論点整理:表現物の「影響」とは何か?
いたましい事件が起きた。
幼少期の性的なトラウマは、被害者に一生残る心の傷を刻みつけるものだ。魂の殺人という表現も、おおげさなものではない。
また、反撃されないよう、力が弱く、判断力も未熟な児童を狙った犯行は、その動機をとっても卑劣であり、許しがたいものだ。
本事件の犯人は、その手口について「エロ漫画をまねた」と供述している。
この供述を持って、「エロ漫画が犯行を引き起こした」というような議論がまたしても盛り上がってきた。
果たして、この主張は妥当だろうか?
こうした事件が起きるたびに、「表現物が影響を与え、事件を引き起こしたのではないか?」という議論が、何度も繰り返されてきた。
漫画・アニメが法規制される寸前であった十年ほど前には、かなりの量の議論が積み上げられてきた論点だ。
だが、時間がたったせいか、そうした過去の議論がすっかり忘れられ、規制派も反対派も、議論のうえで後戻りしてしまったように見受けられる。
本稿は、そうした議論の積み重ねをもう一度、簡潔に再構築する試みである。
過去から表現規制に関する議論を追いかけてきた古参勢にとっては、いわば「復習」にすぎない内容ではあるが、そうした方々においてもおさらいしておくにこしたことはない話だと思うので(基本は常に大切である)、どうか最後までお読みいただければ幸いである。
論点① 表現物は個人に悪影響を及ぼしうるか?
しばしば、表現規制反対派は、「表現物は人間に影響を与えない」という断定をしがちである。
だが、果たして、いかなる場合も表現物が人間に影響を与えないなどということがあるだろうか。
日本の漫画文化が与えた「良い影響」として、しばしば言及されるのはサッカー漫画である『キャプテン翼』が、多くのサッカー少年に夢を与え、そして結果として多くのサッカー選手がその道を志すきっかけとなったというものだ。
サッカー選手になるということは、言うまでもなく、困難な道のりだ。限界ぎりぎりの鍛錬を積み重ね、幸運と資質に恵まれてはじめて手にできるキャリアだ。
当然、肉体的にも精神的にも並ならぬ克己心が必要であり、生半可な覚悟で目指せる道ではない。
それを目指す契機を一つの漫画作品が作ったとすれば、選手に与えた影響は恐ろしいほど大きなものだ。
ならば、それほどに大きな影響を個人に与えられる「漫画」というメディアが、悪い方向に契機を与えることがないなどというのは、あまりにも楽観的な想定ではないだろうか?
結論から言えば、逆もありうると言わなければならないだろう。
表現物が人々の精神世界に大きな影響を与えた事例は歴史上あまたあるが、フィクション作品に限って言えば、有名な事例としては『若きウェルテルの悩み』が挙げられる。
18世紀に刊行された文豪ヨハン・ゲーテの作品である『若きウェルテルの悩み』の事例は、中でも劇的なものだ。
この作品は、主人公である青年ウェルテルが、婚約者のいる女性シャルロッテと繰り広げる悲恋を描いた物語であり、恋心に翻弄されるウェルテルは物語の最後でピストル自殺をしてしまうというものだ。
ドイツ近代文学を代表するこの作品は、主人公ウェルテルと同年代の多感な青年達に大きな影響を与え、作中のウェルテルと同じ服装でピストル自殺をするという行為が流行したという。
同じく日本でも、18世紀頃、『曽根崎心中』のような心中ものの作品が大いに流行った折には、ちまたでも作品を模倣した心中行為が繰り返され、幕府が心中を描いた作品やかわら版(※江戸時代の新聞のようなもの)を取り締まる事態にまで発展したそうだ。
自らの命を絶つような行為にさえきっかけを与えるのだから、ましてや犯罪のきっかけやモデルケースになる事例には事欠かない。
