数々となる。

 そうやってブロック塀に打ち付けられる対立者の藁人形はどのような顔かたちをしているだろうか?

「男はこんなにもセクハラ気質で、暴力的なのだ」

「女は愚かで、感情的で、そして暴力的な男を好むのだ」

「フェミニストは美しい女への嫉妬から、性表現を炎上させている」

「アンチフェミニストは非モテでミソジニーをこじらせた差別主義者」

 等々

 こうした言説は見覚えがあるだろう。そして、数多のフォロワーを抱える「アルファ」と呼ばれるアカウントは、こうした自説に都合の良い対立者の発言を探し出し、時には切り取りさえして晒し上げる。

 断片的なツイートからの想像だけで生み出される藁人形は、日を追うごとに、言葉を重ねるごとに、悪魔に風貌が近似していく。

 私たちが見ている対立者(例えばフェミニスト/アンチフェミニスト)の姿は、まさにこうしたフォロイーたちの見せる幻影のパッチワークになってしまっている。

 そしていつしか、個人を見ることをやめ、対立者集団の名前が書かれた藁人形を、対立者個人と取り違えるようになっていく。Aはフェミニストだ、フェミニストは○○だ、ゆえにAは○○だ、といったふうに。

 フェミニストの表現炎上と向き合う過程で、表現物を悪し様に攻撃する人を取り上げて、選択的・優先的に批判してきたのは事実だ。

 しかし、この構造を受け入れ続けていれば、際限がなくなる。誤解と憎悪に基づく対立者への攻撃は、さらにブロックや鍵アカウントの拡大を招き、お互いの言説を不可視化した結果、言説はさらに過激化する……悪しきループと連鎖が、永遠に続く。

 そして、今回のように、ある日突然、爆発するのだ。その爆発は誰一人として幸福にしない。関わった人の心を傷つけ、評判を失い、結果として残るのは、さらなる憎悪と断絶と対立だ。

 私たちはこのループから、なんとかして抜け出さなければならない。


論点③ 謝罪後の呉座氏――「連帯」の是非


 呉座氏は自身の発言について、次のような謝罪文を掲載した。

 どうだろうか。

 このように、自分の中にある偏見を認めることはなかなかできることではない。改善に向けた「誓い」を述べられた呉座先生のこの言葉は、たいへん素晴らしいものであるように私には思える。

 憎悪と対立のループから抜け出そうとする、真摯な一人の人間の姿がここにはある。

 ところが、事態はここでは終わらなかった。

 北村氏を応援する多くの人々が、「連帯」を呼びかけ、声を上げ始めたのである。

 だが、呉座氏が謝罪し、自らの内の偏見と過ちを認めた後でなお、いかなる連帯がありうるのだろうか。

 その答えはすぐに明らかになった。

 「連帯」を果たした人々は、検証のために鍵を開けた呉座氏のアカウントを丹念に調べ上げ、3年間も遡って、彼の内心のミソジニーや差別意識を槍玉にあげ始めたのである。

 それどころか、中には、「過去に呉座氏にファボを入れた」「呉座氏を止めようとしなかった」というだけの咎で責められ、謝罪に追い込まれる者まで出始めた。

 事態はTwitterの外まで波及していく。呉座氏がNHK大河ドラマの時代考証役を自ら辞任することとなったのだ。

 これを受けて、北村氏に連帯を表明していた人々が、「これを機に」とばかり、NHKにこんな要求をする人まで現れた。

 これで終わりではない。

 自ら顕職を辞任しただけでは終わらせない、最後のひとかけらの社会的立場まで吹き飛ばさなければ気が済まないとばかりに、「電凸」の呼びかけを始めたのである。

無題

(※通報先の拡散を防ぐ配慮から、ツイートの下部を切り取った。
 URL:https://twitter.com/joytamachan/status/1373920292158930950)