例えば、犯罪にかかわる現金の受け渡しのために、走行中の電車から現金を投げ落とすという手口は、もともとある映画で描かれた手口だった。これは現実の犯罪でも真似をする事例が相次ぎ、多数の模倣犯を生んだ事例として知られている。
凶悪犯罪やテロについても同じだ。犯罪者を描写するフィクションや、過熱するマスメディアの報道が、あべこべに犯罪への着想や犯罪者への憧れを生み出してしまい、現実の犯罪の契機になった、などという事例は歴史上事欠かない。
結論を言おう。
表現物は、人間に大きな影響を与える。
人間は、表現物から良い影響を受けることもあれば、悪い影響を受けてしまうこともある。
そのこと自体を否定する主張は、現実を無視した無理な立論となってしまうだろう。
論点② 表現物が犯罪を引き起こしているのか
論点①では、表現物の影響は、良い影響も悪い影響も存在していて、一概に「表現物に悪影響など存在しない」などと否定するべきではない、という結論を導いた。
それでは、そもそも、表現規制反対派が「表現物に悪影響はない」などという立論に拘る理由はなんだろうか。何がきっかけで、そのような論調が人口に膾炙するようになったのだろうか。
話は10年以上前、「児童ポルノ法」改正問題の時期まで遡る。
当時、争点となっていたのは、漫画やアニメに描かれた「児童性愛」であった。
実在の児童を映した「実写ポルノ」が禁止されている理由は、被写体である児童の人権保護のためである。ならば、児童性愛を描いた漫画やアニメを禁止する理由は、絵の中の少年少女のためか? もちろん、そうではない。絵に人権はない。
そのときに規制派がもちだしたのが、「ポルノが児童性犯罪を引き起こすかもしれない」という論理だ。
「表現の自由」というのは、非常に強力な人権で、その規制のためには、誰か具体的な個人の人権侵害を防ぐためだという理由が必要となる(内在制約)。
絵の中の女性が性的消費されているとか、社会全体の女性の地位や名誉を損ねる、といったような曖昧な理由付けで規制することは、違憲立法となる可能性が高い。
そうした批判をかわすために、規制派が依拠したのが、児童性犯罪抑止という錦の御旗だった。
規制派は当時、次のように論理を展開した。
「例えば、覚醒剤のような麻薬の類を考えてみればいい。もちろん、君の体は君のものだから、本来はどうしようと君の自由だ。けれど、覚醒剤は禁止されている。なぜかといえば、覚醒剤は正常な理性を失わせ、暴力や反社会的行為を抑止する自制心を麻痺させてしまうので、結果的に、使用者を犯罪へと駆り立てるからだ。君が覚醒剤を使う自由は、善良な第三者に危害を及ぼす可能性が高いので、その危険を防ぐために制限されている。児童性愛を描いたポルノ漫画も同じだ。君がそういう漫画を見たり書いたりする自由を行使すれば、結果として、児童犯罪を引き起こす確率が高まり、罪のない児童の人権侵害につながるのだ」
確かに、ポルノが直接的に誰かを犯罪に駆り立てるのであれば、それこそ覚醒剤のように、人権保護の観点から制限する立法も合理化できてしまうだろう。
それゆえ、規制反対派は、論点①で見た「表現物の影響」を二つに分け、議論を整理した。
一つは、ポルノを見た人が、覚醒剤のように、いきなり理性が麻痺して反社会的・犯罪的傾向を発揮するようになるというもの。これがいわゆる「皮下注射効果」とか「弾丸効果」と呼ばれるもので、そうした効果がポルノに存在するという立場を「強力効果論」という。
もう一つは、「限定効果論」と呼ばれる立場だ。表現物の持つ影響というのは、あくまで「引き金効果」、つまり、すでにその人に内在する犯罪や反社会的行為に対する因子が「弾丸」として存在していて、表現物はいわば「きっかけ」を作り、「引き金」を引くにすぎないという考え方だ。
どちらが正しいのだろうか?
科学的には、いわゆる強力効果論は、誤りとみなされることが多い。
ポルノの視聴者が、なんの前触れもなくいきなり性犯罪に走ったりすることはないし、13日の金曜日に殺人鬼がそぞろ歩きしているなどということもない。
人間には理非分別の能力があるのであって、どんな過激なポルノ作品も、その能力をドラッグのように麻痺させることはない。
それゆえ、犯罪を防ぐために表現物を取り締まっても、根本となる弾丸――犯罪を生む根本原因である教育や家庭環境の問題――を放置しては、完全な徒労に終わるだろう、ということだ。
だが、こうも言いうるかもしれない。
仮に表現物に「引き金効果」しかないとしても、一つでも引き金を少なくすることは、犯罪を抑止する効果があるのではないか?
なるほど。一理ある主張だ。
だが、これは社会に引き金が無数にあるということを無視した論理だ。
犯行のきっかけとなったポルノ作品がなかったとしても、他のポルノ作品の影響を受けるかもしれないし、社会の全てのポルノ作品を取り締まったとしても、友人との猥談や動物の交尾を偶然目撃することが引き金になるかもしれない。
極端な話、太陽が黄色かったから人を殺した、なんて事例がでないとも限らないのだ。
また、表現物は、引き金として機能しうる一方で、逆に、犯罪を思いとどまらせる効果をもたらすかもしれない。
反社会的行為や犯罪への欲望を、フィクションの中の行為を見ることで解消することによって、現実にそうした行為に及ばずにすむ、といったようなケースも想定しうる(カタルシス効果)。
実際に、どちらのほうが効果が大きいかは、現実には、知りようがない。実験室レベルでは、ポルノが人間の攻撃性を増大させるという結果もあれば、逆だという結果もあるし、無関係だという結果もある。
ただ、一つ明らかなのは、社会全体の、マクロで見たときに、ポルノ作品が性犯罪を増加させる効果がある、とは決して言えない、ということだ。
現実に、ポルノが解禁されている国と制限されている国を比較したときに、解禁されている国の方が性犯罪率が高いというわけではないし(むしろ逆の傾向が見られる)、また、同一の社会で時系列的に比較したとしても、ポルノの普及や解禁が性犯罪を増大させるという明示的な傾向は見られない。
ということは、少なくとも、ポルノを規制すれば性犯罪が防げる、などという単純な結論は導き出せないし、犯罪の原因としてポルノを挙げるのも誤っている。
当時のこうした議論が忘れ去られるにつれ、「引き金効果」に関する説明をすっ飛ばして、短絡的に表現物の影響力を否定してしまう表現規制反対派が増えてしまったことが、「表現物にはなんの影響もない」論の発生原因ではないかと思う。
誤解を招かないために、表現規制反対派は、丁寧にそのあたりの議論をもう一度フォローアップするべきだろう。
引き金効果を少しわかりやすくするために、例え話をしよう。あるところに、現場にたまたま存在したガラス製の灰皿で、誰かを衝動的に殺してしまった人物がいたとしよう。引き金効果とは、このガラスの灰皿のようなものだ。殺人の原因は灰皿であると言えるだろうか。
もしそこにガラス製の灰皿がなく、他に凶器になるものがなければ、そのときは殺人が起きなかったかもしれない。しかし、その人の殺人衝動の原因となった怨恨や、短絡的に犯行に及ぶ人格的要因が除かれなければ、別の時に同じことをやらかすだろう。
もちろん、偶然にも、その後、彼の人格を劇的に変えるような事件や、被害者と和解できるような出来事が生じ、一生、その「引き金」を引かずにすむかもしれない。
しかし、もし、そのような運命が存在していたとしても、それは単なる偶然の結果にすぎないのであって、そのガラス製の灰皿を作った職人が悪いわけでもなければ、ましてや同じガラス製の灰皿を使っている人々を「犯罪予備軍」などと呼ばわってよいことにはならない。
そしてもちろん、世界中のガラス製の灰皿を規制したとしても、殺人犯罪の減少にはちっともつながらない。