 もちろん、当事者である北村氏自身が、自ら受けた不当な中傷について、呉座氏の所属組織に問い合わせをするとか、抗議をするということであれば、一定の正当性があるだろう。

「呉座氏の不当な中傷に北村氏が怒り、反論した」

 この北村氏の正当性は揺るぎないものだ。

 だがそのことは、非を認めて謝罪し、社会的責任を取った人間に対して、無関係な周りの野次馬が「連帯」し、よってたかって石を投げつけることを肯定するものではない。

「リベラル」VS「ネトウヨ」

「フェミニスト」VS「アンチフェミ」

「男性」VS「女性」

 そうした図式に回収し、対立を盛り上げて「連帯」している人々は、皮肉にも、界隈で呉座氏をはやし立て、北村氏への攻撃に駆り立てた人と、陣営が反対になっているだけで、まったく同じ過ちを犯しているのである。

 一人一人では弱く小さい声しか上げられない人々が、「連帯」して強者や多数者に声を届ける。これは良い「連帯」だ。

 しかし、もはや大勢が明らかになり、渦中の人が非を認めた後で、彼やその仲間たちを攻撃するためにする「連帯」は、私は「連帯」の名に値しないと思う。

 それは、ただの「いじめ」だ。

 そしてその不当性は、呉座氏が犯したものと、本質的には同じなのである。


結論:終わらない憎悪のオクラホマミキサー


 ここまで見てきたように、 Twitterというツールは、残念ながら、見たいものだけを切り取って見せ、それを増幅させてしまうアーキテクチャを持っている。

 もう一度、それぞれの論点に現れた、対立を加速させるメカニズムをおさらいしよう。

論点①:鍵とブロックで仕切られたTwitterの「界隈」では、対立者の生の声は不可視化されており、フォロワー(味方)同士の声だけが反響する空間が作られる。

論点②:対立者の言葉のうち、フォロイーの取り上げる攻撃的で愚かな言葉ばかりがTLを流れていくため、対立者の姿はどこまでも邪悪化されてしまう。いつしか対立陣営の言葉の集合と、対立者個人の主張や人格が同一視されるようになる。

論点③:対立陣営の誰かが過ちを認めたとき、それを受け入れるのではなく、自らの正当性と団結のために際限なく叩く。悪を擁護する者や、所属組織も同罪と看做し、どこまでも炎上を広げていく。

 言うまでもないことだが、このような構造が続けば、対立と分断、憎悪と悪魔化のループはどこまでも繰り返され、私たちはさらにその構造から抜け出しがたくなっていく。

 北村氏という個人が不当な中傷に怒った。呉座氏に反論した。

 本来はそこまでの話のはずである。

 ところが、それを「フェミニスト」と「アンチフェミニスト」、「リベラル」と「ネトウヨ」等々、いつしか「陣営全体」の話に膨らませ、対立構造に落とし込んでいく人々がいる。

 呉座氏や北村氏のような著名な個人であったり、

 クリエイターが思いを込めて作ったはずの表現物に火を放ち、

 「連帯」という美名で人々を酔わせながら、対立を加速させてきた扇動者たちが、この構造を維持してきた。

 自分たちの手は汚さず、ただ、憎悪と対立で酩酊した人々の耳元で、彼らはそっとこうささやく。

「それ以上いけない」

「○○先生の悪口はそれまでだ」

 呉座氏の攻撃的なツイートに合いの手を入れるかのように、そうしたリプライや引用RTがついているのがわかる。

 それは炎上というキャンプファイアーで人々を躍らせるオクラホマミキサーのように、対立の狂乱を煽り立てていく。

 はっきり言うが、これはいずれかの陣営や思想が狂っているというのではない。フェミニスト、リベラル、ネトウヨ、アンチフェミ、いずれかの思想だけが狂っていて、その狂気が対立をもたらしているのだと断じるや否や、私たちは対立の構図にとらわれてしまう。