このガラス製の灰皿をポルノに、職人をポルノの制作者に、そして灰皿のユーザーをポルノの消費者やオタクに置き換えてみても、話はまったく同じことだ。
その例で言えば、ポルノ規制派フェミニストは、ガラス製の灰皿で起きた殺人の例を列挙して見せて、ガラス製の灰皿こそが殺人の根本原因だと攻撃しているのに等しい。
灰皿で人を傷つけない限りにおいて、どれほどその灰皿のヘビーユーザーであろうと、同じような灰皿で誰かを殴り殺した殺人犯とはなんの関係もないし、灰皿を製作した職人はなんの罪の意識を持つ必要も無いだろう。
たまたまそこにあったガラス製の灰皿で一服した結果、殺人を思いとどまった人物がいないとも限らないのだから。
論点③ 表現物と表現者は読者の行為に「責任」を問われるべきか
これはフェアネスのために付け加えるが、犯罪などの極端な事例はともかくとして、表現物一般が与える影響に関しては、先に挙げた「限定効果論」ほど、表現物が人格に与える効果を過小評価する見方は、実際の所、現在のメディア研究ではかなり少数派になりつつある。
表現規制反対派の方も、少し、自分自身のことを振り返ってみて欲しい。
幼少期に読んだ漫画作品や小説、アニメやゲームの物語が、現在の自分の人格形成に重大な影響を与えるほど、感動したり、深い印象を受けたという経験はないだろうか。思い出して欲しい。オタクを自認するほどそうした作品を愛する人なら、それこそ、一度や二度のことではないのではないか。
自分の夢や目標、進路や職業の選択に、フィクション作品から受けた感動が影響している、なんて人も少なからずいるのではないだろうか。
かくいう私もそうだ。人生に影響を与えた作品を数えるなら、両手両足を使ってもまったく足りない。
表現物は、人間の「人格」に対して良くも悪くも影響を与える。それは、論点②で言うところの「弾丸」に相当するものだ。短期的に見れば確かに「引き金」にしか関わらないかもしれないが、長期で見れば「弾丸」を構成する粒子のたった一粒にも表現物が関わっていない、というのはあまりにも非現実的な見方だろう。
だが、かといって、暴力的な作品を見れば見るほど暴力的な人格になるとか、レイプポルノを見れば見るほどレイプしやすくなる、というような単純な因果関係にないことは論点②でも述べたとおりだ。
実際の表現物の影響はきわめて複雑である。
現代のメディア効果研究は、ある表現物の影響は、その人の置かれた状況や環境、受けてきた教育や知識等々、その表現物を受容する「文脈」に依存していると考えるようになってきた。
例えば、論点①で挙げた『キャプテン翼』の事例を考えてみよう。
キャプテン翼を読んだすべての人間がサッカー選手を目指すようになる、というほどその影響は単純なものではない。
サッカーを自由奔放に楽しむ主人公や、困難にぶつかっても前向きに努力してくじけないその姿を自分事として受け止められるような、感性や肉体的条件、さらには物語を共有する仲間や友人の存在があってこそ、それは現実の人生における「夢」として受容可能となる。
逆に、様々な肉体的・環境的な困難ゆえに、サッカーを楽しむことができない人がその物語を読めば、苦痛と恥辱で心を塗りつぶされるかもしれない。
あるいは、ひねくれた人ならば、自由にサッカーを楽しみ、成功まで手に入れる恵まれた主人公に反発を抱き、サッカーに対する反発や侮蔑が、かえって心に湧き上がるかもしれない。
それはどんな物語でも同じだ。
論点①でゲーテの『若きウェルテルの悩み』が多くの自殺者を生んだという話を取り上げたが、同時に、ウェルテルを含むロマン派の作品は、男女が個人として相互に尊重しあう新しい恋愛のあり方や、人生観、家族観を生み出したものでもあった。そうした作品を前向きに捉え、作品を通じて人格を陶冶し、立派な人物となった人々も無数にいたはずだ。
当時、ゲーテのような文学者を批判する人々は、いま、漫画やアニメが批判されているのと同じか、それ以上に多かった。恋愛を描いた小説は、青少年を堕落させ、倫理を失わせるというものだ。ゲーテの小説も、しばしば検閲の被害にあった。
ゲーテと同時代に、フランスの恋愛小説家だったスタンダールは、そうした批判に対して、こういう言葉を残している。
「小説とは、世界を映し出す鏡である。作家とは、この鏡を背負って道を歩いて行く人間のことである。」
小説という言葉を、漫画やアニメ、そしてポルノ作品に入れ替えたならば、現代でもこのスタンダールの言葉は通用するものであろう。
サッカーが楽しいということ。男女の恋愛がときに素晴らしくときに残酷でもあること。そして性愛の快楽に人間がどうしようもなく惹かれてしまうこと。
すべては、この世界の偽らざる一面の現実であり、表現者とは、表現という光で使って、世界を様々な角度から私たちに見せてくれる、そういう人々のことなのである。
鏡に映った内容が気にくわないからと言って、作家を責め立てたとしても、世界の現実は変わらない。スタンダールはそう言いたかったのではないだろうか。そう、事実、背中の鏡を割っても、サッカーも恋愛も性欲もなくなりはしない。
重要なことは、世界の都合の悪い部分を映した物語を見えなくすることではない。それは、単に人に目隠しをするだけで、なんの解決にもなっていないからだ。
本当に私たちがすべきなのは、物語の受容の仕方を学ぶことだ。
物語に描かれた善や正義を見いだし、自分もかくあろうと心の中に取り入れることも、悪や不正義の魅力と快楽を味わいつつも、現実は許されないことだ(だからこそ物語の中で存分に楽しもう)と考えることも、それは私たち自身の受け止め方の問題に過ぎない。
物語の影響は、その物語の読み手によって、いかようにも変わるものだ。
もっと言えば、物語を通じて何かを感じ、考える、その営みこそが私たちの人格そのものなのであり、
その力をはぐくむことこそが、本来の教育の役割であるとも言える。
私が、こうした表現物の影響論の際に、しばしば引用するのは、漫画『刃牙』の一節だ。
物語というのは、私たちが世界というものを精神に受容するための、いわば心の「食べ物」と言うべきものだ。
受容する力が整っていない、幼少期の子どもたちに与えるものについて、親や学校がある程度、目を光らせることは妥当な教育的措置であると言える。
しかし、長じてなお、世界の輝かしい部分、口当たりの良い、善因善果ばかりを描いた物語しか摂取しないのも、やはり「健全とは言いがたい」だろう。
善のみしか知らないよう純粋培養されたような心があるとすれば、やがてその心は悪の魅力や快楽と真正面からぶつかったときに、容易に溶け崩れてしまうだろうから。
悪の存在を知り、悪を悪だと認識するためには、悪を描いた物語を咀嚼してしっかり飲み込む必要があるのであって、それもまた、心の求める栄養素であろうと私は思う。
そうしてどのような物語を選び、どのように噛み砕いて消化するのかも含めて、それは私たちの人格の多様性というものだ。自由に様々な物語を口にできることこそが、「表現の自由」の素晴らしいところでもあり、強みでもある。
私たちの生きるこの世界を調理し、無数の物語のレパートリーをそろえるのがクリエイター、表現者という人々であり、なにを口し、どう血肉に変えるのかは、私たち自身(そしてある程度の年齢になるまでは親と教育者)の責任だ。
私たちの血肉が食物でできているのと同じように、私たちの心は、無数の物語によって作られていると言っても過言ではない。
幅広く、様々な世界の有り様を知り、取り入れていくことが大事なのであって、
私たちが自分自身で何を食べて、どのような肉体を作るかに全責任を有するように、
どんな物語をどのように解釈し、どのような心を持つかについては、すべては自分自身の責任である。
決して、物語に責任を問うことはできないのである。
以上
青識亜論