 そうではない。

 あらゆる界隈にそのような「対立を喜ぶ」人々がいる。

 彼らは対立する陣営との「対話」や「議論」は無駄であり、どころか対立者を利する裏切り者だと断じ、対立を維持しようとし続けている。

 対立者を許すな、対立者にわずかでも味方する者は、一緒に燃やしてしまえと、魔女狩りよろしく炎に油を注ぎ続ける者たちがいる。

 確かに人間は、燃え盛る炎の周りで、連帯感を感じながら踊り狂うことに快楽を感じる生き物だ。

 それは、原始の時代から、現代の運動会に至るまで、変わらない人間の性質だと言えよう。

 だが、インターネットの憎悪運動会のキャンプファイアで焼かれているのは、生活も立場もある個人であったり、誰かにとってかけがえのない表現物なのだ。

 そして炎上が終わった後には、ただただ埋めようのない断絶と、憎悪だけが残る。

 こんな馬鹿げたことはもうおしまいにしよう。

 そろそろ、やかましく鳴り響くオクラホマミキサーを止めて、対立者の言葉に耳を傾けよう。


終わりに:なぜ私がこのnoteを書いたのか


 はっきり言えば、私は部外者である。

 呉座先生ともいっさい絡みがない。

 ことの原因となった呉座氏のツイートの多くに関わっていたテラケイ氏ならばともかくとして、私はなんの関係もない。

 だが、この問題に関して、呉座氏批判で「連帯」するみなさんは、この問題に絡めてなぜか執拗に私に言及しようとするのだ。

 一例を挙げよう。

 ここに登場する皆さんは、全員私をブロック済であり、要するに、私に見えないようにして、フォロワー向けに陰口をたたいているというだけの構造だ。

 これは、端的に言って、鍵をかけて北村氏を批判していた呉座氏と、全く同じレベルの行いだ。

 そして、極めつけはこれだ。

 結局、北村氏への「連帯」とは、なんだったのだろうか。

 北村氏への連帯を表明していた御立派な人々は、呉座氏を北村氏への不当な中傷へと駆り立た陥穽に、自ら落ちてしまっているのである。

 壁を作って見えないようにして、仲間内ではやし立てながら、他者の尊厳を辱める。

 対立を楽しみ、そこから利益を得るものがいるとしたら、これほど好都合な構図はない。

 これは私も自戒と反省を込めて言うが、アンチフェミの側にも、フェミニストとの対立を喜び、対立を維持するために、フェミニストをひたすら悪魔化し続けることに執念を燃やす人々がいる。

 そして、まことに残念なことに、私の言葉がそうした人々にとってかっこうの燃料を提供し、また利用されてきたことも事実として認めなければならない。

 だからこそ。

 私は、対立者の生の声にしっかりと耳を傾け、Twitterに限らず、様々な媒体で対話し、議論を深めることを目指した。

 もちろん、その道のりがいかに険しいかは私は身をもって知っている。

 かつて、私がフェミニスト運動家の石川氏と「これフェミ」で討論したとき、嘲笑や批判をぶつけてきたのは、フェミニストだけではなかった。 

 アンチフェミや表現の自由界隈といった、フェミニストを批判してきた人々からも、批判の声が上がったのである。

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「フェミニストと議論するのは無駄だ」

「対話に値しない」

 もちろん、フェミニストからは、青識亜論と議論するのは無駄で、対話の価値がないという罵倒がひっきりなしにぶつけられた。

 対立は楽しい。巨大な炎の周りで踊れば、もっと楽しい。

 なぜ青識亜論は私たちの愉しみを邪魔するのか。

 そのように言いたかったのかもしれない。

 けれど、やめるわけにはいかない。

 対話や議論を諦めることは、結局、人々を対立の輪の中で躍らせ続けたい人々の、思うつぼだからだ。 

 自戒と反省、そして決意を込めて。


 青識亜論